1997.5.1
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高取耳付茶入 |
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幕末彦根藩の京都守護 |
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上品で端正
高取耳付茶入
(たかとりみみつきちゃいれ)
筑前国(福岡県)高取で焼かれた耳付の茶入。口から頚にかけて高取焼特有の黄と緑に発色した灰釉(かいゆう)がぽってりと掛かり、その一部は流れて景色を添えています。
高取焼は関ヶ原合戦で手柄(てがら)をたてた黒田長政が、国替えによって筑前に移るとすぐ朝鮮の陶工八山(高取八蔵)父子に命じて焼かせた焼物です。以後、幾度か窯場を移転しますが、この間、福岡藩の御用窯として栄えました。なかでも寛永7年(1630)から寛文5年(1665)まで焼かれた白旗山(しらはたやま)窯の作品は、その制作にあたり、当時大名茶人として名を知られた小堀遠州の指導を受けるなど茶陶の優品が数多く焼かれました。
写真の茶入もその一つ。この茶入はのちに遠州の後継者片桐石州が所持、そして弟子の清水動閑(しみずどうかん)に伝来し、いつしか井伊家の所有となりました。幕末の大老井伊直弼(いいなおすけ)も、彦根藩表御殿(復元された本館)の茶室「天光室」で、この茶入を用いて茶会を催しています。
(谷口 徹)
常設展示 「古文書が語る世界」から
幕末彦根藩の京都守護
嘉永(かえい)7年(1854)年4月9日、幕府は彦根藩に京都守護を命じ、それまで約7年務めた相模国海岸警備・江戸内海警備を解きました。(写真)
当時藩主であった井伊直弼(いいなおすけ)が側近に宛てた書状には、京都守護の命を受けたことが、身に余る光栄で、心おきなく錦を着て帰国できる心地であると書いています。京都守護を任命された喜びはひとしおだったのでしょう。
弘化(こうか)4年(1847)2月、幕府は頻繁に渡米する異国船の江戸湾周辺警備の一環として、彦根藩に相州警備を命じました。当時、12代藩主井伊直亮(なおあき)の世子だった直弼は、相州警備を引き受けることは彦根藩にとって家格不相応の一大事であると批判しました。
井伊家は、常溜間詰(じょうたまりのまづめ)大名で、譜代筆頭の格式をもち、藩祖直政(なおまさ)以来、先鋒をつとめる武勇の家柄として、歴代藩主は将軍に近侍し、たびたび大老として幕政の重要な局面を担当した家でした。
また、将軍家から近江国一国と山城国淀までの範囲を鷹場(たかば)として与えられ、これが実は京都御所の天皇を守護するという幕府の密命だったと伝えられています。京都守護の家柄として相州警備を免除し、京都守護に任ぜられるよう、幕府に積極的に働きかけたのでした。
こうしたなか、ペリー率いるアメリカ艦隊の再来航、日米和親条約締結などがあり、幕府と朝廷の間で大坂湾方面からの異国船防御策として、京都の警備が検討され、ようやく彦根藩が熱望した京都守護が命じられたのでした。
彦根藩の京都守護体制は、一番手が京都駐在、二番手が大津駐在、三番手が彦根に待機して、命令次第で即刻上京可能なようにし、合計二千人程度の配備を計画しました。相州警備にかわらないほど大規模なものといえます。
御所の火災、大地震、大坂湾へのロシア艦隊渡来など、たび重なる世情不安により、彦根藩の京都守護のもので、諸藩に京都警衛(けいえい)・京都七口警護(ななくちけいご)が命じられ、警備体制が整えられました。直弼が大老となった直後には、警備体制がさらに強化されています。
直弼暗殺後、14代井伊直憲(なおのり)が京都守護を受け継ぎますが、文久(ぶんきゅう)2年(1862)閏8月、旧直弼派勢力を一掃する幕政改革により、会津藩主松平容保(かたもり)に「京都守護職」が命じられました。悲願であった彦根藩の京都守護もここにピリオドが打たれたのです。
(齊藤 祐司)
「仙林寺の歴史と美術」より
仙林寺とその寺宝
期間 1997年6月20日(金)〜7月13日(日)彦根駅から北へ10数分、小高い丘陵に渡された高架を渡ると、漆喰壁の見事な門に行き着きます。この門は、天台宗の愛宕山仙琳寺(せんりんじ)の正門にあります。
仙琳寺は、彦根藩4代目藩主井伊直興(いいなおおき)(1656〜1717)の庶子本空(幼名千代之介)を開基とする寺院です。
直興は、永源寺86世南嶺慧詢(なんれいえじゅん)に消息をしたため、幼い息子千代之介の出家と法名を懇請しました。千代之介は、無事出家して名を辨慧と改めます。程なく南嶺の遷化(せんげ)という事態に遭遇した辨慧は、京に出て天台・真言・律・禅(浄土宗とも)の4宗兼学の般舟三昧院に入り、名を本空と改め、やがて同寺の住職となりました。本空は、自ら寺をおこすを決意しますが、病に倒れ、弟子の義空に望みを託して世を去ります。ときに本空60歳でした。
義空は、師の遺志を受け継ぎ、託された遺金を京の大火で失うなど幾多の困難に直面しますが、彦根の愛宕山に1寺を建立、歴代藩主の外護も厚く、着実に寺観を整えてゆきました。
さて、この仙琳寺には特色のある寺宝が伝えられています。
いつの頃からかは明らかではありませんが、井伊家には、もともと比叡山延暦寺に伝来していた嵯峨天皇(786〜842)の宸翰(しんかん)が珍蔵されていました。文化2年(1805)、ときの藩主井伊直中(なおなか)は、本来あるべき場にあったほうがよいと、宸翰を延暦寺の根本中堂におさめました。
この宸翰とは、今も同寺に伝わる国宝「光定戒牒(こうじょうかいちょう)」です。光定(779〜858)は、師最澄の遺志をうけて比叡山の大乗戒壇設立に尽力した僧で、「光定戒牒」は、光定の功績を賞した嵯峨天皇自らが筆を染めたものです。
延暦寺におさめられた2ヶ月後、この宸翰を忠実に写したものが仙琳寺に寄進され、今に伝えられています。この写しには数々の識語等が付されていて、全体で1巻の巻子に仕立てられています。
「光定戒牒」が井伊家から延暦寺におさめられたという事実は「天台座主記(てんだいざすき)」にも記されていますが、仙琳寺に伝わる巻子によって、当時のより具体的な動きを知ることができます。
このテーマ展では、上記の巻子を含む文書や仏像、仏画、工芸品などを展示し、仙琳寺の歴史と美術を紹介します。
(高木文恵)
「厚板−井伊家伝来能装束から−」より
毘沙門亀甲
期間 1997年5月23日(金)〜6月17日(火)
能では、役柄に応じて、さまざまな種類の装束が用いられます。
今回取り上げる厚板(あついた)は、表着(うわぎ)の下につける着付(きつけ)で、主に老若貴賤(ろうにゃくきせん)の男役から、荒神鬼畜(こうじんきちく)の役にいたるまで、幅広く用いられます。
その文様は、亀甲(きっこう)・瑞雲(ずいうん)・龍などの、豪快華麗な中国風の文様を織りだしたものと、いろいろな幅の縦横の線で文様をあらわす格子(こうし)文様とがあります。
図の厚板は、みるからにとげとげした印象があります。
この文様の単位になっている、6角形の亀甲を3つ繋けた文様を毘沙門亀甲(びしゃもんきっこう)と呼びます。仏像の毘沙門天像が着ている甲(よろい)の文様の形に似ているので、この名があります。
しかもこの厚板は、亀甲のなかに剣を納めています。鋭く尖った感じがいっそう強まるというものです。
厚板の見どころのひとつは、このような文様のおもしろさにあります。
このテーマ展では、井伊家に伝来した「厚板」のなかから15領を精選しその魅力をあますところなく紹介します。
(齋藤 望)