彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 44

1999.2.1


button 鄭培(ていばい)筆「鹿図」
button 彦根藩の能楽
button テーマ展直弼(なおすけ)と側室「静江」(そくしつしずえ)
button テーマ展弥千代(やちよ)の雛道具(ひなどうぐ)

画壇への新風-南蘋(なんぴん)派−
鄭培(ていばい)筆「鹿図」

鹿図

 享保16年(1731)、中国・清の画家沈南蘋(し(ち)んなんぴん)が来日しました。精緻で写実的な表現と華麗な色彩を特色とする画風は、新鮮な驚きをもって迎え入れられました。

 当時、南蘋画風の追従者が多く生まれましたが、その背景のひとつに、狩野派の粉本(ふんぽん)主義に不満を抱いていた画人が少なくなかったことがあげられます。

 これ以降、この南蘋画風は、日本の画壇に長く影響を与え続けたのでした。

 ここに紹介する鄭培は、南蘋に随行して来日した弟子のひとりと伝えられる人物です。最近、20数年後に来日した宋紫岩(そうしがん)に同行した可能性も考えられています。字は山如、号は古亭。名を維培とも。

 鄭培の作風は、沈南蘋、宋紫岩の写実性からは遠いものとされます。しかし、本図を見るとなかなかどうして。華やかな彩色こそないものの、こまかに描かれた鹿の毛並など、対象の形似に迫ろうとする南蘋派の特色をはっきりと見てとることができます。

(高木文恵)

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常設展示 「古文書が語る世界」から
彦根藩の能楽

側役日記

 江戸時代後期、文化9年(1812)12月、表御殿の能舞台で、盛大な能楽が催されました。12代藩主井伊直亮(いいなおあき)が家督相続後初めて国入りした際の祝能でした。この祝能は、藩士全員が3日間に渡って見物する一大盛儀として行われたのです。

 この祝能の役者は、喜多織衛(きたおりえ)を中心とした藩御抱役者(おかかえやくしゃ)のほかに、多くの藩士・陪臣(ばいしん)・扶持人(ふちにん)や町人も動員されています。

 江戸時代の能楽は幕府の式楽(しきがく)として位置づけられ、これを担ったのは、幕府に抱えられた観世(かんぜ)・金春(こんぱる)・宝生(ほうしょう)・金剛(こんごう)・喜多(きた)の五座の大夫(たゆう)を中心とした役者たちです。

 御抱役者などの専業役者が、藩士や町人などの素人役者とともに藩の能楽を担う例は珍しいことではありませんが、彦根藩では能楽が当初から式楽として位置づけられていたわけではありません。

 彦根藩では、4代藩主井伊直興(いいなおおき)の時代に55人もの能役者を抱えた時期がありますが、直興隠居の際にほとんどの能役者が解雇され一時衰退しました。しかし、直興時代にもたらされた能楽は、その後も素謡(すうたい)などにより藩士の間に徐々に広まっていったのです。

 8代藩主井伊直定(いいなおさだ)の頃には、再び能楽への関心が高まり、10代藩主井伊直幸(いいなおひで)は自ら幕府御抱の喜多家に入門しています。藩内でも、筆頭家老木俣(ひっとうかろうきまた)家では家来の中に多くの素人役者を抱え、藩主を招いて能を興行することもしばしば見えます。同時に能楽は城下の町人にも広まり、藩の「御能御用」を勤めるものも現れてきたのです。

 彦根藩の能楽において一大転機となったのは、寛政(かんせい)11年(1799)のことです。11代藩主井伊直中(いいなおなか)が、喜多家の分家である喜多織衛をはじめ6人の役者を召し抱え、定雇いとしたことを契機に、多いときでは21家もの役者を抱えていました。

 能楽が再び活気づく中、文化9年には表御殿に、同11年には槻御殿(けやきごてん)に能舞台が造営されました。井伊直亮初国入りの祝能は、表御殿の能舞台でおこなわれた最初の公式行事としての式楽でした。

 彦根藩の能楽は専業役者と常設の能舞台を得て次第に定例化し、藩の公式行事の式楽として位置づけられていき、江戸時代後期の能楽隆盛の時代をむかえたのです。

 現在、博物館内にある能舞台は移築保存されていた、文化9年の表御殿内のものです。槻御殿の能舞台は現存しませんが、彦根藩の能楽隆盛のシンボルといえるでしょう。

(母利美和)

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テーマ展
「直弼の側室・静江が愛した品々」より
直弼(なおすけ)と側室「静江」(そくしつしずえ)

調度 楓印

 静江は秋山勘七の四女として、文政5年(1822)に生まれました。18歳となった天保10年(1839)、千田又一郎の養女となる手続きを経て、当時、埋木舎(うもれぎのや)に居た直弼のもとへ側女中(そばじょちゅう)として召し出され側室(そくしつ)となります。以後、静江は、埋木舎時代の直弼の良き伴侶として直弼を支えました。

 この間、静江は直弼との問に一男二女をもうけます。天保14年に長女、翌弘化(こうか)元年に長男、そして弘化3年1月には二女が生まれました。長女は死産、長男も即日亡くなりましたが、二女の弥千代(やちよ)は成長して後に高松藩世子(せいし)松平頼聰(よりとし)に嫁ぎます。この頁下のテーマ展で紹介している雛道具の所蔵者がそうです。

 こうして、不遇な部屋住み生活ながらも、直弼の寵愛(ちょうあい)を一身に受けた静江でしたが、二人のこのような関係は、そう長くは続きませんでした。弥千代が生まれて間もない弘化3年2月、直弼の生涯を大きく転換する大事が訪れたのです。世子直元(なおもと)の病死に伴い、至急出府(しゅっぷ)せよとの急飛脚が直弼のもとに到着します。直弼は、静江そしてわずか半月の愛児弥千代に別れを告げ、江戸へ急ぎました。

 江戸に着いた直弼は晴れて世子となり、5年後には先代の死去に伴い13代藩主に襲封(しゅうほう)、そして安政5年(1858)には大老職へと、幕政の中枢を駆け登っていきます。出府した半年後、埋木舎の奥向(おくむき)4人が江戸へ呼び寄せられました。4人の中に静江も加わっていたと思われますが、直弼はこの年10月、丹波亀山藩主松平信篤(のぶあつ)の妹昌子(まさこ)を正室に迎えており、また翌年頃には西村忠次の娘里和(さとわ)を側室としていますので、静江との関係が元に復することはありませんでした。

 時は流れて明治32年、静江は東京の井伊家屋敷で静かに息をひきとりました。亡骸は世田谷の豪徳寺に葬られました。享年78歳、戒名は柳江院。その後、彼女の遺品は生家である秋山家に帰り、同家で散逸(さんいつ)せぬよう大切に保管されてきました。

 そして昨年、それらを一括して当館にご寄贈いただきました。遺品は静江が生前用いた調度を中心に書や画などがあり、中には直弼の自作や所用の品々も含まれるなど、直弼側室の伝来資料として貴重です。今回のテーマ展は、それらを皆さんに初めてご紹介しようとするものです。この機会にぜひご静観ください。

(谷口 徹)

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テーマ展
「雛と雛道具」より
弥千代の雛道具

駕籠

 毎年、この時期になると話題になるものの一つに「弥千代の雛道具」があります。弥千代は彦根藩13代藩主井伊直弼(いいなおすけ)の二女。彼女は安政5年(1858)に高松藩世子(せいし)松平頼聰(よりとし)のもとへ輿入(こしい)れしますが、そのとき持参したのが話題の雛道具です。

 そもそも雛道具は、実際の婚礼調度の雛形つまりミニチュアのこと。したがって婚礼調度と同形式の道具組みを揃(そろ)え、婚礼調度とともに持参するのが習わしでした。弥千代の雛道具は、婚礼調度の筆頭を飾る貝桶(かいおけ)にはじまり、黒棚・厨子(ずし)棚・書棚の三棚(さんたな)、箪笥(たんす)、長持(ながもち)、化粧道具、香道具、膳椀類、楽器、茶道具など、その数が85件と大揃いです。

 ところが実際の婚礼調度の方は、現存するものわずかに4件。駕籠(かご)、茶弁当、挟箱(はさみばこ)そして衣桁(いこう)です。弥千代の婚礼調度に限らず、大名の婚礼調度が当初の揃いのままで伝来する例はほとんどありません。婚礼調度は散逸する運命にありました。夫人が亡くなるや、調度のあるものは彼女の菩提を弔うために遺骸とともに寺へ納められ、またあるものは形見分けや贈答として肉親や大勢の側仕(そばづか)えの人々に与えられたのです。

 そんな中にあって、弥千代の雛道具は、ミニチュアながらも当時の大名婚礼調度の全容が理解できる、数少ない貴重な作品群と言えるでしょう。

(谷口 徹)

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