彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 35

1996.11.1


button ハルマ和解
button 彦根藩主の鷹狩り
button 企画展銘 二帯
button テーマ展武家と公家との交流

洋学コレクション
ハルマ和解(わげ)

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 彦根藩12代藩主井伊直亮(いいなおあき)は多様な学問・芸能に興味を持っていました。洋学もその一つ。書物や地図、さらに時計やピストルなどまで入手しています。

 ハルマ和解(わげ)は日本最初の蘭和(らんわ)辞典。寛政(かんせい)8年(1796)、蘭学者(らんがくしゃ)稲村三伯(いなむらさんぱく)が中心となって、オランダ人ハルマの著した辞書をもとに、約6万語を日本語訳しました。左にオランダ語、右にその日本語訳があります。

 直亮が大老職を務めた天保(てんぽう)6年(1835)から同12年の間には、日本近海に度々外国船が出没するなど、大老の直亮も対外情勢には無関心ではいられませんでした。また、多彩な学問に関心の深かった殿様にとって、洋学書は格好の収集の対象となったのでしょう。

 蓋(ふた)の表には「紅毛書(こうもうしょ)」、裏には天保14年(1843)に長崎通詞(つうじ)の所蔵本を入手したと直亮は自筆で記しています。書名を「紅毛書」としたのは、多くの紅毛=オランダの書物を購入する以前、洋学書が珍しい時期に入手したからかもしれません。

(野田 浩子)

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彦根藩井伊家文書から
彦根藩主の鷹狩(たかが)り

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 晩秋から冬の季節、水辺の葭地(よしち)の鴨や、枯野(かれの)の雁(かり)の姿が多く見られます。これらの鳥を大鷹(おおたか)や隼(はやぶさ)をつかい捕らえる狩猟である鷹狩りは、江戸時代の大名たちによって盛んに行われました。鷹狩りは将軍・大名が独占し、これを行う場である鷹場(たかば)は将軍が大名に与えました。将軍は鷹や鷹狩りの獲物を大名に下賜(かし)し、逆に各大名も将軍へ獲物を上納しました。この贈答には、大名の家格(かかく)や身分に応じて格式が定められており、将軍・大名の身分秩序を維持する武家儀礼として重要な意味がありました。

 彦根藩主井伊家の場合、近江国一国と山城国淀堤(よどづつみ)までと、武蔵国世田谷(せたがや)を鷹場とし、譜代大名筆頭(ふだいだいみょうひっとう)、溜間詰(たまりのまづめ)の高い家格であったため、将軍との間で鷹や獲物の贈答が頻繁(ひんぱん)に行われました。

 彦根藩の鷹頭取(たかとうどり)が記した文化9年(1812)の「御出留(おいでとめ)」(彦根藩井伊家文書)では、12代藩主井伊直亮の鷹狩りの様子が具体的に分かります(写真)。

 この年、直亮は19歳で藩主となり、6月、相続後はじめて国元へ入部。その際、将軍から鷹と馬を拝領しました。鷹狩りの季節の冬になると直亮は鷹狩りを開始しました。

 鷹狩りは頻繁に行われ、10月から翌年の3月までの半年間に21回を数えました。藩領内で行われた鷹狩りは、船を使うものと、馬によるものとがあり、前者は、水辺のポイントを巡り、船から鷹を放ちます。槻御殿(けやきごてん)から米原方面に向かい、松原内湖、入江内湖を巡るコースと、琵琶湖に出、荒神山(こうじんやま)周辺を巡るコースとがありました。御鷹野船(おたかのふね)(藩主)、御供船(おともふね)(側近)、御鷹船(鷹および鷹役(たかやく))の船が出ました。一方、後者は城下町周辺の平田村(ひらたむら)・大藪村(おおやぶむら)などに、鷹方頭取、鷹役に加え、犬と犬牽(いぬひき)役を従え、藩主が出馬するものでした。

 11月には、将軍より拝領の大鷹や井伊家の大鷹、隼など10羽の鷹により、将軍への献上の雁と鴨を捕らえる鷹狩りが一大イベントとして行われました。捕らえた雁と鴨は飛脚(ひきゃく)で江戸へ送り、幕府との連絡役の城使役を通じて献上されました。

 頻繁に行われた鷹狩りからは、当時19歳の直亮の活動的な様子が想い起こされます。しかし、それは単なるレジャースポーツであっただけでなく、将軍との関係において、彦根藩主としての必要不可欠な仕事でもあったのです。

(渡辺 恒一)

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企画展
「日本の楽器−織りなす音・雅びの世界−」より
談山神社の笙
銘 二帯
 期間 1996年10月26日(土)〜11月25日(月)

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 奈良県桜井市の多武峯(とうのみね)に鎮座する談山神社(たんさんじんじゃ)は、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)を祀る由緒のある神社です。

 数多くの社宝を伝えていますが、今回の展覧会には、日本の笙(しょう)を代表する名品をご出品いただきました。「二帯(ふたつおび)」の銘(めい)がある行円(ぎょうえん)作の笙です。

 銘の二帯は、竹管を締めている竹を模した銀製の金具(帯(おび)という)が、ふつうは1本なのに、この笙では2本になっていることからつけられたものです。

 竹管のうちの1本に、
 天福元年 癸巳(みずのとみ)六月下旬の比(ころ)
 これを作る、信貴山僧行円(しぎさんそうぎょうえん)
という銘文があります。鎌倉時代前期の天福(てんぷく)元年(1233)に、行円(1159〜?)により作られたことが明らかです。行円75歳の晩年の作です。

 作者の行円は、奈良県の信貴山朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)の僧で、笙の制作者として名高い人物です。同じ信貴山の頼尊(らいそん)(1186〜?)という僧も、笙の作者として有名で、二人は並び称されてきました。

 この二帯が、古来、著名な笙であったことは、江戸時代の元禄3年(1690)になった安倍季尚(あべすえひさ)撰『楽家録(がっかろく)』の音楽珍器の部に、その頃まで伝えられていた名器を列挙して、
 二帯、和州高市郡多武峯(わしゅうたかいちぐんとうのみね)に在(あ)り
と記されていることからも容易に想像できます。

 そのことを裏付ける作品があります。

 館蔵の井伊家伝来楽器のなかにある「初雁(はつかり)」の銘のある笙です。

 この笙は、竹管の銘記によれば、江戸時代の享保17年(1732)に、林広房(はやしひろふさ)が(1669〜1747)制作したものです。

 そして、多武峯の二帯の寸法に従い、天正年中(1573〜92)の古竹を用いて作った、と記されているのです。

 笙は、中世以前には、行円や頼尊のように、僧のなかでも、工芸に巧みなものが作ることが多かったようですが、江戸時代になると、楽人(がくじん)自らが制作するようになりました。

 初雁の作者広房の林家は、太秦(うずまさ)を姓とする天王寺方(てんのうじがた)の楽家(がっか)で、代々、笙を家業としていました。

 この例のように、楽器を制作するときに、これぞという有名な作品を写すことが、しばしばあります。

 写しといっても、どこまで正確に複製するかは、個々の場合によって異なるのでしょうが、写しを作ることに意味を見いだす意識は、日本の美術全般にわたる興味深い問題です。

 それにしても、初雁の場合、竹管に「多武峯の二帯の寸法に従う」と麗々しく書かれているところに、談山神社の二帯が、世に周知の名管であったことが窺われます。

(齋藤 望)

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テーマ展
「井伊家伝来・公家の書」より
武家と公家との交流
 期間 1996年11月29日(金)〜1997年1月5日(日)

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鞠の庭に 心をそめて 紅の
 葛のはかまは 千代もきよかし

 彦根藩11代藩主井伊直中(いいなおなか)(1766〔1763とも〕〜1831)は、代々蹴鞠(けまり)を家職とする飛鳥井雅威(あすかいまさたけ)(1758〜1810)に従って蹴鞠を修養し、ついには免許を伝授されました。

 冒頭の歌は、直中が紅の葛袴(くずばかま)の着用を許されたことを祝って、飛鳥井雅威が詠んだものです。

 蹴鞠の装束は、近世以前は改まった様式はなく、動きやすいという点から狩衣(かりぎぬ)を身につけることが多かったといわれます。しかし、室町時代の末からは長絹の直垂(ひたたれ)様式に葛袴というのが例となり、正式な蹴鞠装束とみなされるようになりました。

この葛袴の色にはランクがあったのか、冒頭の和歌の詞書(ことばがき)には、「紅葛袴」は「武門に着用の事は尤今度初例なり」とあります。つまり、武家で紅色の葛袴がはじめて許されたと記されているのです。

 代々彦根藩主であった井伊家には、公家の書が少なからず伝来しています。これらの作品は、書として観賞する美術品であると同時に、当時の公家と武家との交流をうかがうことのできる貴重な資料でもあるのです。

(高木 文恵)

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