彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 30

1995.8.1


button 鉄綴桶側胴具足
button 家老木俣家の代官村崎家
button 企画展徳川四天王
button 企画展来迎寺の阿弥陀如来像
button 企画展日下部鳴鶴

井伊(いい)の赤備(あかぞな)え
鉄綴桶側胴具足
(てつとじおけがわどうぐそく)

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 これは初代彦根藩主となる井伊直政所用の具足(ぐそく)です。全体を朱塗りとし、胴は波状の鉄板を横につなぎ合わせた桶側胴(おけがわどう)、兜(かぶと)は金色に輝く天衝(てんつき)を脇に立て、実に威風堂々としています。

 天正10年(1582)、直政は徳川家康から甲州武田の遺臣70余名を配属されます。家康はこの時、武田家一の家老で、武勇に秀(ひい)でた山県昌景(やまがたまさかげ)の朱塗りの具足にあやかるよう直政へ命じました。

 以来、井伊家では歴代の藩主が朱塗りの具足を着用し、家臣もそれに倣いました。

 「井伊の赤備え」「赤鬼」などと戦場でひときわ恐れられた朱具足。それは、井伊家とその家臣たちの武勇の証(あかし)でもあったのです。

(山岸 岳)

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新収蔵史料から
家老木俣家の代官村崎(むらさき)家

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 彦根藩領であった近江国坂田郡新庄寺(しんじょうてら)村(長浜市)の村崎家に関する古文書は全部で53点。その数は決して多いものではありません。しかしそのなかには非常に注目すべき史料が含まれていました。それは村崎家が彦根藩家老木俣清左衛門(きまたせいざえもん)家代官(だいかん)を勤めた17世紀後半の一連の古文書です。

 木俣家は、徳川家康の近臣であった初代守勝(もりかつ)が家康の命により彦根藩初代藩主井伊直政(いいなおまさ)に仕え、2代守安(もりやす)以降代々筆頭家老(ひっとうかろう)を勤め、藩内最高の家格を誇りました。その領地は大坂の陣後に5,000石、その後幾度かの加増を経て、享保7年(1722)には1万石となりました。1藩の家臣ながら、領地の規模は大名に匹敵します。

 その彦根藩領内に広範に分布する領地(りょうち)から年貢の取り集めなど農民支配の実務を行ったのが村崎家でした。もっとも時期の古い木俣半弥(はんや)の達書は次のようなものです。(写真、原文を書き下し文に改めた)。

  以上
一弐百表(俵)米
 右ハ急用候間(きゅうようそうろうあいだ)、何(いず)れの
 郷にて成(な)り共ちかき
 所(ところ)にて申し付け、早々
 我等(われら)屋敷へ今
 明日中(こんみょうにちちゅう)ニ相届け
 申すべく候(そうろう)、其(そ)の為(ため)此(かく)の如(ごと)く候(そうろう)
 以上
 万治三年(1660)    半弥
  子(ね)十二月廿八日 印 (花押)
  村崎藤兵衛との

 差出人の半弥はのちに木俣家3代目となる木俣守明(もりあき)。この時期にはまだ家督(かとく)を継いでいませんが、すでに家老加判(かろうかはん)の役に就任し、2,000石の領地を与えられていました。ここでは、急に必要となった米200俵(80石)を木俣家屋敷へ届けるように命じています。木俣家が村崎家を通じて領地の村から直接に年貢米の収納を行っていたのです。別の史料では村々の年貢米を換銀(かんぎん)上納することや、木俣家の家臣へ給米(きゅうまい)を支給することが村崎家へ命じられています。

 このような代官関係の資料は18世紀にはいると村崎家文書から見られなくなります。村崎家は木俣家の代官ではなくなり、木俣家の領地自体が、藩の村方支配(むらかたしはい)を担当した筋奉行(すじぶぎょう)配下の町人代官(ちょうにんだいかん)によって年貢徴収(ちょうしゅう)などが行われるようになったと思われます。

 従来の彦根藩の研究では、筋奉行配下の町人代官がいたことは知られていましたが、単独の家に抱えられる代官についてはその存在さえ知られていませんでした。木俣家代官村崎家文書は、江戸時代前期の上級家臣の家政(かせい)の運営の仕方や、農民支配の独自の様子を解明するうえで重要な史料なのです。

(渡辺恒一)

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企画展
徳川四天王
 期間 1995年10月28日(土)〜11月27日(月)

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 天下取りを夢見て群雄が割拠した戦国時代。その最後の覇者(はしゃ)となったのは関ヶ原の合戦を征した徳川家康(とくがわいえやす)でした。覇者への道のりは長く苦しいものでしたが、それを支えたのは家康率いる優秀な家臣団でした。

 この家臣団は、家康への強い忠誠心と高い団結力を誇り、繰り返される戦や政治的なかけひきにおいて、時には家康の頭脳となり、また手となり足となって奔走しました。

 こうした家臣団の中でも、とりわけ優れた働きをしたのが、酒井忠次(さかいただつぐ)、本多忠勝(ほんだただかつ)、榊原康政(さかきばらやすまさ)、そして井伊直政(いいなおまさ)の4人の武将でした。彼らは家康の信任がもっとも厚く、家臣団の中枢にあって数々の武功をたてました。後世、人々は彼らを「徳川四天王」と呼び称して、その功績をたたえることになります。

 酒井忠次は四天王の筆頭にあげられる人物です。家康より15歳も年長で、家康の叔父という血縁関係にありました。武勇、知略に富み、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いや長篠(ながしの)の戦いでは、後世に名を残す活躍をしています。

 本多家は代々松平家に仕える家柄で、忠勝も幼少から家康に仕えました。63年の生涯を通じて、彼は50数度の合戦に挑み、そのほとんどで先鋒(せんぽう)を勤め、しかも傷1つ受けることがなかったと言います。家康配下の軍事面を代表する武将であったと言えるでしょう。

 榊原康政は本多忠勝と同年の生まれ。姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いでは機知に富んだ策略により敵方を翻弄(ほんろう)しています。康政の「康」の1字は、家康より与えられたものであるとつたえています。

 そして井伊直政。彼は、他の3人が三河出身であるのに対して、遠江出身です。年令もずいぶん若いのですが、出世のスピードは他に抜きん出て早く、やがて3人に伍すまでになります。浜松城で家康に見いだされたのが15歳。初陣(ういじん)は16歳。家康が関東へ移封されたとき彼はいまだ30歳の若さでしたが、上野国箕輪(こうずけのくにみのわ)に12万石を与えられました。これは四天王中最高の石高(こくだか)でした。

 この企画展では、徳川家康とその四天王が愛用した甲冑や刀剣、そして彼らにゆかりの品々を一堂に展示し、その人物像にせまります。この好機にぜひご観賞ください。また下記の関連講演会も開催しますので、あわせてご聴講ください。

(山岸 岳)

■関連講演会

1995年11月4日(土)
「徳川四天王−家康を支えた股肱の臣たち−」
  静岡大学教授 小和田 哲男氏

1995年11月11日(土)
「井伊直弼−そのおいたちと足跡−」
  本館学芸員 母利 美和

1995年11月18日(土)
「戦陣の装い−家康と四天王の甲冑−」
  東京国立博物館主任研究官 池田 宏氏

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テーマ展
「来迎寺の美術」より
来迎寺の阿弥陀如来像
 期間 1995年8月25日(金)〜9月19日(火)

 お寺へお参りすると、私たちは、何気なしに仏像の前で手を合わせています。

 いうまでもなく、仏像は礼拝の対象としてつくられ、その信仰は今に生きています。

 そこで、一度、見方を変えて、造形としての仏像そのものに目を向け、どんな姿をしているのか観察してみましょう。

 多くの仏像を比較してみると、阿弥陀如来ひとつをとっても、その形にはいくつかのパターンがあり、ポーズや顔の表情にも違いのあることに気づくはずです。

 ここで紹介する来迎寺(彦根市本町1丁目)の阿弥陀如来坐像(重要文化財)は、優れた作行きを示す本格的な等身大の像(像高96.4cm)です。

 しかも、像内に記された銘文により、鎌倉時代初期の建久7年(1196)に造立されたことがわかることも貴重です。

 このお像を拝して、まず目につく特徴は、両手の臂(ひじ)を強く屈して、胸の前で両手とも親指と中指を捻じていることです。不思議な手の形ですが、どんな意味があるのでしょうか。

 このように、仏像が手指で結ぶ印の形を、印相(いんぞう)と呼びます。そして儀軌(ぎき)という決まりによって、尊像ごとにどの印を結ぶかが決まっています。

 仏の備える働きを象徴的にあらわしているのです。

 来迎寺像の印相を、説法印(せっぽういん)(転法輪印(てんぽうりんいん))と呼びます。阿弥陀如来が今現在、西方極楽浄土で説法する様子をあらわすとされます。

 ふつう阿弥陀如来像は、定印(じょういん)か来迎印(らいごういん)を結んでいますが、奈良時代から平安時代初期にかけての時期には、むしろ説法印像が盛んでした。

 そして、その数は多くはありませんが、なぜか、平安時代末から鎌倉時代へかけての頃に、再び説法印像がつくられるようになったのです。来迎寺の像もその一例です。

 その背景として、真言宗における念仏の流行や南都仏教での浄土信仰の展開と関係のあることが指摘されています。

 仏像の姿やスタイルを読み解いていくと、昔の人々の信仰や美意識が、徐々に明らかになってきます。仏像は、無言のうちに、私たちにいろいろなことを語りかけているのです。

(齋藤 望)

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テーマ展
「日下部鳴鶴の書」より
明治の書聖−日下部鳴鶴
 期間 1995年9月22日(金)〜10月24日(火)

 東京の世田谷にある豪徳寺(ごうとくじ)は、彦根藩主井伊(いい)家の菩提寺(ぼだいじ)として知られています。その寺の一隅に、「日下部東作 徳配 琴子之墓」と彫られた墓があります。日下部東作とは、明治の三筆のひとりとうたわれた書家・日下部鳴鶴(くさかべめいかく)、その人のことです。

 鳴鶴は、天保9年(1838)に彦根藩士の家に生まれました。明治維新後、官に就いて内閣大書記官になりましたが、信任を受けていた大久保利通(おおくぼとしみち)が暗殺された後、官を退いて書の道一筋に生きていくことを決意しました。鳴鶴42歳のことです。

 翌年の明治13年(1880)、彼のそれからの運命を決定する人物との劇的な出会いがありました。清国公使の随員として来日した楊守敬との出会いです。

 楊守敬は地理学者でしたが、書をよくし、金石学者としても知られていました。金石学とは、金や石に刻みこまれた文字や文章を研究する学問です。鳴鶴は、巌谷一六(いわやいちろく)、松田雪柯(まつだせつか)ら志を共にする者と誘いあい、楊守敬に書道および金石学を本格的に学びました。

 その後、鳴鶴は清に遊学して見聞を広め、深い学識に裏付けられた彼の書は一世を風靡(ふうび)し、その功績は今なお高く評価されているのです。

(高木 文恵)

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