彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 38

1997.8.1


button 金梨地蕪蒔絵螺鈿鞍
button 彦根藩と遠江井伊谷の交流
button 企画展
button テーマ展「追遠録」
button テーマ展親孝行の旅・身延道の記

将軍の鞍
金梨地蕪蒔絵螺鈿鞍

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 写真は安政5年(1858)13代藩主井伊直弼(いいなおすけ)が14代将軍徳川家茂(いえもち)より拝領した鞍です。

 鞍の前面と後面には野菜の「蕪(かぶ)」が大きく描かれています。蕪の根の部分は銀を打ち出して表現し、葉は高蒔絵と所々に螺鈿(らでん)を散らしています。

 ふつうは鞍は形状が複雑な形をしているため、そこに描かれる意匠には制限がありますが、この鞍は蕪の欠けた部分を補ってあまりあるほどに大胆で生き生きと表現しています。

 武具である鞍に蕪の意匠とは少々不思議な感じがしますが、蕪はその語感が頭(かぶ)に通じることから、頭(かしら)を目指すようにと武家の間では縁起のよい食べ物として大切にされました。このため、鞍に限らず多くの武具の意匠として広く使用されています。

 直弼が拝領した際に記した記録によると、もとは8代将軍吉宗(よしむね)が愛用した鞍で、以後の将軍も使用することがあったようです。いかにも武士の頭である将軍が使用するのにふさわしいデザインの鞍と言えるでしょう。

(山岸 岳)

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彦根藩 井伊家文書から
彦根藩と遠江井伊谷の交流

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 彦根藩主井伊家の出身地は浜名湖の北に位置する遠江国西部の井伊谷(いいのや)(静岡県引佐郡(いなさぐん)引佐町)です。中世には井伊家とその一族が井伊谷城をはじめ引佐郡や浜松付近にいくつも城館を築き、周辺を支配していました。

 江戸時代になると、井伊谷は旗本近藤氏の所領となり、井伊家の支配を離れますが、井伊家の菩提寺龍潭寺(りょうたんじ)など、井伊家と縁(ゆかり)のある寺社がいくつもありました。彦根藩主がこの地に参詣したり旧跡を整備するなど、江戸時代を通じて彦根藩と井伊谷はつながりを持っていました。

 井伊谷は東海道の脇街道、通称「姫街道(ひめかいどう)」の気賀宿(けがのしゅく)にほど近く、参勤のため彦根・江戸を往復する藩主は近くを通るため、その途中に井伊谷を訪れることが可能でした。4代藩主直興(なおおき)は隠居後の正徳4年に彦根へ帰国途中に井伊谷龍潭寺に参詣しています。直定・直幸・直中の各藩主も数度目の帰国時に井伊谷に立ち寄っていますが、12代直亮(なおあき)は参詣する事がありませんでした。そのため龍潭寺では井伊家とのつながりの薄れるのを恐れ、13代直弼(なおすけ)が藩主に就任すると、その初めての彦根帰国の際には先例の通り龍潭寺に参詣されるように願い出ています。

 直弼は、嘉永3年(1850)11月藩主に就任し、翌年5月に藩主として初めて帰国の途に就きます。6月4日に浜松宿に宿泊し、5日に日帰りの行程で、御供のうち四百余人とともに井伊谷に向かいます。龍潭寺では境内の清掃にはじまり、昼食の準備や家臣の休息部屋などを調えて久々の彦根藩主の来訪に備えました。直弼は龍潭寺に到着すると地元の井伊家とゆかりのある人物と対面して献上品を受け取り、返礼の金品を下賜します。その後、龍潭寺の井伊家先祖を祀る霊屋を参詣します。また、井伊大明神(いいだいみょうじん)神主中井氏の要望により藩主として初めて戦国時代の井伊谷城跡に残る井伊大明神に参拝して本丸の礎石(そせき)や塚などの旧跡を巡りました。

 当時の井伊谷では神主らを中心に国学が広まり、地域の歴史に関心が高まるとともにかの地で活躍した先祖の墓所・旧跡の整備が考えられました。直弼を井伊谷城の旧跡に案内したのもその資金援助を求める意図があったからです。一方の直弼にも国学の素養があり、井伊家故地を巡ることで祖先祭祀への関心を示します。そのため、長野義言(ながのよしとき)らに井伊家先祖の系譜の調査を行わせるとともに、井伊谷の旧跡整備の費用を寄進しました。

 現在でも、井伊谷城に井伊直弼の寄進による旧跡整備を伝える石碑が建っています。

(野田 浩子)

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企画展

−鞍・鐙から描かれた姿まで−
 期間 1996年10月25日(土)〜11月24日(月)(会期中無料)

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 たてがみをなびかせ、長い足で大地を蹴って疾走する馬。

 古来から日本人は、馬を飼い慣らし、利用してきました。

 とりわけ武士にとっては、馬を乗りこなすことが必須の心得でしたから、武家社会では、ことに馬が重視されました。

 そして、騎乗(きじょう)に用いる鞍や鐙(あぶみ)などの馬具は、現存する作品を見ると、実用品であると同時に美術品としての性格をも備えていたことがわかります。

 また、日本の美術を通観すると、絵画や工芸などのさまざまな作品に、活躍する馬の姿を見ることができます。

 展覧会は、5つのテーマ展から構成されています。

1 騎馬の始まりと馬の信仰

 大陸から日本に騎馬の習慣が伝えられたのは、古墳時代のことでした。展覧会に最初に登城するのは馬の埴輪です。

 やがて馬は、日本人の信仰に深く関わることになります。

 現代にまで連綿として伝統の続く絵馬、神社に納められた神馬、仏教の馬頭観音‥。いずれもが、日本人と馬の繋がり(つながり)を示しています。

 一方で馬は、絵画や工芸品の絶好のモチーフでもありました。

 合戦、祭礼、風俗とテーマはさまざまですが、跳躍し、たたずみ、疾駆し、或いは繋がれるなど、多彩な馬の姿が表現されています。

3 古代・中世の馬具

 また馬具そのものの形や構造は、騎馬の歴史の中で日本特有の展開を遂げました。

 さらに、それを美しく飾ることも、日本人にとっては、自然の成り行きでした。

 ふんだんに用いられた輝く螺鈿(らでん)の美は、この時代ならではのものです。

4 近世の馬具

 近世になると、鞍や鐙は、蒔絵(まきえ)や象嵌(ぞうがん)の技法を駆使して、絢爛豪華(けんらんごうか)さを競うようになります。

 その技巧と、自由な発想によるデザインのおもしろさにみどころがあります。

 馬にはまた、献上・拝領の伝統があり、館蔵の彦根藩主井伊家伝来の馬具には、将軍家からの拝領品が含まれています。ここでは、その代表作をあわせて展示します。

5 馬術の伝承

 江戸時代には、馬具の作者を鑑定する必要から、鞍打の系譜がまとめられるなど、馬に関する著述が多くみられます。

 また、馬術が発展し、多くの流派が編み出されました。彦根藩では、新当流が重用されて、藩士に伝授されたのです。

 この企画展は、日本の馬具と、馬をめぐる美術を、井伊家伝来の作品を軸に、各地に伝来した名品を選りすぐって構成し、紹介するものです。

[主な展示品]

1 騎馬の始まりと馬の信仰

 飾り馬と馬曳き(世良田諏訪下遺跡三号噴出土・尾島町教育委員会)
 人が乗る馬(赤城養護学校)
 土馬(奈良国立文化財研究所)
 陶馬(豊橋市美術博物館)
◎滑石製馬形代(宗像大社)
 木製馬形代(奈良国立文化財研修所)
 絵馬(浜松市博物館)
 絵馬(春日大社)
 絵馬(曽我直庵筆・北野天満宮)
 陶馬(愛知県陶磁資料館)
 神馬(高山寺)
 男神像(許波多神社)
 馬頭観音像(西大寺)

2 美術にみる馬

◎前九年合戦絵巻(国立歴史民族博物館)
◎後三年合戦絵巻(東京国立博物館)
◎黒田長政像(福岡市博物館)
 厩図(林原博物館)
 賀茂競馬図(サントリー美術館)
 芦屋馬図霰真形釜(根津美術館)
 一ノ谷合戦図三所物(本館)

3 古代・中世の馬具

●金銅透彫金具(誉田丸山古墳出土・誉田八番宮)
◎鉄鞍金具(新開古墳出土・滋賀県立安土城考古博物館)
●唐鞍(手向山八幡宮)
◎金銅装唐鞍(住吉神社)
◎移鞍(手向山八幡宮)
◎萩螺鈿鞍(東京国立博物館)
●時雨螺鈿鞍(永青文庫)
◎桜螺鈿鞍(文化庁)
◎黄石公張良図沈金鞍(馬の博物館)
 朱塗木瓜紋鞍(名古屋市博物館)
 蕉平文鞍(東京国立博物館)
 丸紋散螺鈿鞍(大阪城天守閣)
◎鶴文銅象嵌鏡轡(木下美術館)

4 近世の馬具

◎葦穂蒔絵鞍・鐙(東京国立博物館)
 梨地桐橘紋鞍(本館)
 橘紋蜀江蒔絵鞍(本館)
 牡丹唐草能道具蒔絵鞍・鐙(本館)
 金梨地枝橘蒔絵鞍・鐙(本館)
 馬甲(高津古文化会館)
◎拝領馬目録(本館)
 蕉蒔絵螺鈿鞍(本館)
 葵紋菊蒔絵鞍・鐙(本館)
 紫陽花文象嵌鐙(賀茂神社)
 うんすんかるた図象嵌鐙(南蛮文化館)
 黒塗鞭(本館)
 馬柄杓(本館)

5 馬術の伝承

 大坪流馬術秘書(本館)
 西洋軍馬全図(本館)
 伊勢家辻家鞍鐙印譜(本館)
 新当流書(本館)
 悪馬新当流秘伝書(本館)

*●‥国宝
*◎‥重要文化財

■関連講演会

1997年11月1日(土)
「井伊家伝来の馬具」
  本館学芸員 山岸 岳

1997年11月15日(土)
「日本の鞍−華麗な装飾美の世界−」
  東京国立博物館漆工室長 小松 大秀氏

1997年11月22日(土)
「日本の馬の表現」
  嵯峨美術短期大学名誉教授 中野 玄三氏

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テーマ展
「武士の誇り−伝記・合戦記の世界−」より
「追遠録(ついえんろく)」−井伊直政の事績書−
 期間 1996年8月22日(金)〜9月24日(水)

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 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康による天下統一の結果、15世紀半ば以来続いていた「戦乱の世」は終わりを告げ、続く江戸時代の約250年間は、江戸幕府の強力な支配体制の下、世界史まれにみる「泰平(たいへい)の世」となりました。

 この時代の変化は、それまで乱世(らんせ)に生き、武力を行使する能力を第一として生きてきた武士にも大きな影響を与えました。

 町人や農民に対する支配者の一員として、藩の役所などでの日常的な役職がより重要なものとなってきます。また、江戸時代中期には、幕府や藩の支配は、武力による威嚇(いかく)を基本としながらも、儒学(じゅがく)などの教えにより民を治める文治政治(ぶんちせいじ)に変わってゆきます。個々の武士は、「武」とともに「文」をわきまえたものであることが望まれるようになります。

 江戸時代流布(るふ)した武家の伝記や事績書、合戦記(かっせんき)は、そのような文武を備えた武士の模範(もはん)を示し、武士の自覚を促(うなが)すのに少なからぬ役割を果たしたと思われます。

 井伊家伝来典籍(彦根城博物館蔵)に、彦根藩初代藩主井伊直政の事績を記した「追遠録(ついえんろく)」と題する一冊の書があります(写真)。著者は彦根藩井伊家の分家である越後与板(よいた)藩井伊家の臣北村久備。北村は、寛政13年(1801)、井伊直政の200回忌を迎えるにあたり、先祖から自分の代まで相続してきた「冥加(みょうが)」に感謝するために、諸記録から直政の「仁智(じんち)(いつくしみ深く賢いこと)」に関する事績を集め、一冊の書にまとめたと序文に記しています。ここで、注目されるのは、直政の「武勇」についてはよく知られているので、特に「仁智」の徳を後世にまで伝えたいとしている点です。「武勇」にあわせ「仁智」の徳を備えた武士という、江戸時代後期の理想の武士像が直政の姿を通して語られているのです。

 この書は、直後に彦根藩士の飯田忠哲と西村昌良により筆写されています。当時の武士は、藩祖(はんそ)をはじめとする藩や、自らの先祖の歴史を知り、理想の武士像をイメージし、武士としての自覚、藩や家についての誇(ほこ)りを高めました。

 本テーマ展では、彦根藩に関する伝記・軍記物を中心に紹介し、その中で右のような江戸時代の武士のあり様に迫ります。

(渡辺 恒一)

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テーマ展
「深草元政(ふかくさげんせい)−彦根ゆかりの詩僧−」より
親孝行の旅・身延道(みのぶみち)の記(き)
 期間 1997年9月27日(土)〜10月21日(火)

 江戸時代、詩豪(しごう)としてその名を知られた深草元政(1623〜1668)は、若い頃より文芸に親しみ、数多くの作品を残しました。漢詩(かんし)以外にも和歌や、紀行文など作品の分野は幅広いものでした。

 そのひとつに「身延道の記」があります。万治2年(1659)、元政が母とともに宗祖日蓮(にちれん)聖人の隠棲地(いんせいち)身延山(山梨県)へ参詣したときの道中記です。深草を出発し、名古屋〜身延〜江戸〜名古屋の行程に詩文を交えたものです。

 写真は、元政自筆の「身延山の記」の一部分で、2週間の長旅の末、ようやく身延へ到着し、翌8月26日、さっそく宗祖の御影(みえい)を拝んだところと、27日の奥院(おくのいん)の諸堂巡拝(じゅんぱい)から28日の身延出発までの場面です。元政が、道中に綴ったものと考えられます。

 この旅は、元政の母の念願の身延山であり、また、前年亡くなった父の遺骨を身延山に埋葬(まいそう)するためのものでした。江戸時代の旅路は、今と違って、大変なことでした。79才の母は輿(こし)で、元政は徒歩と馬、途中何日か雨に足を止められながら、やっと身延山に到着するのです。

 また、身延参詣後母を、彦根藩主の側室として江戸にいる娘春光院(しゅんこういん)と、次の藩主となった孫井伊直澄(いいなおずみ)に、会わせます。元政は藩(はん)邸へは同道しませんが、同じ江戸ながら、母のことが気がかりで忘れるときはないと綴っています。

 このように「身延道の記」には、元政の孝行ぶりをそこかしこにみることができます。

(頼 あき)

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