彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 4

1989.2.1


button 薫韋威二枚胴具足
button 小企画展森川許六の襖絵
button テーマ展雛と雛道具
button テーマ展遊ぶ

薫韋威二枚胴具足
(ふすべかわおどしにまいどうぐそく)

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 戦陣でひときわ目を引く朱塗の具足。彦根藩井伊家は、音に聞こえた「赤備え」の具足で勇名を轟かせた。兜(かぶと)・胴(どう)をはじめ主要な装具を朱漆で塗りこめた具足は、徳川家臣団の先鋒をになうにふさわしいいでたちである。

 上部左写真は、大坂冬・夏の陣(1614〜15)で東軍徳川方の将として彦根隊を率いて功名を上げた2代藩主井伊直孝の、召替用として伝来した具足。頭を保護する兜は、薄い鉄板5枚を組み合わせた頭形(ずなり)兜を用い、胴は、前後2枚を左脇で蝶番(ちょうつがい)として右脇で引き合わせる。籠手(こて)には、肘を鎖でおおい、肩・前腕を鉄板をたくみに重ねて動きやすさを考えた重厚なつくりとなっている。兜には、金箔押の大天衝(おおてんつき)(半月の両端を長く延ばした形)脇立(わきたて)を備えるのが特徴。一説に、直孝は大坂の陣で、兜をかぶらず鉢巻のみで戦ったと伝える。頭上高く陽を浴びて金色に輝く天衝が敵の標的となるのを避けるためとも考えられるが、軽量とはいえ60cmもの立物(たてもの)をつけての戦闘は、かえって動きが鈍ると考えたのであろう。病床の兄直継(なおつぐ)にかわり出陣した直孝にとっては初陣。直孝の心意気が伝わる話である。

 このような具足のスタイルは、初代藩主直政の召替用具足をほぼ踏襲したもの。面頬(めんぽう)や胴・籠手(こて)・佩楯(はいたて)など一部異なる点も見られるが、全体的に虚飾を廃した実用的なつくりでありながら、威風堂々とした機能美をそなえた具足である。歴代藩主は、就任と同時に、それぞれ朱塗の具足を新調したが、基本的にはこの直政・直孝両藩主の具足にならっている。しかし、後代になるほど軽量化され、しかも甲冑制作の復古的な気運にのり、装飾的な装具も一部にとり入れられたものも見られる。

 ところで、彦根藩の赤備えはいつに始まったのであろうか。一般的には『甲陽軍艦(こうようぐんかん)』の伝えるように、天正10年(1582)の武田家滅亡により、翌11年、徳川家康から武田遺臣を預けられたことにはじまるとされる。

 この年、徳川家康は豊臣秀吉から東国支配を任せられ、関東に入部。あらたな地盤固めのため、有力な家臣を要所に配置した。井伊直政は並居る老臣を超えて、上野国箕輪(こうづけのくにみのわ)に12万石を宛行われたのである。入封にあたっては、家康の近臣木俣・西郷・椋原(むくはら)ら3人を直政の補佐役としてつけられるとともに、武田家の有力家臣24将のうち、山県(やまがた)・原・土屋・一條の4将に属する武士たちが多くつけられたとされる。『甲陽軍艦』では、山県は武勇にたけた武田家一の家老であるので、山県の兄飯富(おぶ)兵部の赤備えにならって具足や指物、鞍鐙(くらあぶみ)にいたるまで赤備えにしなさいと家康が直政に命じたと伝える。天正12年の小牧・長久手の戦には、井伊隊はすでに「赤備え」「赤鬼」の異名をとるようになり、その勇猛果敢な活躍は西国の武士にも知られた。「赤備三千」と記すものも見られる。江戸時代前期に描かれた合戦図にも井伊隊の赤備えの指物や具足が見えるが、家臣全員が赤備えに統一されてはいない。現存する武具についての伝承によれば、少なくとも関ヵ原合戦頃にはほとんどの井伊隊の武士が赤備えに揃えられたものと推測される。そして、関ヵ原合戦や大坂の陣には、先陣を切って攻め入る赤備えの一群が西軍豊臣方の脅威となったことは疑いえない。

(母利)

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小企画展
井伊家伝来
森川許六(もりかわきょりく)の襖絵
 期間 1989年1月22日(日)〜2月20日(月)

 龍潭寺(りょうたんじ)(臨済宗妙心寺派)は、彦根市古沢町に位置し、江戸時代を通じて代々彦根藩主であった井伊家にゆかりの禅刹です。江戸時代のはじめに、井伊家発祥の地、静岡県引佐郡(いなさぐん)井伊谷(いいのや)の龍潭寺から第5世昊天(こうてん)禅師を招き、彦根にも龍潭寺が創建されました。

 寺の中心をなす建物、方丈(ほうじょう)は、元和3年(1617)の建立とされています。方丈は10室からなり、全室にわたって襖絵が描かれています(昭和48年、彦根市指定文化財に指定)。1室に1画題、計104面にのぼり、寺伝では森川許六筆と伝えてきました。

 許六(1656〜1715)は、彦根藩士。36歳の時、江戸で松尾芭蕉に入門し、蕉門10哲の一人として知られています。その後、湖東地方における蕉門の中心人物として活躍しましたが、一方では、絵もまた得意とし、俳人の余技に留まらない本格的な狩野派の画法を身につけていました。寺伝を考え合わせますと、許六の作品と見るのが自然でしょう。

 この展覧会では、10画題のうちから5画題22面の襖絵を展示し、彦根に伝えられた本格的な方丈襖絵の精華をご紹介します。

■関連教室

1989年2月4日(土)午後2時から
「龍潭寺と森川許六」
  本館学芸課員 竹村 直美

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テーマ展
雛(ひな)と雛道具
 期間 1989年2月25日(土)〜4月16日(日)

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 井伊家には、井伊直弼(いいなおすけ)の息女弥千代(やちよ)が、安政5年(1858)に讃岐高松の藩主松平頼聰(まつだいらよりとし)に輿(こし)入れしたとき持参した雛道具が伝えられています。それは実際の婚礼調度の雛形で、その数も100点に近い大揃いです。今回のテーマ展では、雛道具とともに弥千代の婚礼調度も比較展示します。実際の調度とその雛形、それぞれの妙をご鑑賞ください。なお、期間中は各種の雛の飾りつけも行っています。

■講演会

1989年3月18日(土)午後2時から
「雛と雛の調度」
  京都国立博物館普及室長 切畑 健氏

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テーマ展
遊ぶ
 期間 1989年4月19日(水)〜5月29日(月)

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 平安時代、中国文化の模倣からやがて雅び(みやび)やかな王朝文化を築いた貴族は、遊びにおいても独特の美麗な世界を生み出しました。江戸時代になっても、公家・武家・町人などはいにしえの雅の世界に憧れ(あこがれ)を抱き続け、遊びに興じました。このテーマ展では、井伊家伝来の美術工芸品の中から、こうした美麗な遊ぶ道具に焦点をあてて展示します。

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