1995.11.1
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縫箔 |
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佐目の法蔵時 |
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能装束
縫箔(ぬいはく)
縫箔は、能の女役が、肩脱ぎして腰に巻くようにして着用する装束。
この一領は、そのとき見える部分、すなわち袖の袂と、裾だけに文様をほどこします。
江戸時代後期の制作です。
文様構成は、土波(どは)に藤のかかる姫小松、そして霞を配しています。いうまでもなく、松には吉祥の意味があります。
ここでは、織(おり)、摺(すり)、縫(ぬい)とさまざまな技法が駆使されています。
霞と松の穂には金糸を、松の葉や枝には白糸を織り込みます。
その上に重ねて、松の幹や枝、松葉、そして藤を色糸で縫いかけます。
霞や藤の葉の要所には、金を摺ってアクセントを与え、土波は砂子(すなご)風に箔で仕上げています。
一見すると、なにげない表現ですが、細部に意がそそがれ、文様に奥行を与えているのです。
(齋藤 望)
文書目録から
佐目(さめ)の法藏寺(ほうぞうじ)博物館史料室では平成7年3月に「法藏寺文書目録」を発行しました。ここには法藏寺に伝来する2,363点の古文書を収録しています。その時代は戦国時代から江戸、明治時代にまで及ぶものです。
法藏寺は彦根市南川瀬にある浄土真宗本願寺派の寺院です。鎌倉時代末期、性愚という僧が本願寺第三世覚如に弟子入りをして、犬上郡石畑(豊郷町)に庵室を譲られたことに始まるといわれています。以来、法藏寺は犬上郡山中の佐目(多賀町)、南川瀬と二度移転しました。今の南川瀬の地に移ったのは、寺伝によると、天正2年(1574)あるいは天正8年と伝えますが、はっきりとはわかっていません。
佐目に法藏寺があったことは、戦国時代の本願寺の日記『天文日記(てんぶんにっき)』によってもわかります。「サメノ法藏寺」が毎年1月19日の覚如の祥月命日に石畠弘誓寺(いしばたけぐせいじ)、 ヒノ本誓寺(ほんせいじ)、瓜生津(うりゅうづ)弘誓寺、浅井湯次(ゆすき)の誓願寺とともに法会の頭役(とうやく)を勤めています。法藏寺が戦国時代に頭役などの重要な役割を担ったことは、後の江戸時代において本願寺や彦根藩で重要な位置を占めるようになった理由のひとつとも言えます。
また、法藏寺が本願寺から下賜された絵像や名号の裏書の中で、天正9年のものに「犬上郡佐目法藏寺」とあることによっても、天文から天正年間(1532〜1592)にかけて佐目に拠点をおいて活動していたことがわかります。
法藏寺文書の中には、ちょうど法藏寺が佐目にあった頃のものと考えられる史料が5通確認されました。それらは佐目の人々が法藏寺周辺の土地を寄進したり、売却したときのものです。ここにあげた写真はそのうちの一点です。
天正11年(1583)11月5日付で多賀町佐目西村の源三郎らが、先祖代々伝える私有地を売っています。犬上郡富尾(とみのお)保内佐目畑にある土地3畝を代米2石1斗6升で売り渡すことを契約しています。この時の売り先は法藏寺かはわかりませんが、後にこの土地が法藏寺の寺領となったと考えられます。このほかにも同様の売券があり、天正11年頃にも依然として法藏寺が佐目に基盤をおいていたことが窺われます。寺伝では、すでに川瀬に移ったとしますが、実際にはもう少しあとになってからのことかもしれません。
ここで紹介した文書によって戦国時代の法藏寺の一面がうかがえます。それだけでなく、法藏寺文書では戦国時代から明治時代にかけての湖東地方における真宗寺院の動きを知ることができ、今後の活用が大いに期待されるのです。
(頼 あき)
「徳川四天王」より
和洋折衷の粋
南蛮胴具足
期間 1995年10月28日(土)〜11月27日(月)室町時代末期、わが国に鉄砲が伝来すると、戦いのあり方はこれまでの刀や槍・弓矢を主体としたものから、鉄砲を主体としたものへと移行していきました。
これにともない、体を守る甲冑(かっちゅう)も工夫され、全身隙間(すきま)無く覆(おお)い、かつ動き易さを備えた「当世具足(とうせいぐそく)」が考案されました。当世具足は、着用する武将の好みにより数多くの種類が生みだされました。なかでも、具足の形態に大きな影響を与えたのが、鉄砲とともに伝来したヨーロッパ製の甲冑です。
写真は企画展「徳川四天王」で展示中の、徳川家康(とくがわいえやす)所用の「南蛮胴具足(なんばんどうぐそく)」です。伝来によると、初代紀州藩主徳川頼宣(よりのぶ)が、父家康より拝領した品で、後に紀州東照宮へ奉納されました。
少し詳しく見てみましょう。胴は鉄製で、中央に鎬(しのぎ)の入った鳩胸(はとむね)形です。表面には洋楽器や獅子面・唐草などの文様が細かく彫られ、その上から漆(うるし)を塗っています。また、10箇所に火縄銃(ひなわじゅう)の弾痕が残され、胴の強度を試した、いわゆる「試(ため)し胴」となっています。肩には、胴と同じく鉄製の肩当(かたあて)が襟巻(えりまき)のように装着されています。兜(かぶと)は2枚の鉄板を張り合わせた瓜形。肩当や兜にも胴と同様に洋剣や盾・甲冑・人物などの文様が施されています。これらの文様はいずれもヨーロッパに特有の文様で、ヨーロッパで造られた甲冑であることを示しています。
一方、胴の下部には太股(ふともも)を守る草摺(くさずり)があり、兜には後頭部を覆う (しころ)や、顔面を隠す面頬(めんぽう)が添えられています。こちらはともに国産品。日本人が戦い易いように不足部分を国産品で補(おぎな)っているのです。
つまり、この南蛮胴具足は、ヨーロッパの甲冑を主体に、日本製の小具足(こぐそく)を加えて改良を施した作品と言うことができます。当時はヨーロッパ文化が盛んにわが国に伝えられ、人々の生活にさまざまに影響を与えた時代です。この具足もまた、そうした影響を色濃く受けた和洋折衷(せっちゅう)の粋と言うことができるでしょう。
(山岸 岳)
「摺(すり)と縫(ぬい)−井伊家伝来能装束から−」より
箔のきらめき
能装束・摺箔
期間 1995年12月1日(金)〜12月22日(金)
能装束には、織(おり)や染(そめ)をはじめとする、多様な技法が用いられています。
その中でも、文様を摺(す)りあらわした「摺箔(すりはく)」と、摺に刺繍を併用した「縫箔(ぬいはく)」は、金銀のまばゆいきらめきに魅力があります。
摺箔の製法は、まず文様をかたどった型紙を用いて、裂地(きれじ)の上に糊を置きます。ついで、糊が乾かないうちに金箔や銀箔を載せて軽く押さえます。
そして、糊が乾いてから余分の箔を落とすと、型紙の部分にだけ箔が残り、文様となります。
ここで紹介する摺箔は、江戸時代の制作。
裂地は中国・清朝(しんちょう)の浅葱(あさぎ)色の緞子(どんす)。松竹梅や石榴(ざくろ)などの各種の折枝(おりえだ)と、書体を幾通りかに変えた「寿」の字が織りあらわされています。
これに、銀の箔で、上部には槍梅(やりうめ)を、裾には花菱(はなびし)をおさめた七宝文(しっぽうもん)を散らします。
緻密に配された梅の枝には、可憐な花と、斜めに伸びる小枝がそえられます。型を繰り返し、空間を埋め尽くす文様構成が見どころです。
そして、時代をへて変色した銀が、輝きのなかにも、微妙な味わいを感じさせます。
(齋藤 望)