1998.5.1
|
|
黒漆塗糸柳蒔絵中次 |
|
|
井伊直孝 |
|
|
|
|
|
可憐な意匠
黒漆塗糸柳蒔絵中次
(くろうるしぬりいとやなぎまきえなかつぎ)
円筒形の中ほどに合口(あいくち)がある中次形の薄茶器。金と黒、陽と陰で表された糸柳(しだれ柳)の太い枝から、細い枝がまるで五月雨(さみだれ)のように垂下するなかを、燕(つばめ)のかろやかに舞う可憐な意匠です。
この作品を納めた箱の蓋表には「時代写糸柳蒔画 中次 一国斎(一国斎無双黒印)」とあります。一国斎(いっこくさい)は、もと伊勢松阪白粉町の人で沢木正平が本名。大坂で漆芸を修行し、文化8年(1811)名古屋に移って尾張藩小納戸御用塗師(こなんどごようぬし)となります。名手の呼び声高く、名古屋城に因んで金城一国斎(初代)を名乗り、無双とも号しました。
(谷口 徹)
新しい時代のキーマン
井伊直孝(いいなおたか)
平成9年度、彦根城博物館で新たに購入したものの中に「井伊直孝書状」があります。
井伊直孝は、初代の直政(なおまさ)の息男で、慶長20年(1615)直政の跡を継いで、彦根2代藩主となった人物です。書状は、直孝が京都の青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)に仕える大谷治郎部卿(おおたにじろうぶのきょう)泰重にあてたものです。読み下すと次のようになります。
(追書) 尚々御来儀のところまかり出で 御目にかからず御残り多き次第 に候、以上 (徳川秀忠) 相国様御薨逝について、 (将軍徳川家光) 青蓮院御門跡様より早々大樹様へ 御使者遣わされ候につき私躰迄へ御書 拝領、過分至極に存じ奉り候、慮外 ゆえ御請は申上げず候条然るべき様 に頼入存じ候、恐惶謹言 腕痛申ゆえ印判御免成さるべく候 二月廿二日 直孝(印) -------------------------------- (包紙ウハ書) 井伊掃部頭 〆大谷治郎部卿様人々御中 直孝寛永9年(1632)1月24日に、徳川秀忠(ひでただ)の死去に際して、青蓮院門跡からの悔やみ状が、使者によって、江戸の将軍家光(いえみつ)のもとへ届けられました。そのとき同時に、江戸にいた直孝のもとへも、門跡からの書状が届けられました。本状はこのことに対する直孝の礼状です。
秀忠の死の直後のものと考えられ、幕府で寺院行政などの政治に参与していた南禅寺の僧以心崇伝(いしんすうでん)の日記に、青蓮院殿から悔やみ状が来たことが認め(したため)られていることからもわかります。
ここで注目したいのは、礼辞(れいじ)のあとに「慮外(りょがい)」のためとして断りをしていることです。直孝にあてられた青蓮院門跡の書状には、直孝にとって困難なことを言ってきたのでしょうか。または、門跡から書状を頂戴すること自体が恐れ多いことだったのでしょうか。おうけすることはできないので、門跡へはよろしく取りなしてくれるよう治郎卿に頼んでいます。
徳川秀忠は、亡くなる7年前には将軍職を家光に譲り、形式的には引退していましたが、実際には大御所(おおごしょ)として政治の権力を握っていました。その秀忠が末期(まつご)に際して、直孝に、幕府の政治に参与(さんよ)することを命じたのでした。ともに幕政参与を命じられた家康の外孫松平下総守忠明(しもうさのかみただあきら)と直孝は、秀忠の没後、早速、院号を決める場に臨席(りんせき)しています。
幕政の実権を握る大御所の死は、次の時代の幕開けでもあります。新しい時代の政治に関与する直孝にもご挨拶(あいさつ)を、という青蓮院のもくろみがあったのかもしれません。
この書状は、新たな幕開けを迎えた政治舞台で、家光の後見人(こうけんにん)としてスポットライトを浴びる直孝を、多面的に浮かび上がらせることができる貴重な史料です。
(頼 あき)
「狩衣−井伊家伝来能装束から−」より
翁狩衣(おきなかりぎぬ)と蜀江文(しょっこうもん)
期間 1998年4月17日(金)〜5月12日(火)
狩衣は、一般には公家の常用の略装として用いられていた装束です。これを能では、男役の表気(うわぎ)として、神性を具えた役や、貴人の役などに着用します。
袷(あわせ)と単(ひとえ)の別があり、このほかに儀式的な祝言「翁」にのみ用いる翁狩衣があります。
この翁狩衣に特徴的なのが蜀江文です。中国の蜀(しょく)で産した蜀江錦(にしき)に見られる文様なのでこの名があると考えられています。
蜀江文には、格子を割り付けるもの、8角形と小さな4角形を繋げるものなどがあり、中には唐花(からはな)がおさめられています。江戸時代の能装束では、もっぱら後者が用いられました。
能装束の文様は多様ですが、個々の役柄を象徴するような文様が特に選ばれることは、あまりありませんでした。しかし、翁狩衣に限っていえば、蜀江文でなくてはならないと考えられていたのです。
翁は、この世に、天下太平、国土安穏、五穀豊穣、子孫繁栄などの大いなる寿福をもたらすとされていました。こうした翁の性格にふさわしく、文様自体もめでたくある必要があったのです。
それではなぜそれが、鶴亀や松竹梅ではなく蜀江文なのか、ということになると、容易に答えを見いだすことはできません。
蜀江文の中に組み込まれた唐花は古くは蓮華であったとする説があります。蓮華が万物を生み出す根源とされていたことと、翁の寿福性とが相通ずるとみるのです。
ところで、図1は江戸時代の典型的な作例。文様は小ぶりで優しく、唐花のほかに和様の雪輪(ゆきわ)文様も交じります。中国風でありながら、いかにも日本人の好みにまとめられています。
図2は、蜀江文から離れつつも、なお翁狩衣の特質をよく示す異色の作品。
蜀江文の格子は竹格子にとってかわり、格子の辻(交点)には鳳凰の丸文と寿の字、そして小さな菊花。地間を桐と竹で埋めます。蜀江文の精神性を基本に、連続割り付け文様という形を踏襲し、さらに唐花に替えて人々になじみやすい吉祥の文様を配しているのです。
江戸時代後期、天保14年(1843)の制作で、畳紙には「宝生(ほうしょう)太夫方にこれあり候形」とあります。
(斎藤 望)
「湖東焼−鳴鳳と幸斎」より
絵付師(えつけし)・鳴鳳(めいほう)
期間 1998年6月12日(金)〜7月12日(日)
湖東焼は、江戸時代後期に彦根の地で焼かれた焼物です。城下の商人紺屋(伊藤)半兵衛によって始められ、のち彦根藩が直接経営する藩窯となって黄金時代を迎えることになります。
黄金時代を迎える頃になると、湖東焼の名を伝え聞き、当地へやってくる絵付師があらわれました。鳴鳳や幸斎(こうさい)もそんな人達でした。ここでは、彼ら絵付師の中で群をぬいて評価の高い鳴鳳について紹介することにしましょう。
鳴鳳は、もと京都の地侍(じざむらい)でした。井伊直弼(いいなおすけ)が13代藩主になった頃、妻子と鸞英(らんえい)という弟を伴い彦根にやってきて、数年ののち伊勢に去ったと伝えています。この間、客分待遇として湖東焼にかかわり、藩窯で白磁にまで仕上げた製品に最後の絵付を行いました。近年まで井伊家に伝えられてきた湖東焼の多くが、鳴鳳の作品で占められています。彼の在藩期間が短いことを考えると、彦根で絵付をした多くが井伊家に納められ、贈答などに用いられたものと考えられます。
鳴鳳の作品は煎茶(せんちゃ)や抹茶(まっちゃ)道具を中心に酒器や鉢などがあり、金を多用した金襴手(きんらんで)・赤絵金採そして色鮮やかな色絵で仕上げています。その画風は、写真の建水(けんすい)のように白磁肌を生かした大胆な画面構成のものと、画面を緻密な文様で埋めつくした細密画のような両種がありますが、ともに的確な筆致である点は鳴鳳ならではと言えるでしょう。
(谷口 徹)