1990.11.1
|
|
獅子の造形 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
獅子の造形
能面・獅子口(伝赤鶴作)
百獣の王獅子は、古来、邪悪を避ける力をもつとされ、芸能や美術の世界に取り上げられてきました。能もその例外ではありません。
能の『石橋(しゃつきょう)』では、咲き乱れる牡丹の花に飾られた舞台いっぱいに、獅子が豪快に舞い戯れます。
ところは、中国の清涼山。中国に渡って、かなたこなたを巡歴する寂昭法師が、清涼山の石橋を訪れます。すると童子があらわれ、橋の向こうは文殊菩薩の浄土、清涼山であること、この橋が容易には渡れぬことを説きます。はたして、文殊菩薩の霊獣である獅子があらわれて、盛りと咲き誇る牡丹の花に戯れて舞うのです。
このように、能の獅子はたんなる猛獣をあらわしているのではく、一種、妖精的な性格をもっています。この『石橋』一番に用いるのが獅子口(ししくち)の面です。
井伊家にはいくつかの獅子口の面が伝わっています。このうちのひとつ、赤鶴(しゃくづる)作と極(きわ)められた一面は、数ある井伊家伝来の能面のなかでも出色のできばえをしめします。眼光鋭い眼差し、張り裂けるばかりに大きく開いた口。あたりを睥睨(へいげい)する気宇(きう)広大な獅子の風格をよくあらわしています。
面のつくりは、満面を金泥彩として朱の隅取りをほどこし、目には金銅板をはめます。歯牙にも同様の金銅板をはめていたのでしょうが、現在では欠失しています。
ところで、作者と極められた赤鶴吉成は、能面の世界では最も著名な作者のひとりです。その経歴などについては、ほとんど明らかでありませんが、一刀斎と号し、越前(現在の福井県)大野の出身で、近江猿楽(さるがく)に加わり、面を打つようになったといわれます。鎌倉時代後期に活躍した人のようです。
世阿弥(ぜあみ)の『申楽談儀(さるがくだんぎ)』には「鬼の面のじょうず」とみえています。強い表情の恐ろしげな面を得意としたもののようです。ですから、後世面を極めるとき、鬼の面の古面で上手のものは、赤鶴作とされることが多かったのです。
この面は起伏の大きい顔のつくりを、巧みな彫法で抑揚豊かに彫り出し、眉やヒゲの毛描(けがき)には闊達(かつたつ)な趣があります。まだ能面の形が固定化する以前の、自由な創意工夫の気分が感じられるといえましょう。室町時代の制作と推定されます。
(齋藤)
彦根屏風と遊楽の世界
期間 1990年10月27日(土)〜11月26日(月)
彦根屏風(部分)■講演会
1990年11月10日(土)午後2時〜
「彦根屏風の世界」
講師 京都国立博物館美術室長 狩野 博幸氏
松・竹・梅
期間 1990年1月1日(火)〜1月22日(火)
能装束
摺箔(部分)冬の寒さに耐え、緑を保つ松と竹、そして寒風の中に花をつけ芳香を放つ梅。古来、中国ではこの3つを「歳寒の三友」と称し、貞潔さや志の高さを象徴するものとされていました。松竹梅は鶴亀とともに吉祥のデザインの代表です。
このテーマ展では、正月にちなみ、春のいぶきを感じさせる松竹梅のデザインを、能装束や調度品などの中にさぐります。
中世職人の世界
-下克上のはざまを生きぬく人々の姿-
期間 1990年11月30日(金)〜12月24日(月)
職人という言葉に現代人がイメージするものは、手先のたしかな技術をもち、その技術によってものを作る人々というのが一般的です。しかし、そういったイメージは比較的新しいもので、江戸時代の士農工商という身分社会がもたらしたものと考えられています。
鎌倉時代以降に成立する『職人歌合(しょくにんうたあわせ)』という一連の絵巻は中世の「職人」を主題とした歌合絵巻ですが、そこには、現代人のいわゆる職人とはイメージのことなる人々も描かれています。彼らは当時は職人とは呼ばれず「道々(みちみち)の者(もの)」といわれたようです。もの売りの商人、遊行(ゆぎょう)の聖(ひじり)、河原を生活の場とした雑芸能民、医師、陰陽師(おんみょうじ)、博打(ばくち)、そして遊君(ゆうぎみ)など。これらには「賤(しず)が民(たみ)」と差別された人々も数多く描かれています。これら「職人」の世界には、差別を超えた生きることへの執着と、厳しい現実への嘆きが描き出されているのです。そこには下克上の世の中に、欠くことのできない存在として台頭してきた「職人」たちの姿があります。
この展覧会では、これら職人歌合絵巻を中心に、中世から近世初頭にかけて描かれた職人尽図などを展示します。「職人」の姿をとおして、あらゆる職業をそれぞれの「道」として意識した中世の社会を考える機会となれば幸いです。
清凉寺の美術
期間 1990年1月26日(土)〜2月25日(月)曹洞宗永平寺派の名刹清凉寺は、佐和山の麓に葬られた彦根藩初代藩主井伊直政の菩提をとむらうために建立された寺です。直政の法名、祥寿院殿清凉寺泰安大居士にちなみ、祥寿山清凉寺と号しました。その後、2代直孝は、群馬県箕輪(直政の前封地)から愚明和尚を招き開山としたのです。
墓所には、直政をはじめとする井伊家の廟塔がつらなり、井伊家の菩提寺として高い格式を誇りました。また、諸国より高僧を請じたので、修行道場として名声が高く、盛時には200人もの修行僧が起居していたと伝えられています。
清凉寺には、井伊家歴代藩主の肖像画をはじめ、井伊家との深い関係を示す作品が多く伝えられ、また禅宗寺院にふさわしく、禅画や墨蹟にもすぐれたものがあります。この企画展では、これらの名宝を一堂に会し、大名家の菩提寺としての清凉寺と、曹洞禅の名刹としての清凉寺のふたつの観点から紹介します。
■関連講座
1991年2月2日(土)午後2時から
「清凉寺の歴史と美術」
講師 学芸員 齋藤 望
場所 本館講堂