彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 43

1998.11.1


button 能装束 摺箔(すりはく)
button 殿中席(でんちゅうせき)の大名仲間
button テーマ展趣向を凝らす
button テーマ展茶壺の将来

秋草の美学
能装束 摺箔(すりはく)

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「秋の七草」。ご存じですか?   萩(はぎ)・尾花(おばな)・葛(くず)・撫子(なでしこ)・女郎花(おみなえし)・藤袴(ふじばかま)・桔梗(ききょう)
尾花は薄(すすき)のこと。桔梗の替わりに朝顔をあげることもあったようです。

これらは、かつて、それもつい数十年前ならば、私たちの身のまわりにふつうに見られた何気ない草花でした。あたりまえだからこそ、秋の代表的な草花として七草に数えられています。

ところが今、「その姿は?」と問われると、萩や薄はわかるとしても、女郎花、藤袴にいたっては、「はて?」ということになります。桔梗も花屋さんで見かけるトルコ桔梗ではありません、私たちの身辺からこうした自然は失われてしまいました。

日本の伝統的な絵画や染織、漆工のなかには、この秋草のモチーフがしばしばもちいられます。日本人が好んだデザインなのです。

秋草には、やがてやってくる冬枯れの予感があり、人間の一生とも重ね合わせて、はかなさをイメージさせます。しかし、厳しい冬を過ごせばやがて春がめぐっている。そして四季は、連綿と循環する円の軌跡のように、永遠に繰り返されるのです。人々は四季折々の移ろいの中に、春夏秋冬それぞれの美を見いだして楽しんだのでした。

さて、ここにとりあげたのは、能装束の摺箔(すりはく)。すがすがしい白地に、秋草が銀であらわされています。藤袴、萩、桔梗、尾花。この文様や色使いは、かつての日本人の美学の表百(ひょうびゃく)にほかなりません。

(齋藤 望)

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常設展示 「古文書が語る世界」から
殿中席(でんちゅうせき)の大名仲間

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 江戸時代の大名は二百数十もの家があり、将軍家との関係や領地の規模などさまざまです。そのため、幕府の行事の際には家格(かかく)の類似した大名ごとに行動しました。大名が江戸城に登城した際に詰める部屋を「殿中席」といい、譜代(ふだい)・外様(とざま)の別、石高、官位などを基準として、大廊下(おおろうか)・溜間(たまりのま)・大広間(おおひろま)・帝鑑間(ていかんのま)・柳間(やなぎのま)・雁間(がんのま)・菊間(きくのま)の七部屋に分けられていました。殿中席は、儀式の際のまとまりとしてだけでなく、幕府が大名をグループに分けて把握したり、特定の家格の大名に役割を与える単位としても使われました。

 彦根藩井伊家の殿中席は、高松藩松平家・会津藩松平家と共に常に「溜間」にありました。幕府から特に認められた場合のみこの席に入る大名と区別して、この三家は「常溜(じょうだまり)」とも呼ばれ、溜間詰の中でも格の高い家でした。

溜間詰大名には、老中へその政務について意見を述べる幕府の政治顧問ともいうべき役割があり、すべての大名が登城する日以外に月に二回、将軍の御機嫌伺(ごきげんうかが)いをするために揃って登城しています。溜間詰大名は、登城すると「黒書院溜之間(くろしょいんたまりのま)」という部屋に入ります。この部屋は、将軍が日常的な行事で大名らと応接する「黒書院」の一角にありました。七つの殿中席のうち将軍の生活空間から最も近くに位置しており、将軍からの信頼の厚さがうかがえます。

また、将軍の名代として朝廷への使者を務めたり、将軍の寺社参詣の際に先立をすることも溜間詰の役割でした。江戸城内の紅葉山(もみじやま)と呼ばれる一角には歴代将軍の廟所(びょうしょ)があり、徳川家康の命日をはじめ、歴代将軍の忌日に将軍の参詣がおこなわれました。文化六年(1809)一月十七日の将軍家斉(いえなり)の紅葉山参詣の際には、彦根藩は同席大名の助けを借りています。すなわち、初めて将軍参詣の先立を命じられた彦根藩世子の井伊直亮(なおあき)は、この大役を務めるにあたり、同じ常溜の先輩にあたる高松藩主松平頼儀(よりのり)に「習礼(しゅうれい)」をおこなうための幕府への届出の書式を保管していなかったため、その先例書も高松藩から借用しています。

このように、同じ殿中席の大名は、幕府の意図した大名の分類区分を超えて、先例の紹介などには不可欠の間柄となり、頻繁に対面する中で親密な関係を築いていきました。松平頼儀の娘が直亮の正室となったのをはじめ、同席の家で頻繁に婚姻を結んでいるのも、このような関係から生まれたのでしょう。

(野田 浩子)

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テーマ展
「弓と矢−井伊家伝来の武具より−」より
趣向を凝らす
−武具とデザイン−

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まずは、図@をとくとご覧ください。弓術の道具の一つなのですが、これはいったい何に使うものなのでしょうか。

本体は絹織物で裾開きの筒状になっています。裾には二本の燻革(ふすべかわ)の緒(ひも)、他方には小さな輪になった細緒がつけられています。

これは、射籠手(いごて)、または弓籠手(ゆごて)と称するものです。

馬に乗って矢を射る騎射(うまゆみ)の装束の一つです。騎乗の際に馬の手綱を取る右手を馬手(めて)、弓を持つ左手を弓手(ゆんで)と言いますが、射籠手は弓手に着装しました。

織物の部分に、家紋を金で箔置(はくお)きするのが例になっています。

ところが、ここではたわわな実を付けた枝橘(えだたちばな)。でもよく見ると何か変です。枝についている実は、何と橘の紋所をアレンジしたものなのです。

井伊家伝来の射籠手には、橘紋や井桁(いげた)紋があらわされたものもありますが、その場合でも単純に家紋を置くのではなく、デザインが工夫されています(図A)。家紋をあらわすという故実を踏まえた上での遊び心。しかし、この段階ではまだ配置の妙、という範囲を出るものではありません。

ところが図@では、射籠手をいわば一枚のキャンパスに見立て、大きくうねる一枝を枠をはみ出して配します。幹は単純化されてはいますが、木肌の感じを出そうとしています。そしてここに、橘紋を「接(つ)ぎ木」するのです。

シンプルな家紋を、再び具象の世界へ投げ返したところにおもしろさがあると言えましょう。

(齋藤 望)

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テーマ展
「茶入(ちゃいれ)と茶壺(ちゃつぼ)−シリーズ・井伊家伝来の茶道具−」より
茶壺の将来

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茶壺は茶葉を入れる容器です。昨今では茶壺を愛(め)でる人も少なくなりましたが、信長や秀吉の頃には大書院の床に飾る筆頭道具として高い位置を占めていました。江戸時代に入っても、大名の格式を示す道具として尊ばれ、贈答のためしばしば大名間を渡り歩きました。また、幕府の定めた「御茶壺道中」では、駕籠(かご)に乗せられ、あたかも大名行列なみの仰々しい出で立ちで江戸と宇治を往復しました。諸大名もその制度に習い、それぞれ格に応じた行列を仕立てました。

このような茶壺に対する高い評価は、いきおいその需要を高めることになります。わが国で用いられはじめた茶壺は、初めは海外より渡来の壺でした。その将来は、古くは十二世紀までさかのぼり、十四世紀には茶壺として珍重されたようですが、やがて、いわゆる「呂宋壺(るそんつぼ)」の輸入が始まります。

呂宋壺の名で総称される壺は、中国南部で雑器として大量に焼かれたもので、当初は中に商品を入れて、ルソン島を始めとする東南アジア各地に売られました。中の商品がなくなった後も物の貯蔵に便利なため、彼の地でさまざまに利用されてきたのを、日本の商人などによって再び商品として日本にもたれされるに至ったものです。きわめて特殊な入手経路をもつ壺ということになりますが、それ以上に興味深いのは、本来雑器として生産された壺に、新しく葉茶容器の用途を与え、しかもそれを珍重して愛でた当時の日本人の美意識でしょう。彼の地では容器としての機能以上に顧みられることのなかった壺に、侘(わび)たる美しさを見出だし、高い観賞価値を付加したところに、当時の日本人の美に対する考え方が潜んでいるように思われます。

一方、海外からの輸入のみで、茶壺としての高まる需要を賄うことは到底不可能でした。その供給の不足を補って、国内の窯業地でも茶壺が生産されるようになりました。丹波・備前・信楽そして瀬戸などがそうです。

彦根藩主井伊家には九点の茶壺が伝えられてきました。その内、呂宋壺などの輸入品が五点、残り四点は国内の瀬戸で焼かれたものです。今回のテーマ展では、これらの茶壺のほか、濃茶(こいちゃ)用の抹茶を入れる茶入十九点もまとめて展示します。茶陶の美をご堪能ください。

(谷口 徹)

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