彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 39

1997.11.1


button 能面「朝日」
button 直弼の側近宇津木六之丞の年賀状
button テーマ展井伊家伝来の仏教美術
button テーマ展能面の種類

苦悩の色
能面「朝日」

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 能面の面裏や面袋には、作者や伝来、銘の由来などが記されていることがあります。

 「朝日」の面袋には、次のような意味の興味深い墨書があります。

 朝日は、三山(みつやま)の後、玉葛(たまかずら)の後、浮船(うきふね)の後に用いるのが宜しいと存じ奉りますと、安永9年(1780)に宝生弥五郎より申し上げた。

 井伊家伝来の能面の大部分は、15代直忠(1883〜1947)が収集したものと考えられますが、この面がもともと誰の所持であったのかは明らかではありません。いずれ大名家の所蔵だったかと推測されます。

 「この面は何に使うのだろう」という殿の御下問に対して、弥五郎が答えたことが、面袋に書き付けられたのです。

 この中年に近い女性の面は、現在使われている能面には、ちょっと類例がありません。工作は増女(ぞうおんな)に痩女(やせおんな)の感じを加味したとでもいうところです。毛猫が少し乱れ、苦悩の表情もあることから、弥五郎は、三山などの曲をあげたのでしょう。

 制作年代は、室町時代にまで遡ろうかという古さがあります。

(齋藤 望)

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常設展示 「古文書が語る世界」から
年賀状に込めた本音
直弼の側近 宇津木六之丞の年賀状

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 “旧年に引替え、御心地よく春を迎えなされ候ことと存じたてまつり、小子もこの春は別して長閑(のどか)に相覚…”

 これは、幕末の大老井伊直弼(いいなおすけ)の政治を支えた宇津木六之丞(うつぎろくのじょう)が、長野主膳(ながのしゅぜん)にあてた手紙の一節。日付は安政6年(1859)正月3日。「新春の御吉兆、千里同風、目出度く申し納め候」、新年を迎え、良い兆しの風が遠く離れていても同様に吹いていますと、年賀の言葉で書き始められ、今で言えば新年の挨拶がわりに出す年賀状と同じです。

 葉書で年賀状が書かれるようになったのは、明治4年(1871)3月、初めて近代の郵便制度がスタートし、同6年に郵便葉書が発行されて以来のことです。以後、「恭賀新年」などと年賀の言葉を書いた葉書が流行するようになったと言われます。現代のように、年末に書いた年賀状が、元旦に一斉に各家庭へ届けられるようになったのは、明治32年(1899)に年賀特別郵便の取り扱いが開始されたことによるそうです。

 本来、年賀状は、六之丞の手紙のように、新年を迎えた新たな心境を書いたものでしょう。彼は、その時の心情を素直に表現しているのです。

 前年の安政5年(1858)4月に直弼が大老職に就いて以来、六之丞と長野主膳は多忙な日々を送っています。6月の条約調印により、幕府政治は急転回し、水戸斉昭(みとなりあき)が押す一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を退け、直弼は紀州徳川慶福(とくがわよしとみ)を将軍継嗣に決定しました。9月からは、反幕府勢力を一層する安政の大獄を開始し、12月になってほぼ重要人物の逮捕を終えています。さらに、同月24日には、朝廷から条約調印の了解を得るに至ったのでした。

 文中の「誠に今度は抜群の御手柄、万民余波の恩沢にこうむり候」とは、朝廷工作に奔走した長野の手柄をたたえたもの、宇津木はその心境を「御勝軍」の心地、つまり戦に勝利したような心境だ、互いにつのる話もあるので、今から楽しみにしていると、その時点での本音を長野に伝えています。(のちに、これはぬか喜びに成ってしまうのですが。)

 宇津木が長野から朝廷了解の知らせを受け取ったのは、年が明けた正月2日のこと。今のように年末に書いていては、この年賀状の文面は大きく変わっていたことでしょう。

(母利 美和)

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テーマ展
「仏教の美術−館蔵・受託資料から−」より
井伊家伝来の仏教美術
 期間 1997年11月28日(金)〜12月22日(月)

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 本館の館蔵品のほとんどは、代々彦根藩主であった井伊家に伝来した資料ですが、その多くは、江戸時代に制作または収集されたものです。

 しかし、中には、明治時代以降に入手したものも含まれています。そのひとつに、1基の木製の小塔があります。

 奈良時代、称徳(しょうとく)天皇の発願により、100万もの小塔が制作さてたことはあまりにも有名です。

 『無垢浄光大陀羅尼経(むくじょうこうだいだらにきょう)』という教典に、多数の小塔を作り、『陀羅尼経』を納めて安置すると、減罪と鎮護国家の功徳があるという教えが説かれています。この経典にしたがって、100万基の塔をつくって中に陀羅尼経をおさめ、宝亀元年(770)、大安寺、元興寺(がんごうじ)、興福寺、薬師寺、東大寺、西大寺、法隆寺、弘福寺(ぐふくじ)、四天王寺、崇福寺(すうふくじ)の10大寺に10万基ずつ分けて安置したのです。

 これらの多くは火災などによって失われ、現在、10大寺の中では、法隆寺にその一部が伝来するのみです。

 井伊家伝来の百万塔が納められている箱の蓋裏には「鵤寺倉印」の印が捺(お)されています。鵤寺(いかるがでら)とは、法隆寺の別名ですから、もと法隆寺所蔵の塔であったと考えられます。

 100万塔に納入された『陀羅尼経』は、年紀の明白な現存する印刷物では世界最古のものといわれていますが、この経典には、根本・自心印(慈心)・相輪(相輪棠中)・六度(六波羅蜜)の4種類があり、本館の塔にはこのうちの相輪陀羅尼が納められています。

 残念ながら、この経は傷みが目立ちますが、塔のほうは損傷もほとんどなく、作られた当時の端正な姿を今に伝えています。

 このほか、明治以降に井伊家が収集した代表的なもののひとつに、15代当主直忠(なおただ)(1883〜1947)が集めた典籍類があります。直忠は、仏教に深い関心をもち、経典をはじめとする仏教に関する膨大な数の典籍を収集しました。これらの典籍は、当時発刊されたものにとどまらず、江戸時代やそれ以前に制作されたものも多く含まれています。中には、江戸時代に書写された諸尊の図像集などもみられます。

 このテーマ展では、百万塔や直忠が収集した典籍を含めた仏教美術の館蔵品と、寺社からご寄託いただいている作品の中から、約20点を展示します。

(高木 文恵)

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テーマ展
「女の面−井伊家伝来能面から−」より
能面の種類
 期間 1998年1月1日(木)〜2月3日(火)

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 能で使う仮面を「能面」、またはただ単に「面(おもて)」と称します。能面は、舞台で用いる芸能の仮面として能とともに発展してきました。おおよそ室町時代末期から桃山時代には、現在みる能面の基本形ができ上がったと考えられています。

 能では、役柄に応じて、さまざまな種類の能面が用いられます。その種類は、一説に250〜260種類もあるといわれますが、基本的なものは60種類くらいで、あとは多少表情のニュアンスを変えた類面です。

 これらを分類すると、「翁(おきな)」(能以前の猿能の系統)、「尉(じょう)」(年老いた男神)、「鬼神(きじん)」(怨霊や神霊)、そして「男」と「女」となります。

 この中から、今回のテーマ展では、「女面」を取り上げます。年若い小面(こおもて)から、中年の深井(ふかい)、そして老齢の老女(ろうじょ)にいたるまで、年令により人生の深みを増すように、顔のつくりや表情が変化します

 本館蔵の井伊家伝来の能面は、大揃いであることに特徴がありますが、女面も例外でなく、主要なほとんどの種類を網羅しています。

 このテーマ展は、井伊家に伝来した女の面、34面の魅力をあますところなく紹介しようとするものです。

(齋藤 望)

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