1996.2.1
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染付近江八景図敷瓦 |
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彦根藩の鉱山 |
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日中交流の証
染付近江八景図敷瓦
茶の湯で、鉄製の風炉(ふろ)の下に敷く陶磁製の板を敷瓦(しきがわら)といいます。この作品は、中空の箱形をした敷瓦です。表面には染付(そめつけ)で近江八景が情景豊かに描かれ、画面右上には作者狩野永岳(かのうえいがく)の名が小さく記されています。そして側面には近江八景を賛美する七言詩八首が、また裏面はひたひたと押し寄せるさざ波が一面に描かれ、中央に丸窓を設けて制作の由来が記されています。その由来によると、狩野永岳が下絵を描いた近江八景を、摂津(大阪府と兵庫県の一部)の橋本景留という人物を仲介として中国の景徳鎮(けいとくちん)に注文。現地の陶貞という陶工が制作した15枚の内の1枚とのこと。狩野永岳は京狩野9代目の絵師として良く知られた人物です。この敷瓦は、その彼と中国の陶工が共同制作した、当時の日中交流の証でもあるのです。現在、これと同じ作品が、ほかに6枚確認されています。あと何枚みつかるでしょう。
(谷口 徹)
井伊家伝来古文書から
彦根藩領の鉱山
安政2年(1855)の夏ごろ、彦根藩領内の愛知郡蛭谷(ひるだに)村(神崎郡永源寺町蛭谷)から藩へ、村内にある鉛山(なまりやま)の試掘を許可してほしいとの願い出がありました。藩はこの件について支障がないかどうか十分に調査した上で、村の収入にもなるということから試掘を許可しました。
藩は蛭谷村の鉛山試掘を許可したことを幕府に届け出るよう、江戸に駐在する彦根藩の城使(じょうし)(藩と幕府との折衝(せっしょう)役=留守居(るすい))へ指示し、同年9月7日に城使から幕府老中へ届書を提出しています(写真)。
老中は藩からの届書について、鉛山の試掘の件は承知したこと、試掘を終えた際にはその旨を届け出ることを付札(紙片)に記し、城使からの届書に貼付して城使に返却しています。
その後、実際に試掘が始められたものと思われ、愛知郡蛭谷村と政所畑村字蓬谷(まんどころはたむらあざよもぎだに)の鉛山が鉛が採掘されたらしく、同年12月には、城使から幕府の勘定奉行(かんじょうぶぎょう)にあてて、1.採掘された鉛についての売却方法と、2.鉛の精錬によって抽出された銀についてはどのように取り計らえばよいのかを問い合わせる文書が出されています。
これに対して勘定奉行は、1.鉛の売却については試掘する村の勝手次第とするが、江戸で売却する場合に限り、事前に町奉行に問い合わせた上で取り計らうこと、2.銀が抽出された場合には、あらためて勘定奉行へ伺うこと、という返答を書き記した付札を問い合わせの文書と共に城使に返却しています。安政3年1月24日には、城使から彦根の家老(かろう)にあてて、この勘定奉行からの返答を報告しています。
当時、日本国内での金銀銅などの採掘とその処理については、試掘を担当した個人や村の収入だけではなく、冥加金(みょうがきん)(税金)を得る藩の収入にもなり、さらには国の財産として管理される可能性もあるため、藩や幕府への届け出が必要で、事細かな監視をうけていたことがわかります。
この蛭谷村と政所畑村両村の鉱山試掘に関する史料は、本格的な鉱山経営に入る以前の時期の史料であり、彦根藩と幕府老中や勘定奉行とのやりとりが窺える貴重な史料といえます。藩領内にある鉱山として、操業期間は幕末から明治にかけてのごく短期間のことですが、井伊直弼(いいなおすけ)が藩主だった時代のことであり注目できるものではないでしょうか。
(齊藤 祐司)
「井伊家伝来の調度品(1)−硯(すずり)と煙草盆(たばこぼん)」より
笠翁細工(りゅうおうざいく)
期間 1996年4月12日(金)〜5月7日(火)
井伊家伝来の工芸品の中に、少し変わった作風の硯箱があります。写真は、その作品を真上から見たところ。埋木材に象の形を打ち出した薄い鉛板を貼り、陶器や螺鈿(らでん)などの細片を嵌(は)め込み、蒔絵(まきえ)を施しています。作者は小川破笠(おがわはりつ)。破笠は通称平助といい、生まれは江戸とも伊勢とも言いますが定かではありません。青年期には江戸深川の芭蕉(ばしょう)庵に出入りし、芭蕉門下の俳人として其角(きかく)や嵐雪(らんせつ)などと親しく交わったそうですが、彼らの死後、10年余の沈黙期間を経て、破笠は漆芸師として再登場します。破笠50代後半のことです。
彼の残した漆芸品は、写真の硯箱のように、陶器・螺鈿・堆朱(ついしゅ)・鼈甲(べっこう)・ガラス・染角(そめづの)などさまざまな素材を象嵌(ぞうがん)し、蒔絵を加えた独創的かつ精緻(せいち)なもので一般に「笠翁細工(りゅうおうざいく)」と称されました。「笠翁細工」が新奇なものとして当時の人々に歓迎されたのは言うまでもありませんが、最ももてはやされたのは幕末明治期の西欧でした。その評価は、北斎(ほくさい)や光琳(こうりん)と並び称されるほど高いものでした。
ところで、この作品のように象を意匠化した「笠翁細工」には、どうやら典拠があるようです。中国・明時代の書籍に『方氏墨譜』『程氏墨苑』がありますが、その中に「九貢(きゅうこう)の象」の絵とともに、写真にもある「象来致福」の祝言が記されています。「九貢」とは数多い貢(みつ)ぎ物を意味し、貢ぎ物を入れる櫃(ひつ)を背負った「九貢の象」を描くことで「象来致福」を意味するようです。そういえば、写真の象の背中には陶片で櫃が描かれています。
「九貢の象」を意匠化した作品は、享保6年(1721)に制作されたようです。おもしろいのは、その7年後の享保13年に、今のベトナムから日本へ、実際に象がやって来ているのです。幕府や朝廷への貢ぎ物を携(たずさ)えて。長崎へ上陸した象は、翌年には74日をかけて陸路を京都、江戸へと向かいました。沿道では多くの人々が象を見ました。破笠もきっと象を見たことでしょう。破笠にとって、はたして「象来致福」だったでしょうか。
(谷口 徹)
「裂(きれ)から長持(ながもち)まで−美術品のしまいかた」より
美術品のしまいかた
期間 1996年5月10日(金)〜6月4日(火)
ここに、江戸時代に作られた1管の縦笛(たてぶえ)があります。雅楽(ががく)で使う篳篥(ひちりき)という楽器ですが、竹に指孔(ゆびあな)をあけ、周囲に「樺巻(かばまき)」という細い桜の皮を巻き付けただけの、いたってシンプルな作りです。
しかし、この作品の収蔵法、シンプルとはかなりかけ離れたものとなっています。
それでは、実際にこの篳篥を伝来してきたままの状態に梱包(こんぽう)してみましょう。まず、篳篥本体を小さな袋に納めます。次に、それを家(いえ)という扇を閉じたような形の箱の中に入れます。次に錦(にしき)の袋、さらに豪華な被蓋(かぶせぶた)造りの箱に納めて完了です。
長さ18センチ程度の篳篥ですが、普段は幾重にも梱包され、最後には、その倍以上もの大きさの箱の中に納められているのです。
たいそうなことのように思われますが、何重にもして物を保存するということは、決してめずらしいことではありませんし、楽器に限らず、色々な美術品に見られる収蔵法なのです。
資源の節約という観点から、ここ日本でも過剰包装をやめようとする意識が高まっています。が、なぜ幾重にも梱包するという行為が日本で育まれたのか、ということを考えるのも必要なことではないでしょうか。
(高木 文恵)