彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 45

1999.5.1


button 千駄崎(せんだがさき)台場絵図
button ある旗本(はたもと)の書状
button テーマ展一遍(いっぺん)の高弟・他阿真教(たあしんきょう)
button テーマ展彦根三湊(ひこねさんみなと)と大津百艘(おおつひゃくそう)

幕末彦根藩の異国船警備
千駄崎(せんだがさき)台場絵図

千駄崎台場絵図

 弘化4年(1847)2月、幕府は、江戸湾への異国船の侵入を防ぐため、川越・忍(おし)の二藩に加えて、譜代の雄藩である彦根藩と会津藩にも江戸湾周辺の海岸警備を命じました。彦根藩は、嘉永6年(1853)11月に江戸湾の羽田・大森に警備替えとなるまでの間、江戸湾の入口にあたる三浦半島の警備を担当しました。三崎(みさき)・上宮田(かみみやだ)・原(三浦市)の3ヶ所の陣屋と9ヶ所あまりの台場に藩士や現地で雇用した船頭・水主(かこ)など3千人におよぶ人々が動員されました。

 写真の千駄崎(せんだがさき)台場は、弘化4年に浦賀にほど近い野比(のび)(横須賀市)に新たに建設された彦根藩の台場です。岬の東岸から南岸にかけて大砲10挺が配備され、藩士らが詰める番所(ばんしょ)、土蔵、情報伝達に使用する狼煙筒(ろうえんづつ)、遠見(とおみ)番所、藩士が居住する長屋などが整えられていました。

 嘉永4年3月には藩主井伊直弼(いいなおすけ)が同地を訪れ、千駄崎台場の大砲の発砲を実見しています。同6年6月にアメリカ艦隊のペリーが浦賀沖に来航した際には、千駄崎台場に彦根藩の家老らも駆けつけ、警備にあたっていた他藩に先駆けて浦賀奉行へその第一報を伝え、江戸へ伝達されました。三浦半島の台場は異国船警備の最前線であり、彦根藩士は異国船の脅威に対して直接身を挺して任務遂行に努めながら、直弼と共に開国への予兆を感じていたものと思われます。

(齊藤祐司)

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館蔵史料から
ある旗本(はたもと)の書状

旗本の書状

 幕末期のある年の春、江戸からの一通の書状が、近江国愛知(えち)郡目賀田(めかた)村(現秦荘町目加田)の農民甚四郎(じんしろう)と長太夫(ちょうだゆう)のもとへ届けられました(写真。当館蔵『四十九町代官家文書(しじゅうくまちだいかんけもんじょ)』)。

 書状の主は、江戸下谷(したや)の目賀田帯刀(めかたたてわき)。幕府旗本の出身で当時は紀伊殿(きいどの)(和歌山藩主)付となってい た人物です。

 帯刀がこの書状を認(したた)めたのは、自らの家の先祖の歴史を知るためでした。目賀田村は中世の有力国人領主の目賀田氏の本拠地であり、帯刀はその後裔(こうえい)の一人です。一方、甚四郎・長太夫は西沢姓を名乗っていましたが、目賀田一族の旧家の人であったと思われます。書状には、江戸に目賀田姓を名乗る武家が5軒あること、また応永(おうえい)2年(1395)の銘をもつ目賀田村十禅師社(じゅうぜんじしゃ)(現春日神社)の古い鰐口(わにぐち)が江戸にあること、などを知らせ、次のような願いを述べています。

 「先祖は目賀田の領地を没収された後、水野家家臣となり備後(びんご)福山(現広島県福山市)に住んでいたが、火事により屋敷が焼失したため、現在、系図などが残っていない。系図・旧書(きゅうしょ)があるならば、写しを拝見したい。」

 このほか目賀田氏の古い墓がどこにあるのか、菩提寺(ぼだいじ)はどこなのか、といったことをあわせて尋ねています。その文面は大変丁重(ていちょう)なもので、武士と農民の身分を越えた関係として興味深いものです。

 当時の社会、特に武家社会では、先祖より継承してきた家が重要なものとされ、家あっての個人でした。したがって、家の歴史をしめ す系図・旧書が大変重要な意味を持ちました。特に幕末期は系図編纂(へんさん)や、旧跡(きゅうせき)の顕彰(けんしょう)などが盛んに行われた時期でした。目賀田帯刀にとっては、目賀田村の一族との交流は、一度は失った家の系図・旧書、つまり家の歴史を取り戻す機会だったのです。

 また、目賀田帯刀は、画人谷文晁(たにぶんちょう)の門弟であり、のちに蝦夷地図取調御用役(えぞちずとりしらべごようやく)となり、沿岸の写生図を数多く残している画人でもありました。彼は書状の中で、紀州殿が帰国の際にお供となり、目賀田村を尋ねようと思っている、と希望を述べています。先祖が生きた目賀田の地を一目見ておきたいという気持ちも、この書状を認めさせた動機の一つだったのでしょう。

※目賀田氏の歴史については全国目加田会が精力的に研究を進められており、目賀田帯刀の経歴・事績については、同会会報『光明寺野』の成果を使用させていただきました。

(渡辺恒一)

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テーマ展
「高宮寺と時宗の美術」より
一遍(いっぺん)の高弟・他阿真教(たあしんきょう)

 時宗(じしゅう)というと、すぐに一遍智真(いっぺんちしん)(1239〜89)を思い浮かべる方が多いことでしょう。

 時宗の祖である一遍にはしかし、教団を作ってそれを永続させるという意志はまったくありませんでした。有名な『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』にも、「つねに我化導は一期ばかりぞとのたまひし」とあります。

 一遍の没後は、彼の有力な弟子で調声(ちょうしょう)(法要のリード役)もつとていた他阿真教(たあしんきょう)(1237〜1319)が遺された時衆(じしゅう)をまとめてゆきます。真教は、実質的な教団組織者であったため、祖師の一遍同様、肖像や絵巻などが多く制作されました。

 一遍の像を見ると、背が高く、眼光鋭く頬がこけ、いかつい体つきで表されています。強烈な個性を持つ、カリスマ的なイメージです。それにくらべて真教は、柔和な表情で、静的なイメージとして描かれていることが多いようです。宗祖と二祖の個性の違いが感じとれるようで、興味深いものです。

 さて、彦根市高宮(たかみや)町の時宗の古刹・高宮寺(こうぐうじ)には、極めて珍しい図様の真教像が伝えられています。

 ここでの真教は、黄金の宝池に咲く蓮華(れんげ)の上で合掌する姿であらわされています。あたかも阿弥陀来迎図(あみだらいごうず)の阿弥陀を見るかのようです。これは、遊行上人(知識)を絶対とする「知識帰命(きみょう)」という思想が背景にあるためだと考えられています。

 また、真教と同じ蓮から分かれ出た蓮華を持って拝する僧形と俗形の人物も描かれています。僧形は高宮寺初代の切阿(せつあ)( 〜1330)、俗形は檀越(だんおつ)の高宮宗忠(たかみやむねただ)( 〜1319)だと伝えられています。よく見ると、前者の蓮華は開き、後者は未だ莟(つぼみ)のままです。真教から二人に放たれた光明も、僧形へは二筋、俗形へは一筋と、真教との関係において両者は明らかな区別がなされています。

 この真教画像は、知識を中心とする時宗の教えを知る上で、極めて貴重な作品だといえるでしょう。

(高木文恵)

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テーマ展
「湖上水運の盛衰と彦根三湊」より
彦根三湊(ひこねさんみなと)と大津百艘(おおつひゃくそう)

裁許書

 湖上水運をめぐる彦根三湊(ひこねさんみなと)(松原・米原・長浜)と大津百艘(おおつひゃくそう)との争論は、日本海側の物資を大坂へ直送する西廻り航路の開拓により湖上水運が衰退したため、享保2年(1717)頃から激化してきます。

 従来は、大津での船積みを占有する豊臣秀吉以来の大津百艘の特権が認められており、享保3年12月の判決でも、いったんは大津側の特権が確認されました。

 しかし、この判決を不服とした彦根藩は再審を画策し、享保5年3月には逆転勝訴しました。図は、3年間にわたる訴訟の結果、京都町奉行所から出された裁許書(さいきょしょ)(判決文)。彦根藩の大津屋敷から彦根の三湊へ輸送する荷物は、今後すべて三湊の船に積み込み、一切大津の船に積んではならないことなど、4ヶ条が記されています。

 彦根藩は、この時期までは大津百艘の特権を認め、両者の争いを避けてきましたが、この争論では積極的に京都所司代(きょうとしょしだい)や幕府老中(ろうじゅう)へ働きかけ勝訴へ導きました。表向きは彦根三湊の保護にありますが、当時急速に進んだ藩の自立、つまり幕府弱体化にともなう藩の領有権の主張ともいえるでしょう。

(母利美和)

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