彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 29

1995.5.1


button 老中連署奉書
button 彦根新田藩の実態
button テーマ展宗安寺の肖像画
button テーマ展嘉永の地震と近江
button テーマ展刀の装い
button 能舞台の床下

地震と石垣の修理
老中連署奉書(井伊直弼宛)

image

 嘉永7年(1854)6月15日未明、近畿地方を中心に大地震が発生、彦根城本丸南側の石垣1ヶ所がふくらみ、その一部が崩壊しました。彦根藩は地震によって被害を受けた石垣の修復の願書と絵図を作成し、幕府に提出しました。写真は幕府(老中)が藩の作成した絵図にしたがって石垣を修復することを認めた奉書です。

 井伊家伝来古文書には彦根城の石垣修復を許可する旨の老中奉書が8通ほど確認できますが、その中で「地震」と明記されたものは本書だけです。石垣崩壊の原因については地震のほかにも地盤のゆるみや、石垣の老朽化などが考えられますが、地震と明記することで緊急に修復したいという意志表示をしているのかもしれません。

(齊藤 祐司)

このページのトップへもどる


新収蔵史料から
彦根新田藩(ひこねしんでんはん)の実態

image

 江戸時代中期、正徳4年(1714)から享保19年(1734)にかけて、彦根藩の支藩として彦根新田藩が作られたことはあまり知られていません。藩主は井伊直定(なおさだ)。のちの彦根藩9代藩主です。

 直定は元禄13年(1700)、4代藩主直興(なおおき)の14男として彦根で生まれました。兄5代藩主直通(なおみち)・6代藩主直恒(なおつね)が早世した後、直恒の世嗣となっていた直興の13男直惟(なおのぶ)が幼少のため、直惟の成長まで直興が再び藩主となりました。直興は相継ぐ後継者の病死という不幸にあい、彦根藩の行く末を案じていました。直惟もいつ同じ運命となるかわからなかったからです。

 直興は世嗣を直惟としていましたが、正徳2年、直惟の3歳年下の弟直定を江戸に呼び将軍家宣(いえのぶ)との御目見をはたし、ゆくゆくは、直定の支藩独立を想定して幕府出仕を考えていました。そして正徳4年、直惟に家督を相続する際、幕府に正式に願い出て新田1万石の分与を許されたのです。

 従来、この新田藩の存在は知られていても実態はほとんど未解明でしたが、平成6年度に当館が購入した史料の中に、その一端を示す重要な史料が含まれていました。「添証文並追書下知書(そえしょうもんならびについしょげちしょ)」と書かれた包紙に納められた3通の新田分与関係史料です。

 写真は、直興が新田分与について幕府には表向き1万石と願い出たが、他に千俵を添米(そえまい)として加えることを彦根藩の家老たちに命じた「添証文(そえしょうもん)」です。他の2通から、直定が15歳の若年であるため、分与の1万石をすぐに与えるのではなく当面は千俵の添米を充て、幕府への勤めの様子に応じて不足分を補い、20歳を過ぎ、幕府勤めを十分に果たすようになってから1万石と添米のすべてを与えるよう家老たちに指示したことがわかります。

 新田藩といっても、当時彦根藩で1万石ものまとまった新田開発が行われたわけではありません。

 これら一連の史料には、1万石が新田として領地を分与されたのではなく、彦根藩の蔵米(くらまい)から支給されることも記されています。つまり、新田藩といっても特定の領地があったわけではなかったのです。おそらく直定の住居も彦根城下に置かれていたのでしょう。

 直定は、以後幕府に出仕するようになり、享保17年(1732)には諸大名から将軍への贈答品や文書を取り次ぐ奏者番(そうじゃばん)となっています。しかし、同19年には兄直惟が病気となったため急遽直惟の養子として世嗣となり、1万石は彦根藩に返還し、新田藩は約20年で消滅したのです。

(母利 美和)

このページのトップへもどる


テーマ展
「宗安寺の歴史と美術」より
宗安寺の肖像画
 期間 1995年6月16日(金)〜7月16日(日)

image

 彦根市本町に、ひときわ目をひく赤い門を構えた寺院があります。

 淨土宗宗安寺(そうあんじ)−この寺に伝わる什物の中に、現在彦根市の文化財に指定されているめずらしい1点の肖像画が含まれています。

 その画の中の人物は、口ひげとあごひげとをたくわえ、冠と赤い服を身につけ、正面を向いて椅子に腰かけています。服装から判断すると、明らかに、日本の人物ではありません。画中に落款(らっかん)は見あたらず、いつこの寺に入ったのかなどの記録も一切残っていませんが、現在、この画像は朝鮮通信使によってもたらされたものであろうと考えられています。

 通信使は、江戸時代には総勢300人から500人にも及ぶ大人数でした。これだけの人数では、宿泊施設は1つで足りるはずがありません。彦根でも多くの宿泊所が指定されたわけですが、宗安寺は一行の中でも特に重要な3使が宿泊する場所になっていたのです。

 ここで、肖像画に立ち返ってみましょう。画中の人物の胸には、飛雲文と2羽の鶴が描かれていることに気づきます。これは、朝鮮の高級官僚が、正装のときにつけていた刺繍(ししゅう)の「胸背」と考えられます。胸背は、位階によって柄が定められていましたが、この画像に見える「飛雲文に2羽の鶴」の柄は、文官のうち堂上官という位の人物が身につけるものです。

 本画像が通信使のもたらしたものであるとするならば、通信使一行のある特定の人物を描いた可能性が出てきます。通信使の中で堂上官にあたる者は正使だけですから、本図は、正使のうちの誰かの肖像画とも考えられるでしょう。

 正使の肖像画を宿泊した寺院に贈るということは、単に記念のためだけだったのでしょうか。それとも、なにか他の目的があってのことなのでしょうか。

 いずれにせよ、本画像は、興味のつきない作品です。

(高木 文恵)

このページのトップへもどる


テーマ展
「彦根城の修築とその歴史」より
嘉永の地震と近江
 期間 1995年7月23日(日)〜8月22日(火)

 本号表紙で紹介しました嘉永7年(1854)6月15日の大地震は彦根城の石垣に被害を及ぼしただけでなく、近畿地方一円に多大な被害を及ぼしました。内閣文庫所蔵の『嘉永雑記(かえいざっき)』「大地震の趣、江州よりの書状」によると、銘々が小屋掛けにて日夜暮らしており、地震のあった15日の夕方は激しい雷雨もあって婦人などは1人も生きている心地がしなかったと話していたと、具体的に近江のどこのようすを記しているのか筆者が不明なため、はっきりしませんが、不安な避難生活を送っているさまがうかがえます。

 彦根藩主・井伊直弼(いいなおすけ)は彦根で地震に遭遇しているようで、翌安政2年正月10日に老中・松平和泉守乗全(のりやす)に宛てた書状には、昨年の大地震では東海道筋の被害がひどく、彦根でも城郭をはじめ、城下・郷中で家屋の倒壊があり、手当などを施しているものの、十分には行き届かず大変心配していると心情を吐露しています。

(齊藤 祐司)

このページのトップへもどる


テーマ展
「刀装と小道具」より
刀の装い
−鐔
 期間 1995年5月19日(金)〜6月13日(火)

 江戸時代中期、ここ彦根中薮(なかやぶ)に彫金師の藻柄子喜多河宗典(もがらしきたがわそうてん)が住んでいました。彼は刀装具(とうそうぐ)の1つである鐔(つば)に、武者合戦図や秋草図などを細やかな彫金(ちょうきん)で描き、そのデザインは当時の人々に人気を博しました。

 鐔は元々(もともと)日本刀を美しく飾る刀装、つまり「拵(こしらえ)」の一部で、相手の攻撃から自分の手を守るための防具(ぼうぐ)です。大きさは直径約10センチほどで薄い金属でできています。

 その鐔の両面に、室町時代ごろから、鐔師や彫金師たちが動物や植物、風景や人物など多種多様な文様を、絵画的に描いたり、立体的に表現するようになりました。

 そして江戸時代。各種の彫金技術が開発され、制作者はその技術を駆使して、腕を競い合い、冒頭の藻柄子喜多河宗典などが活躍するようになりました。

 防具でありながら美術工芸品として人気を得た鐔。そこに表現された独自の世界に、太平の世を生きた江戸時代の人々の美意識がうかがえます。

(山岸 岳)

このページのトップへもどる


能舞台の床下

image

「宮大工と雀は軒で鳴(泣)き、舞台大工と鼠(ねずみ)は床で鳴(泣)く。」

 これは、かつての大工仲間にあった諺です。神社建築が軒先にもっとも気を配り、能舞台が床の構造にたいへん苦心することを、雀と鼠にかけて洒落たもの。

 ところで、能舞台はなぜ床の構造にそれほど苦心するのでしょう。演能の際、演者が足で床をトンと打って拍子をとる様子をご覧になったことがあるでしょうこの足拍子の音響効果を高める工夫−それが床の構造に苦心する要因のようです。

 当館の中央に建つ能舞台は江戸時代に造営された由緒のあるもの。この能舞台にも、やはりそうした配慮が認められます。まず、床下中央には束柱(つかばしら)がありません。さらに、床下全体が2尺(約70センチ)余り掘り下げられ、漆喰(しっくい)が打たれています。そして、床の周囲には羽目板。舞台の床下は、まるでギターの共鳴箱のように大きな空間で広がっているのです。足拍子はこの共鳴箱の原理によって反響するというわけ。その効果の実際については、5月の演能でぜひともご確認ください。

(谷口 徹)

このページのトップへもどる


目次