彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 34

1996.8.1


button 銘三和
button 江戸時代の参勤交代
button 企画展日本の楽器
button テーマ展湖東焼の「銘」
button テーマ展「赤備え」の特徴

鎌倉時代の箏(そう)
銘三和

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 井伊家伝来の、雅楽に用いる13絃の箏。

 総長は180.3cmで、通常の箏より少し短く、箏の多くがキリ材であるのに対して、これはスギ材で作られています。

 信貴山(しぎさん)の頼尊(らいそん)が、勤行の暇に制作したもので、三ヶ月にしてできあがったので、よく律呂(りつりょ)、すなわち音律が和すことを願い「三和」と号す、という銘記が内部に記されています。

 頼尊(1186〜)は、大和と河内の境にそびえる生駒山地の南端に位置する信貴山朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)の僧です。雅楽器の笙(しょう)の制作者として名高く、「笙は、信貴の頼尊の作を最上とす」といわれた程です。鎌倉時代前期に活躍しました。

 頼尊は、僧としての勤めの合間に楽器を制作しました。この時期、音楽を奏することが、浄土往生をとげる手段となるとする考え方がありました。頼尊は、音を奏でる楽器を制作することに、同様の意義を見いだしていたと考えることもできるでしょう。

(齋藤 望)

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常設展示 「古文書が語る世界」から
江戸時代の参勤交代

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図1.『武鑑』より
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図2.「御武器並御道
具類絵図」より

 下に、下に、・・・と、かけ声にあわせ歩を進める大名行列。江戸時代、大名が参勤交代(さんきんこうたい)で往来を通るようすとして、しばしば描かれる象徴的な場面です。

 江戸時代の参勤とは、大名が領地を離れ一定期間に限って将軍の居る江戸に滞在し、将軍とのお目見えや幕府の諸行事・諸役に参加することでした。大名の江戸参勤は、関ヶ原合戦に勝利した徳川家康のもとへ、外様大名が江戸へ赴き忠誠を示したことにはじまります。慶長(けいちょう)8年(1603)家康が将軍に就任すると、その傾向は増し、家康も諸大名に対して屋敷地や贈物を与え、妻子の江戸住まいを奨励しました。そのため諸大名は大勢の人数を伴い参勤し、大名行列の華やかさを競ったのです。

 しかし、過当競争により大名の負担は増大し、制度化により家格に応じた御供人数が定められるよう、諸大名から求められました。幕府はこれに応じて、元和(げんな)元年(1615)の「武家諸法度(ぶけしょはっと)」では、20万石以上は20騎以下と定めたのです。また、寛永(かんえい)19年(1642)の「武家諸法度」では、参勤交代の制度が譜代大名にも適用されましたが、老中(ろうじゅう)や若年寄(わかどしより)・奉行(ぶぎょう)などは定府(じょうふ・江戸詰)とされ、役職により参勤交代が免除された大名もあります。

 彦根藩井伊家は、江戸城の溜間(たまりのま)に詰め、将軍・老中から諮問を受ける立場にありました。また「御用部屋入(ごようべやいり)」といって、臨時に老中の合議に参加するよう命じられたり大老に就任すると、江戸を離れるわけにはいきません。そのため、御用隙(ごようすき)の際に、隔年で暇(いとま・休暇)をもらって彦根に帰ったのです。江戸時代の武家名鑑というべき『武鑑(ぶかん)』には、各大名の参勤交代の時期が記されていますが、井伊家は「丑卯巳未酉亥」年の5月に参勤となっています。

 参勤交代の大名行列の先頭を飾るのは長柄(ながえ)の槍。図1は『武鑑』に載せられた井伊家の槍先です。槍の穂先の覆いは各大名で異なり、井伊家は黄色のなめし皮で、図2のように2本の「対(つい)の鑓(やり)」が許されました。各大名の目印となり、人々は槍の穂先を見ればどの大名か判別できたのです。

 大名行列は、この槍を先頭にして、通常、江戸から彦根まで10泊11日、1日に40kmから60kmも進みます。「下に下に」といつもゆっくりと進んだわけではありません。鳥居本を過ぎ彦根に近づくと、切通(きりとおしみち)の坂下付近(現在の古沢町松縄手)から行列を整え、藩主は馬に乗り、整然とした大名行列を城下の人々に見せたのです。

(母利美和)

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企画展
日本の楽器
−織りなす音・雅の世界−
 期間 1996年10月26日(土)〜11月25日(月)(会期中無料)

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 はるか古(いにしえ)の日本の音や、伝統芸能に対する関心が高まりをみせています。

 現在行われている日本の伝統音楽の源流を、ずっと遡(さかのぼ)っていくと、多くは雅楽にたどりつきます。

 日本の雅楽は、奈良時代までに中国や朝鮮半島から伝わったものと、日本古来の楽とを包摂したもので、永い歴史のなかで日本独自の展開をとげ、現代に受け継がれてきました。

 本館には、彦根藩第12代藩主井伊直亮(いいなおあき)の収集した雅楽に用いる楽器、そして多数の楽書や楽譜などが収蔵されています。

 直亮は雅楽を伝承していた公家や楽家から、各種雅楽器の奏法を伝授され、また家臣にも学ばせるほど、雅楽の受容に熱心でした。

 雅楽では「弾きもの」「吹きもの」「打ちもの」(弦楽器・管楽器・打楽器)の3つのジャンルの楽器が用いられます。

 直亮収集の楽器は、これらの種類をすべて網羅し、質量ともに日本有数の楽器コレクションとして知られています。この中には平安、鎌倉時代に遡る在銘の作品があり、さらに楽器を納める箱や筒、袋などには華麗な装飾が施されています。実用品としての枠を越え、美術品としてもみごたえがあります。

 この企画展は、原始古代から近世にいたる日本の楽器の流れと、楽器にみる王朝の雅びやかな世界の伝統を、井伊家伝来作品を中心に、日本各地の神社や寺院、そして大名家などに伝えられた作品で構成し、さらに考古資料や文献資料などと併せて多角的な視点から紹介します。

(齋藤 望)

[主な展示品]

序章 遙かなる音

[原始古代の祀りと楽器]
◎銅鐸(滋賀県立安土城考古博物館)
 木製琴(橿原市教育委員会)
◎金銅製五絃琴(宗像大社)
◎神宮神宝図巻(前田育英会)
◎埴輪男子像(相川考古館)

1 美術にみる音の世界

◎葉月物語絵巻(徳川美術館)
●銀琴(春日大社)
◎阿弥陀聖衆来迎図(安楽律院)
◎阿弥陀聖衆来迎図(新知恩院)
●雲中供養菩薩像(平等院)
 源氏物語蒔絵手箱(大阪市立美術館)
 木地蝋塗鞘大小拵(本館)

2 井伊直亮の楽器収集

 井伊直亮像(清涼寺)
 楽器類留(本館)
 蘇合香伝授状(本館)

3 雅びの音

[打ちもの]
○■太鼓(熱田神宮)
○荷太鼓(熱田神宮)
 坐太鼓(誉田八幡宮)
 鼓胴(手向山八幡宮)
 鼓胴(石上神宮)
 羯鼓胴(誉田八幡宮)
 羯鼓(本館)
 鉦鼓(本館)
◎■婁鼓(龍田大社)
◎■婁鼓・振鼓(東京国立博物館)
 笏拍子(本館)
[吹きもの] 
 笙 銘元永丸(本館)
 笙 銘二帯(談山神社)
◎舞楽面(誉田八幡宮)
 篳篥 銘小男鹿(東京国立博物館)
 篳篥 銘玉振(本館)
 龍笛 銘花鳥丸(本館)
 龍笛 銘青柳(国立歴史民族博物館)
 狛笛(本館)
 連管 銘鳳凰(東京国立博物館)
 神楽笛(本館)
[弾きもの]
 箏 銘三和(本館)
 箏 銘穐山(本館)
 箏 銘松風(国立歴史民族博物館)
 箏 銘松風(四天王寺)
 和琴 銘大桐(国立歴史民族博物館)
 琵琶 銘箕面(国立歴史民族博物館)
 琵琶 銘望月(本館)
[調律用具]
 調子笛(本館)
 図竹(本館)
 律管(本館)
 四穴(本館)
[楽書と楽譜]
 糸竹口伝(本館)
 教訓抄(本館)

4 広がる音の世界

[箏と琵琶]  箏 銘鳳凰(多久市郷土資料館)
 山田流箏(本館)
 平家琵琶(本館)
[能の楽器]
 能管 銘法橋(永青文庫)
◎群鹿蒔絵笛筒(大和文華館)
 苅田蒔絵小鼓(徳川美術館)
 鉄砲蒔絵大鼓胴(神戸市立博物館)
 扇面散蒔絵太鼓胴(永青文庫)
[七絃琴と一節切]
 七絃琴 銘冠古(国立歴史民族博物館)
 七絃琴(本館)
 一節切(熱田神宮)

■関連講演会

1996年11月2日(土)
「日本の雅楽」
  新潟大学文学部教授 萩 美津夫氏

1996年11月9日(土)
「源氏物語と音楽」
  梅花短期大学助教授 中川 正美氏

1996年11月16日(土)
「工芸に見る楽器のデザイン」
  東京国立博物館漆工室長 小松 大秀氏

1996年11月23日(土)
「井伊家伝来の雅楽器」
  本館学芸員 斎藤 望

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テーマ展
「湖東焼−民業湖東の華−」より
湖東焼の「銘」
 期間 1996年8月23日(金)〜9月24日(火)

 江戸時代、彦根は小江戸情緒ただよう城下町としてにぎわいました。そんな彦根に、江戸時代後期になって湖東焼が生まれます。湖東焼は、城下の商人絹屋半兵衛(きぬやはんべえ)たちにより始められ、13年ののち彦根藩に召し上げとなって、やがて黄金時代を迎えます。幕末の大老として知られた井伊直弼(いいなおすけ)が藩主の頃のことです。この時期に、金襴手(きんらんで)・赤絵金彩(あかえきんさい)・色絵(いろえ)・染付(そめつけ)・青磁(せいじ)など磁器を主体とした各種の細やかで美しい逸品が生み出されました。

 ところで一般の焼物の要所にしばしば「銘」があるように、湖東焼にも銘の認められるものがかなりあります。銘は、いわば作者のサインのようなもの。湖東焼の場合、銘は時代とともに大きく変化しました。絹屋窯の当初は、作品に銘を入れることはあまりなかったようです。いまだ知名度の低い湖東焼ですから、たとえそれが優秀な作品であっても銘を入れないで、当時の焼物市場を席巻(せっけん)している伊万里(いまり)や瀬戸の傘下(さんか)で販売したほうが売れたのでしょう。やがて「湖東」や「澤山」などの銘が入るようになり、藩窯初期には「湖東」のほか「淡海彦根城」「金亀山東」「金亀城東」「湖」などが散見されるようになります。澤山は窯のあった所、金亀山は彦根城のある彦根山のことです。そして直弼の代に藩窯の作品は「湖東」の2字に統一され、他の銘を入れることが禁じられました。

 もっとも、黄金時代になると、藩窯のお抱(かか)え職人以外にも湖東焼に携わる人々があらわれます。その一群の人々は客分待遇の絵付師であった幸斎(こうさい)と鳴鳳(めいほう)。他の一群の人々は、安政3年(1856)に株仲間を結成し、主に藩窯の素地(きじ)を用いて自宅で上絵付(うわえつけ)をした4人、つまり自然斎(じねんさい)・床山(とこやま)・赤水(せきすい)・賢友(けんゆう)です。両群の人々はともにお抱えではありませんから、自分の好みで自由に銘を入れることができました。彼らの作品を見ると、必ずといっていいほど彼らの名前や号などがどこかにひそんでいます。それは、藩窯のお抱え職人にはなし得なかった自己主張であり自信でもあったでしょう。

 このテーマ展では、4人の株仲間の作品をまとめて展示します。いずれも銘のあるものばかり。どんな銘が入っているのか楽しみです。

(谷口 徹)

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テーマ展
「彦根藩士の甲冑−赤備えの家臣たち−」より
「赤備(あかぞな)え」の特徴
 期間 1996年9月27日(金)〜10月22日(火)

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 音に聞えた「井伊の赤備(あかぞな)え」。

 井伊家家臣団、つまり彦根藩では、藩主から家臣にいたるまで、すべての武具を朱塗りとして、これを「赤備え」とよびました。

 天正10年(1582)彦根藩祖井伊直政(いいなおまさ)は、徳川家康より武田信玄の家臣団70余名を配属され、このとき武田家の家老で武勇に秀でた山県昌景(やまがたまさかげ)が用いていた「赤備え」をあやかるよう命じたのが「井伊の赤備え」の始まりです。

 やがて朱色に統一された部隊が、関ヶ原合戦や大坂の陣で活躍し、その勇名は全国に轟きました。以来「井伊の赤備え」は、勇猛果敢な彦根藩士をたたえる別称ともなったのです。

 彦根藩士が着用した「赤備え」の甲冑には共通した特徴があります。写真はその甲冑の一例です。兜や胴、籠手(こて)や臑当(すねあて)などの主要部分はすべて朱色の漆に塗られ、頭には金色に輝く天衝前立(てんつきまえたて)と呼ぶ三日月状の立物が装着されています。この天衝前立もまた、彦根藩士に共有の印でした。

 朱色の甲冑に、金に輝く天衝前立。このいでたちの彦根藩士が何十、何百と戦場で追ってきたら、敵はかなりの恐怖感や威圧感を感じ、「井伊の赤備え」と呼んで、恐れたことでしょう。

(山岸 岳)

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