1996.5.1
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森川許六筆『百華賦』 |
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井伊家系譜の「底本」 |
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俳諧と画の一致
森川許六筆『百花賦』
「今の人は華美にはしり、昔の人は質実すぎる。一体いつがほど良いときなのだろう。」
『百花賦(ひゃっかふ)』は、こういった書き出しで始まります。そして、梅・桜にはじまる30数種もの花をさまざまなタイプの女性に例えて評し、それぞれに花の絵を添えています。
この作者は、江戸時代の俳人・森川許六(もりかわきょりく)(1656〜1715)。彦根藩士である許六は、江戸勤めのときに松尾芭蕉(まつおばしょう)と親しく交流し、のちに「蕉門十哲(しょうもんじってつ)」のひとりと称されるようになりました。
しかし、天が許六に授けた才能は俳諧(はいかい)だけにとどまらず、画の分野にまで及びました。しかもその画風は、狩野(かのう)派の影響が色濃いものから洒脱(しゃだつ)なものまで、かなり幅広いものであったようです。
許六は、画についての論も多く、詩歌俳諧の風雅(ふうが)と画とは一致する、とさかんに主張しています。『百花賦』は、軽妙(けいみょう)で洒脱(しゃだつ)な俳文と画とが見事に溶け合っており、許六が自らの思想を結実させた作品といえるでしょう。
(高木 文恵)
新常設展示「古文書が語る世界」から
井伊家系譜の「底本」
4月から常設展示で古文書の展示が始まりました。展示替えごとにテーマを設定して、このたび重要文化財指定を受けた『彦根藩井伊家文書』を中心とする館蔵古文書・典籍を紹介します。
5月8日からの展示テーマは、「井伊家の諸系図」です。井伊家歴代当主や一族、さらにその祖先をたどった系図は何種類も編纂されました。初代藩主直政(なおまさ)や2代直孝(なおたか)が徳川幕府成立期に果たした重要な役割や、井伊氏の先祖が藤原鎌足(ふじわらのかまたり)にまで遡れる血筋であるという主張は、井伊氏が彦根藩主として政治を執ることの正当性を裏付けることになりました。
将軍家光(いえみつ)の時代になって社会が安定しだすと、幕府は大名家の家譜を編纂する事業をおこないます。寛永18年(1641)に諸大名から系譜史料を提出させて、それをもとに「寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)」を完成させました。井伊家では家老岡本宣就(のぶなり)(半介家初代)が著述したものを幕府に提出しました。提出までの期間が短かったため、内容はあらましのみでした。そのため、後日宣就は詳細な書き入れをして「井伊氏族系図伝記」を完成させました。これは彼の隠居名を取って通称「喜庵(きあん)稿」と呼ばれました。
その内容は、藤原鎌足から書き起こし、井伊氏元祖の共保(ともやす)については遠江国井伊谷(いいのや)八幡宮の井戸の中より生まれたという伝承などを記しています。その後の歴代当主や一族・庶流の系図のあと、初代藩主直政の記述になります。直政の事績は、2歳の時に父直親(なおちか)が殺されて以来かくまわれて成長した幼少時代、15歳の時鷹狩に出かけた家康と対面して家臣となったエピソード、さらに家康の武将としての活躍が順次書き上げられています。これらが喜庵稿の過半を占めており、直政の活躍を漏らすことなく綴ることが喜庵稿の目的の1つであったと考えられます。2代藩主直孝の事績は、家康に拝謁してその家臣となって以来の領地拝領や大坂の陣での活躍などを記し、寛永15年(1638)に5万石が加増されて領地が30万石に確定した記事で結ばれました。
江戸時代を通じて井伊家系譜の編纂作業はくり返されます。寛政年間(1789〜)、幕府での系譜改訂事業に伴い、彦根藩でも井伊家系譜の再調査をします。特に直政の事績の再調査は、喜庵稿を基に「寛永諸家系図伝」や他家に伝わる記録と比較して丹念に検討されました。
「喜庵稿」は井伊家系譜のうち「底本」ともいうべき重要な系譜だったことがわかります。
(野田 浩子)
「彦根藩井伊家文書の世界」より
元禄の日光東照宮大修理と井伊直興(いいなおおき)
期間 1996年6月7日(金)〜7月7日(日)
絢爛豪華な装飾で知られる日光東照宮は、徳川家康の死後1周忌にあたる元和(げんな)3年(1617)4月に建てられました。20年を経た寛永(かんえい)13年(1636)には、全面的に建て替えられ、その後何度も修理が行われていますが、現在の社殿は、寛永期のものが基礎となっています。
東照宮の長い歴史の中でも、元禄(げんろく)元年(1688)から元禄3年にかけて行われた修理は、最も大規模で、ほぼ全面的な解体修理でした。この工事の惣奉行(そうぶぎょう)をつとめたのは彦根藩4代藩主井伊直興(いいなおおき)、助役大名は仙台藩主伊達綱村(だてつなむら)。大工棟梁は、近江国の甲良(こうら)(甲良町)出身であり幕府お抱え大工であった甲良宗賀(むねのり)・宗員(むねかず)の両人でした。
寛永以来の大工事とあって、譜代大名筆頭の井伊家と東国第一の大名伊達家が選ばれたのです。仙台藩では家中の藩士に経費負担を命じ、また工事費捻出のため、京都の商人から3万両を調達したといいます。江戸時代の貨幣を現代の価値に置き換えるのは難しいのですが、少なく見積もっても数十億円にのぼるでしょう。
写真は、工事を命じた将軍綱吉(つなよし)が、元禄2年2月16日、惣奉行をつとめる直興に対し、作業場における掟を申し渡したものです。工事中の不服申し立て・喧嘩口論(けんかこうろん)などを禁止しており、いずれも言い分のある者は工事が終わってから申し立てなさいとしています。このような掟は大規模な幕府普請の際しばしば出され、工事に携わる役人・人夫の統制により工事が遅れないようにしたものです。
重責を担った直興は、工事期間中、元禄2年の4月から5月と翌年2月から工事完成の7月までの2度、長期間にわたり工事の進み具合を見分しています。当時直興は、30代半ばの壮年期。将軍の期待を一身に受け、喧噪(けんそう)の中の普請場を家来を従えて闊歩(かっぽ)する姿が目に浮かぶようです。
直興は、元禄8年、佐和山西麓の大洞弁財天堂(おおほらべんざいてんどう)を建てた藩主としても知られます。この弁財天堂は元禄時代の建物としては珍しく、極彩色の華麗な装飾が施され「彦根日光」とも呼ばれ、東照宮を修理した甲良大工を招いて建てられたとの説もあります。しかし実際は、弁財天堂は彦根藩お抱えの大工棟梁6人が担当しています。華麗な建物ゆえ、そのような俗説も生まれたのでしょう。もちろん直興の心中には、日光のような華麗な御堂を彦根の地に建て、彦根の安寧を願いたいという気持ちが強かったといえます。それは日光東照宮の大修理を完成させた自信のあらわれでもあったのです。
(母利 美和)
「歴史の中の障害者」より
座頭(ざとう)のイメージ
期間 1996年7月14日(日)〜8月20日(火)
上の写真は、江戸時代後期の文化2年(1805)に出版された「江戸職人歌合(えどしょくにんうたあわせ)」にえがかれた座頭の図です。
職人歌合は鎌倉時代に始まったもの。異なる業種の職人2人が和歌を1首ずつ詠(よ)み、それに対し判者が歌の優劣を判定するという趣向で、職人の仕事の場面が歌とともにえがかれます。絵がえがかれた当時、人々がそれぞれの職人をどのようにイメージしていたのかがわかります。「江戸職人歌合」は、歌合の「江戸の町」版。ただ職人といっても手工業職人だけでなく、座頭、商人、借家の大家さんなど、江戸時代後期の江戸の町で働いていた様々な職業の人々があらわれます。
江戸時代、座頭は当道座(とうどうざ)という盲人の組織に属し、当初は琵琶法師(びわほうし)の系譜をひく琵琶・三味線(しゃみせん)の盲人演奏家のことをさしましたが、次第に鍼灸(しんきゅう)・按摩(あんま)の医療技術の世界に進出してゆきます。右の座頭、楽器を持っていません。江戸時代後期の江戸の町に住む人々にとっては、座頭はこのようなイメージとなっていたのです。
テーマ展では、盲人の歴史をふり返り、右のような新たな生業への進出、「生きるための権利」の獲得の様相にスポットをあてます。
(渡辺 恒一)