1998.8.1
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湖東焼・赤絵金彩群仙図茶碗 |
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旗本の就職活動 |
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緻密(ちみつ)で華やかな技(わざ)
湖東焼・赤絵金彩群仙図茶碗
(あかえきんさいぐんせんずちゃわん)
まっ白い磁器の肌に、余すところなく緻密な赤絵を描いて金を補った茶碗です。器の内にはさまざまな姿態で集う仙人たち、外には大空をはばたく鶴の群れがあり、上に飛雲、下に漢詩がびっしりと記されています。湖東焼を代表する絵付師の一人、幸斎(こうさい)の技です。
幸斎は、もと飛騨高山の人とも京都の人とも伝えていますが、嘉永(かえい)年間のはじめ頃に彦根にやってきました。幸斎の高い技量は、やがて井伊直弼(いいなおすけ)の知るところとなりました。直弼が13代彦根藩主となる直前のことです。直弼は、当時親しくしていた御典医(ごてんい)(藩お抱えの医者)上田成伴(うえだせいばん)を介して、幸斎に絵付を注文するようになります。時には自筆の下絵を添えて。この茶碗も、きっとそんな形で直弼の手元に入ったのでしょう。茶碗を納めた箱の蓋表には、直弼の箱書が認められています。
しかし、直弼の慰留(いりゅう)策もむなしく、幸斎は嘉永3年(1850)の7・8月頃には彦根を去ってしまいます。幸斎が彦根に居たのはわずかに1・2年のことでした。直弼はこの年の11月に藩主に就任し、数年後には彼の指導で湖東焼が黄金時代を迎えます。もう少し長く幸斎が彦根に留まっていたならば、と考えるのは私の欲目でしょうか。
(谷口 徹)
常設展示 「古文書が語る世界」から
旗本の就職活動
彦根城博物館が所蔵する「彦根藩井伊家文書」には、徳川将軍の直属の家臣である旗本(はたもと)や御家人(ごけにん)たちが転役や昇進などを願って提出した願書と、それに添えた履歴書などの文書類が約200人分・およそ340通余り残されています。
これらは、いずれも安政5年(1858)5月から同7年2月頃までのもので、ちょうど彦根藩主井伊直弼(いいなおすけ)が大老として幕政の中枢にいた時期と重なっているため、旗本や御家人たちの役職就任や人事の移動などと、大老直弼の関係が気になるところです。
写真は、安政7年2月ごろに、書院番(しょいんばん)を勤めていた旗本小笠原主膳(家禄2000石)の家臣田野忠兵衛が、主君小笠原を使番(つかいばん)に命じてほしいと記した願書です。
第一に、使番を願う理由として、主君の祖父が使番として九州方面の巡見に出た際、薩摩国で病死し、父は使番にならない内に病死し、祖父や父たちが果たし得なかった使番としての勤めをまっとうするという「宿意」をかなえるためと述べています。
田野はこれまでに小笠原の上司である書院番頭(しょいんばんがしら)松平美作守(みまさかのかみ)や、旗本を支配し統括する若年寄(わかどしより)の本多越中守(えっちゅうのかみ)や酒井右京亮(うきょうのすけ)へ転任を願ってきたことを述べています。また、今年は先祖の年忌も予定されているため、老中の公用人(こうようにん)を通じて、願書を直弼の側役(そばやく)兼公用人宇津木六之丞(うつぎろくのじょう)のもとへ提出したが、再度直弼(桜田様)へ内願し、御用始の日まで精進水行しながら転任の命を待つと懇願しています。
幕府の役職人名録である『柳営補任(りゅうえいぶにん)』を見るかぎり、小笠原が使番になったという記述は見当たらず、彼らの願いは果たせなかったようです。
願書の内、大老直弼を頼って内々に提出するとはっきりと明示したものは数通確認できるだけで、そのほとんどは宛名が記されていませんが、いずれも先にみたケースと同じような意図で作成され、直弼の元へ提出されたものといえそうです。
江戸時代、武士の世界では、家格に見合った役職につくため、退職者や転任による空き役の状況を常に注意し、人選リストに加えてもらうよう、老中や若年寄衆などへ積極的な就職活動が日常的に行われていたようです。このようにみてみると、今以上に就職・転任・昇進がむずかしかったのかもしれません。
(齋藤 祐司)
彦根屏風への誘(いざな)い
期間 1998年10月24日(土)〜11月23日(月)
室町幕府の滅亡から豊臣秀吉の天下統一をへて、江戸幕府の幕藩体制が確立した近世初期。この時期、近世初期風俗画と総称される風俗図屏風が大いに流行しました。洛中洛外(らくちゅうらくがい)や祭礼(さいれい)、遊楽(ゆうらく)、南蛮風俗(なんばんふうぞく)などと、画題も豊富で、質の高いものが制作されたのです。
近世初期風俗画の中でも早い時期の作品は、都市の喧噪(けんそう)の様子を余すところなく描きだしていましたが、時代が元和(げんな)・寛永(かんえい)期(1615〜44)に下ると、狂騒の色は影をひそめ、場面は野外から屋内へ移行し、構図も洗練されたものになってゆきました。これは、幕府の統制が厳しくなった時期と軌を一にするといわれています。
この後期の代表作が「彦根屏風」(指定名称:紙本金地著色風俗図)です。江戸時代の寛永年間(1624〜44)に制作されたというのがほぼ定説になっていますが、「彦根屏風」という名称は、彦根藩主であった井伊家に伝来したためにつけられたものです。
この企画展では、彦根屏風の特色と、彦根屏風が描かれた寛永期を中心とする時代の風俗や洗練された感性を浮き彫りにしようとするものです。
□展示の構成と主な展示作品1 「彦根屏風」
◎彦根屏風(本館)2 京の町並と遊楽
洛中洛外図の中の点景としての遊里、四条河原での女歌舞伎、桜の下で繰り広げられる華やかな遊び。のち、宴(うたげ)の舞台は屋外から邸内へと移行してゆきます。この章では、近世初期風俗画に遊楽の諸相を見ます。
◇池田本洛中洛外図(林原美術館)
歴博D本洛中洛外図(国立歴史民族博物館)
◇花下遊楽図(萬野美術館)
◆四条河原遊楽図(天桂院)
歌舞遊宴図(サントリー美術館)
◆邸内遊楽図(龍潭寺)
邸内遊楽図(茶道資料館)3 このごろ京(みやこ)に流行(はや)るもの
(1)遊びと教養
遊里という場は極めて高い教養を必要とし、有名な遊女は当時一流の文化人でした。遊里はまた、流行の発進源でもありました。キセルやかるたなどの南蛮風俗をとり入れる一方で、三味線や舞、書なども遊里には欠かせないものであったのです。◇本田平八郎姿絵(徳川美術館)
文使い図(高津古文化会館)
遊楽図(浄信寺)
桜下美人図(個人)
かるた遊び図(藤井永観文庫)
遊女藻塩読書図(萬野美術館)
犬をつれた禿図(千葉市美術館)
黒柿双六盤(東京国立博物館)
三味線 銘時雨(大阪音楽大学付属楽器博物館)
うんすんかるた(南蛮文化館)
銅肩付河骨形きせる(たばこと塩の博物館)(2)小袖(こそで)礼賛
近世になると、幅広い階層の人々が装いを楽しむことができるようになりました。近世初期風俗画に欠かせないのが、人々のまとう、個性あふれる華やかな小袖です。小袖への大いなる関心は、人物を一切描かない「誰(た)が袖図屏風(そでずびょうぶ)」をも生み出すことになりました。誰が袖図(根津美術館)
黒綸子地花唐草段花文散し模様絞縫箔小袖屏風(国立歴史民俗博物館)
紅綸子地雪持笹桜花模様小袖(東京国立博物館)
黒麻地菊棕櫚模様絞縫帷子(京都国立博物館)
葡萄網干円文様打敷(真珠庵)
◇三沢初子所用帯(仙台市博物館)4 伝統と創意
(1)室町水墨画
彦根屏風の左隅に、見事な屏風が描かれています。この水墨山水図は室町期の画風を示すと考えられ、彦根屏風の作者を考える上で重要な役割を果たしてきました。◇四季山水図 伝狩野元信筆(香雪美術館)
四季山水図 伝周文筆(太山寺)
山水図 伝周文筆 竺雲賛(東京国立博物館)(2)琴棋書画(きんきしょが)
琴棋書画は、古来中国の士大夫の嗜(たしな)むべき諸芸です。この考えは日本にももたらされ、漢画系画派の重要な画題となってきました。彦根屏風は、この古来の画題を、三味線(しゃみせん)や双六(すごろく)などの当世風俗を用いて「見立て」としています。琴棋書画図 伝趙子昂筆(徳川美術館)
琴棋書画図 遮莫月船筆(個人)
琴棋書画図 元信印・伝雅楽助印(個人)
◇琴棋書画図 狩野探幽筆(聖衆来迎寺)(3)彦根屏風、その後
彦根屏風に想を得た翻案作品や模写作品は、現在まで確認された数は決して少なくありません。彦根屏風制作からさほど時期をへずに描かれたものもあります。これらの作品をたどることにより、当時の彦根屏風への評価と、彦根屏風の伝来の一端をうかがい知ることができます。風俗人物図 柴田是真筆(個人)
美人引犬図 住吉広定筆(個人)
琴棋書画図 渡辺南岳筆(個人)
琴棋書画図 下岡蓮杖筆(神奈川県立近代美術館)*◎国宝 ◇重文 ◆県文
■関連講演会
1998年10月31日(土)
「近世前期の小袖ファッション」
東京国立博物館染織室長 長崎 巖氏1998年11月7日(土)
「彦根屏風と近世初期風俗画」
本館学芸員 高木 文恵1998年11月14日(土)
「彦根屏風の<かたち>」
大阪大学教授 奥平 俊六氏
「変わりゆく家制度」より
武士の「家」
−宇津木六之丞(うつぎろくのじょう)の家の場合−
期間 1998年8月21日(金)〜9月23日(水)現代の家族は、夫婦や親子など血縁の人々が同居して構成されているものが一般的ですが、江戸時代の武士の家はどのような人々で構成されていたのでしょう。また、当時の人にとって家とはどのようなものだったのでしょう。
彦根藩士宇津木六之丞景福(かげよし)は、13代藩主井伊直弼(いいなおすけ)の側近で、宇津木六之丞家の9代目です。8代目の景俊(かげとし)の姉の子供で、景俊が重病となった際に13歳の景福がその跡継(あとつ)ぎとして宇津木家の養子となりました。幼名は「留吉(とめきち)」でしたが、宇津木家の養子となると、養父がかつて称していた「六之丞」を通称とします。
家を継ぐということは、名前・立場や財産も継承するということです。宇津木景福は、彦根藩士宇津木六之丞家の当主になると、彦根藩主から家禄(かろく)を拝領してそれにみあう役職に就きます。家禄や役職は家格に応じて藩主から与えられるものであり、勤続年数や能力によって差がつくことはなく、若年の当主に代替わりしても藩主の命によって同じ収入を得ることができたのです。
江戸時代の武士の場合、当主やその跡継ぎは軍役を務める必要から男子しかなれませんでした。そのため、男子が生まれないと他家から養子を迎えて跡継ぎとしました。宇津木景俊には子供がなかったため、病死する寸前に急きょ甥を養子とすることを藩に願い出ました。写真は、藩主が家老に宛てて、宇津木留吉の六之丞家相続を命じた書類の写しで、宇津木家に伝えられたものです。
家を構成する人々の数も家格によって異なります。家の中には、当主の親・妻・子供などの家族のほかに、家格に応じた数の家臣がいました。彦根藩士のうちもっとも家格が高い家老の家には、数100人もの家臣やその家族が含まれています。宇津木家には、当主夫婦やその子供の他に、家政を取り仕切る代々の家臣数名や、近隣の村から雇われた奉公人(ほうこうにん)が男女合わせて10人ちかくいました。奉公人の中には乳母(うば)もいます。現代と異なり、あらゆる仕事を手作業で行わなければならなかった当時、家業や家事をこなすために多くの人手を必要としたのです。
このように、武士の家を職場として働く人々も同居しており、絶やさないことを第一と考えた当時の家は、現代の企業に似ているかも知れません。
(野田 浩子)
「鬼神(きじん)の面−井伊家伝来の能面から−」より
能面「熊坂(くまさか)」
−毛頭(もうとう)相違(そうい)なく出来(しゅったい)のこと−
期間 1998年7月19日(日)〜8月18日(火)
熊坂長範(くまさかちょうはん)は、牛若丸に討ち取られたという伝説的な盗賊。長範が登場する「熊坂」「烏帽子折(えぼしおり)」に専用に用いるのが、この熊坂の面です。
口を強く結んだべし見(べしみ)系の面ですが、この作品は通常の熊坂とは少し表現が変わっています。皺(しわ)が加味されているのです。
面袋の墨書により、制作の事情を知ることができます。
この面は、宝生(ほうしょう)大夫所持の面を借用し、越前出目(でめ)家8代の面打、仲満志(ちゅうまんし)に写しの制作を命じたものです。文化8年(1811)7月6日に本面を渡し、9月24日には模面ができ上がりました。2つを見比べたところ、毛頭相違なく出来したと記されています。
本面と瓜二つの、完璧な写しを作ることを求められていたことがわかります。
ところで、本館蔵の面の中に同種の墨書が記されたものがあります。中べし見(ちゅうべしみ)と一角仙人(いっかくせんにん)がそれで、前者は仲満志に、後者は中村兵蔵に写しを命じたと見えます。
兵蔵は加賀前田家に仕えた中村阜石(ふせき)のことですから、これらの面は、前田家に関係するものと推測されます。これと一連の前田家伝来の作が、石川県立美術館にも所蔵されています。
加賀藩で宝生流が盛んであったことはいうまでもありません。前田家だからこそ、宝生宗家から本面を借り出して写しを作らせることができたのでしょう。
(齋藤 望)
「幕末の政局と情報」より
将軍継嗣決定
(しょうぐんけいしけってい)
期間 1998年9月26日(土)〜10月20日(火)
嘉永(かえい)6年(1853)6月22日、12代将軍家慶(いえよし)が亡くなり、同年10月に家慶の子家祥(いえさち)(家定(いえさだ))が将軍になりました。家定は病弱で子供がなく、将軍としての政治的能力に欠けていたといわれており、早くから家定の継嗣について問題となりました。
翌安政(あんせい)元年5月21日、彦根藩主井伊直弼(いいなおすけ)は、老中松平乗全(のりやす)に今年中に将軍継嗣が決定されることを望むと書状を送っており、直弼もこの問題について気に留めていたことがわかります。
こうした中で将軍継嗣の候補として紀州徳川家の慶福(よしとみ)を推す直弼ら南紀(なんき)派と、一橋家の慶喜(よしのぶ)を推す一橋派の2つの派閥ができ、日米修好通商条約調印などの問題もからんで政治的対立が深まりました。
写真は、安政5年(1858)5月3日に状況途中の長野主膳(ながのしゅぜん)に宛てた書状で、5月1日に将軍継嗣が紀伊殿(慶福)に決定したことを伝えています。さらに、老中たちが直弼に一橋慶喜を推していた越前方(福井藩主松平慶永(よしなが))らへ将軍継嗣決定を説得するよう頼んだため、越前と遠江守(宇和島藩主伊達宗城(だてむねなり))と話し合ったところ、もう少し説得すれば不可能なことではないと記しています。
幕府内部では、なおも派閥抗争が展開され、将軍継嗣決定の公表は1ヶ月以上先の6月25日でした。直弼は、長野主膳らにさまざまな情報を収集させ、その情報を吟味しながら、幕末の政局を動かしていったのです。
(齊藤 祐司)