1998.2.1
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茶湯一会集 |
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彦根藩の御救米 |
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近代茶道のさきがけ
茶湯一会集
(ちゃのゆいちえしゅう)
幕末の大老として活躍した13代彦根藩主井伊直弼(いいなおすけ)は、石州流の流れを引く茶人でもありました。その著書「茶湯一会集」は一期一会(いちごいちえ)の茶書として有名です。亭主と客の一期一会を第一とし、準備から客を見送ったあとの独座観念(どくざかんねん)までの所作(しょさ)や心得(こころえ)が記されています。
改めてこの書を繙いて(ひもといて)みると、あらゆることに細かく、実際の茶会を想定して記されていることを実感します。例えば「着服并懐中物」には、俗体は黒の小袖に麻上下、法体は十徳、とそれぞれの正式な服装をあげ、婦人は色裏(いろうら)や裾(すそ)模様の有無にかかわらず小袖。帯は無地。婦人であっても茶事には花やかに目立つ服は用いてはならないとしています。
大名茶人として知られる井伊直弼は、自らのためだけでなく、女性も考慮に入れた茶道を考えていたことが窺えます。実際、直弼の奥方や娘、侍女らは、しばしば直弼とともに茶会をおこなっており、直弼の茶を学んでいたようです。
「茶湯一会集」は、1冊にまとめあげられた作法書であり、茶湯における女性の立場を明確に位置づけている書物です。直弼の茶が近代茶道のさきがけと言われるゆえんはこういったところにあるのかもしれません。
(頼 あき)
常設展示「古文書が語る世界」から
彦根藩の御救米(おすくいまい)
江戸時代、領主が領民に対して実施した救済政策は「御救(おすくい)」と呼ばれました。また「御救」によって与えられる米や銀のことを「御救米(おすくいまい)」・「御救銀(おすくいぎん)」といいます。「御救」は、水害・干ばつなどの災害で町村が疲弊(ひへい)した時などに支給され、領主が円滑(えんかつ)かつ安定した領内支配を進めてゆくために欠かせないものでした。
今年度の購入史料の「丑寅未進御救米并上納米之帳(うしとらみしんおすくいまいならびにじょのうまいのちょう)」は、彦根藩による「御救」の様子を示す史料として注目すべきものです(写真)。年月日の記載がありませんが記載された代官の名前からみて18世紀初期の内容のものと考えられます。帳面は上質な料紙(りょうし)を用い、丁寧に仕立てられ、綴じ(とじ)の部分に割り印が押されているので、前述の時期に作成された公文書と見てよいでしょう。
次の史料の内容について見てみましょう。結論を先に述べれば、この帳面は、代官の管下(かんか)の村から収めるべき年貢(ねんぐ)の内、未納(みのう)となっていた米・銀について、一部を「御救米」、残りを「上納米(じょうのうまい)」として清算を行うために作成されたということです。例えば文例をモデルにして示せば、1ヶ村ごとに次のように書かれています。
未納米(みのうまい)100俵は、A村から彦根藩へ支払うべきものです。その内、10俵(ぴょう)を「上納米」として支払い、残りの90俵については「御救米」90俵が藩から村へ下げ渡されたこととして清算しているのです(1俵は米4斗)。どの村も「御救米」と「上納米」との比率は9:1となっています。藩の側からみれば、未納の年貢の内の1割のみが村から上納されるという勘定になります。このような形で代官が管轄する藩の直轄地約200ヶ村について書き上げられ、合計1万8916俵余りの未納米と15貫余りの未納銀が清算されています。この未納分は、近江の直轄地石高を約15万石、年貢がその4割の6万石(=15万俵)とした場合、決して少ない量ではないと思われます。ただ、未納の原因は今のところ不詳です
また、この帳面からは、15名の代官の支配管轄が前職の代官の管轄とあわせて知ることができ、この次期の代官制度の変遷を知る上でも貴重な史料です。
今後、彦根藩の藩政研究の一環として、「御救」を含む諸社会政策を具体的に明らかにし、支配政策の中での位置づけや、町村での実態を解明してゆくことが重要な課題だと思います。
(渡辺 恒一)
「雛と雛道具」より
弥千代の婚礼
期間 1998年2月6日(金)〜3月10日(火)
恒例のテーマ展『雛と雛道具』は、13代藩主井伊直弼(なおすけ)の二女弥千代が、高松藩世子(せいし)松平頼聰(よりと)との婚礼に際して持参した一対の雛と85件の雛道具が展示の中心です。今回は、そんな弥千代の婚礼にまつわる背景を記すことにしましょう。
この時代、井伊家は高松藩と会津藩両松平家とともに溜間詰(たまりのまづめ)でした。直弼は藩主になる前の世子の頃から、頼聰の父頼胤(よりたね)や会津藩主松平容敬(よりたか)を厚く信頼し、互いの屋敷を訪ね合って交友を深めていました。おそらく、そうした中で頼聰よ弥千代の婚礼話が持ち上がり、しだいに煮詰まっていったのでしょう。
やがて話はまとまり、安政4年(1857)10月21日、頼聰は彦根を訪れて新建の居間で弥千代と対面します。その後、奥へ通された頼聰は、弥千代に茶を立ててもらったようです。また、翌年3月26日に、江戸の千駄ヶ谷下屋敷(しもやしき)に招かれた頼聰は、直弼とともに茶会のひとときを楽しんでいます。婚礼の日取りは、この年の4月21日。時に弥千代は、わずか13歳でした。
一方、婚礼にともなう調度品は、直弼の腹心長野主膳(しゅぜん)義言(よしとき)の計らいで、京都において準備が進んでいました。安政5年2月15日、義言が側役(そばやく)宇津木六乃丞景福(うつぎろくのじょうかげよし)に宛てた書状には、これらの調度品の出来が少し遅れている旨が記されています。文中には出てきませんが、調度品の雛形である雛道具も、同時に京都で制作されていたものと思われます。
この頃、時局は切迫し、世に言う「安政の大獄」を直前に控え、義言の本務は京都の情勢を探索することでした。弥千代の華麗な調度品や雛道具にまつわる舞台裏は、決しておだやかなものではなかったのです。ともあれ、義言の準備したこれらの品々は、まもなく江戸の直弼のもとへ届きます。3月6日、直弼が義言に宛てた書状には、その労をねぎらう一文が添えられています。
こうして諸準備が整い、江戸の彦根藩上屋敷から高松藩の屋敷へと、大勢の供揃(ともぞろ)いと婚礼道具を従えて弥千代は輿(こし)入れしました。そして、その二日後、つまり弥千代の里帰りの日である。4月23日、この日に直弼は大老職を命ぜられます。2つの大事に直面し、直弼そして彦根藩上屋敷のあわただしく騒然とするさまが思い浮かびます。
(谷口 徹)
「井伊直弼の諸芸」より
直弼の居相術
期間 1998年3月13日(金)〜4月14日(火)
彦根藩13代藩主井伊直弼(いいなおすけ)は、11代藩主直中(なおなか)の14男として生まれました。17歳までは父直中の膝下、彦根城中の槻御殿(けやきごてん)で育ちました。しかし直中が没すると、城下尾末(おすえ)町の屋敷に移り住みました。
直弼はここを「埋木舎(うもれぎのや)」と名付け、一生をこの屋敷で過ごす覚悟を決めて、禅の修行から、和歌や茶の湯、居相術(いあいじゅつ)・槍術(そうじゅつ)など文武諸芸に励みました。32歳のとき、世子であった兄直元(なおもと)が病死したため急きょ12代藩主直亮の養嗣子(ようしし)となり埋木舎での生活を終えるとこになります。しかし、文武諸芸は以後も研鑽(けんさん)をつづけ、36歳で彦根藩主となってからも怠ることはありませんでした。
写真は、藩主となって4年後の安政元年(1854)に記したと伝える居相新流派の秘伝書『七五三柔居相秘書(しちごさんやわらいあいひしょ)』です。この居相秘書は始め7段、中5段、終わり3段の計15段から構成され、終わり3段を直弼は独自に創案したと記しています。写真の段は終わり3段のひとつ「保剣」の段です。この段で直弼は、剣を保つこと、すなわち刀を抜かずして敵に勝つ極意(ごくい)を説いています。ふつう居相術は敵から不意に切り付けられた際、いかにして長い刀を抜くかという「抜刀術(ばっとうじゅつ)」のことです。しかしこの段では、抜刀術と相反した「精神論」を基にその極意を説いています。
埋木舎時代に培った禅の修行により、その精神を重んじた直弼ならではの居相術の極意が、ここにあらわれているかのようです。
(山岸 岳)