1999.8.1
|
|
堆朱楼閣山水人物図輪花盆 |
|
|
町人文化と蹴鞠の普及 |
|
|
|
|
|
|
|
|
愛してやまぬ唐物(からもの)趣味
堆朱楼閣山水人物図輪花盆
(ついしゅろうかくさんすいじんぶつずりんかぼん)
八弁の輪花形に口縁を作り、見込(みこみ)に楼閣山水と人物を、周辺には牡丹・桃・芍薬(しゃくやく)・梔子(くちなし)をそれぞれ彫り出した堆朱(ついしゅ)の盆。彫りが深く精緻で、刀技の優れた中国明代前期の優品です。
堆朱は木などの素地の上に朱漆を塗り重ね、その漆の層に彫刻を施す漆芸技法。中国唐代に生まれたと伝え、宋代以降に盛んとなります。わが国には唐物(からもの)の一つとして鎌倉時代から輸入が始まりました。
中国明代前期に相当する室町時代になると、唐物趣味も最高潮に達し、禅寺や公家・武家の社会で、たくさんの堆朱の製品がその他の唐物とともに、座敷飾りの道具として、あるいは茶道具や贈答品として珍重されました。それは愛してやまぬ中国文化へのあこがれでもありました。
(谷口 徹)
調査報告書から
町人文化と蹴鞠(けまり)の普及町人と蹴鞠(けまり)と聞くと別世界のもののように思われ、ちょっと違和感を感じる方もおられるでしょう。烏帽子(えぼし)や装束(しょうぞく)をつけた「お公家(くげ)さんがする遊び」というイメージがあるからでしょうか。
たしかにもとは中国から伝わり、日本では古くは公家がおこなった遊技です。『日本書紀(にほんしょき)』に、天智天皇(てんじてんのう)や藤原鎌足(ふじわらのかまたり)らがおこなったことが書かれており、最も古い例のようです。その後、平安時代終わり頃から鎌倉時代初めにかけては公家や武家たちによって盛んにおこなわれました。江戸時代になると、公家や諸大名はもちろん、富裕な町人や商人たちの間にも広まり、詩歌(しいか)や茶の湯、香道などの文芸とともにおこなわれるようになりました。
町人と蹴鞠のかかわりを見る例をひとつ紹介しましょう。写真は、江戸時代、彦根城下の町人であった中村家に伝来したもので、蹴鞠の宗家である京都飛鳥井(あすかい)家の家司(けいし)川口数馬(かわぐちかずま)と本多豊前(ほんだぶぜん)から、八代目中村善兵衛全延にあてた書状です。
これには、全延が願い出ていた鞠装束(まりしょうぞく)の色替が許可されたので免状を十通下げ渡すことが書かれています。色替とは上達にしたがって、位を示す装束の色の許可を順に願うことです。さらにここでは、全延がこの色替や入門する人の免状を取り次ぐ役を命じられているので、より一層出精に務めること、また新しい稽古衆の取立もしたいと書かれています。
中村家は、彦根城下の平田町の町年寄(ちょうとしより)や町代(ちょうだい)を務め、町の人などにお金を貸したり、酒やしょうゆの醸造業を営みました。その一方で、多賀社の祭礼の馬頭人(ばとうにん)を務めたり、文化的な活動も盛んにおこなった比較的裕福で有力な町人だったようです。
一連の蹴鞠の史料から、寛政年間(一七八九〜一八〇一)に中村全延が湖東地域の門弟の取りまとめ役を担っていたことがわかります。具体的には免状の取次のほか、飛鳥井宗家へ献上する免状の礼金の取りまとめなど、町人だけでなく武士である彦根藩士の取次もおこなっていました。
中村家文書の蹴鞠関係の史料は、わずか十七点ですが、あまり知られていない江戸時代の町人文化にとけ込んでいる蹴鞠の実態を知ることができるものです。公家の文化であった蹴鞠が公家、武家、町人の枠を超えて普及したようすは、江戸時代の文化の広がりかたを示す象徴的な例で、とても興味深いものといえましよう。
*写真の書状は、市指定文化財 中村家文書の内。平成十年度刊行の「平田町町代中村家文書調査報告書(ひらたちょうちょうだいなかむらけもんじょちょうさほうこくしょ)に収載しています。
(ョ あき)
日本の藩窯(はんよう)−東日本編−
期間 1999年10月23日(土)〜11月23日(火・祝)(期間中無休)
江戸時代は「やきもの」が人々の生活の中に広く深く浸透した時代です。各種の日用品から茶華道用品にいたるまで、多様な「やきもの」が大量に消費されました。
こうした大量消費を支えたのが窯業地です。江戸時代には、大小の窯業地が全国各地に生まれ、さまざまな「やきもの」を世に送り出しました。これらの窯業地は、それを領有する藩の指導や援助を受けたものが数多く見られました。中には藩が直接経営に乗り出したものもありました。これを藩窯と称します。彦根藩の湖東焼もその一例ですが、この企画展はそうした藩窯を全国に求め、藩窯の姿を明らかにしようとするものです。今回はその前編−東日本編。紹介するのは次の十四の藩窯です。
- 山陰(やまかげ)焼、花古(はなこ)焼−南部藩(岩手県)
- 切込(きりごめ)焼−仙台藩(宮城県)
- 上の畑(かみのはた)焼−長瀞(ながとろ)藩(山形県)
- 成島(なるしま)焼−米沢藩(山形県)
- 会津本郷(あいづほんごう)焼、蚕養(こがい)焼−会津藩(福島県)
- 相馬駒(そうまこま)焼−相馬藩(福島県)
- 村松(むらまつ)焼−村松藩(新潟県)
- 皆沢(みなざわ)焼、高浜(たかはま)焼−前橋藩(群馬県)
- 松代(まつしろ)焼−松代藩(長野県)
- 春日山(かすがやま)窯(再興九谷焼)−加賀藩(石川県)
- 若杉(わかすぎ)窯(再興九谷焼)−加賀藩(石川県)
- 松山(まつやま)窯(再興九谷焼)−大聖寺(だいしょうじ)藩(石川県)
- 九谷(くたに)本窯(再興九谷焼)−大聖寺(だいしょうじ)藩(石川県)
- 湖東(ことう)焼−彦根藩(滋賀県)
以上、十四の藩窯はそれぞれの藩の経営方針により、生まれた「やきもの」もさまざまですが、その背景には共通する時代の潮流がありました。それは藩が推進する殖産興業(しょくさんこうぎよう)策の一翼を担うというものでした。江戸時代の中ごろともなると、各藩とも米価の低落と諸物価の高騰(こうとう)によって藩の財政が窮乏(きゅうぼう)し、財政の建直しが緊急の課題となっていました。各藩ともさまざまな改革を行なって財政の再建を計りますが、その際に大きな柱となったのが殖産興業策、つまり領内の諸産物を領内で整え、藩が自立することによって領外に貨幣が流出するのを防ごうというものでした。
「やきもの」の場合、とくに東北地方など大窯業地から遠く離れた藩にとっては、共通する重要な課題となりました。九州の肥前地方と瀬戸・美濃地方は、江戸時代を通じて大窯業地として栄え、その製品は全国を席巻(せっけん)していました。ところが重く壊れやすい「やきもの」は、遠隔地になればなるほど輸送コストがかさんで値段を釣り上げ、結果として藩の財政を圧迫しました。日常生活に欠かせない「やきもの」を領内で自給しようとする政策は、財政難にあえぐ東北地方の各藩にとって急務の共通課題であったのです。
藩では先進の窯業地から職人を招いたり、領内から人を派遣して技術を習得させ、藩窯を興すことになります。製品はおのずと日用品が主体となりました。米沢藩主上杉鷹山(うえすぎようざん)らの藩政改革によって開窯した成島焼などは「美をいやしミ丈夫を貴」ぶ方針により、生活必需品以外の生産を許可しない徹底ぶりでした。
一方、大窯業地にそれほど遠くない藩窯の場合は、殖産興業策を背景としながらも、様相はやや異なるようです。大窯業地に対抗して日用品が焼かれるとともに、優品の制作が志向され一定の成果を収めているのです。再興九谷焼の各窯や湖東焼などがその例です。優品の制作は、財政再建とは異なる藩や藩主の好みが反映したと見るべきでしょう。これらの藩窯では、優品の制作に必要な材料の入手や技術者の招聘(しょうへい)も比較的容易でした。そして何よりも、しばしば冷害に見舞われた東北地方などと比べると、藩財政の窮乏とは言いながらも少なからず「ゆとり」があったものと思われます。
(谷口 徹)
「翁と尉の面」より
洞水(どうすい)作の笑尉(わらいじょう)
−銘記からわかること−
期間 1999年9月23日(木)〜10月19日(火)
尉(じょう)は、老翁のこと。笑尉は文字どおりその表情からきた名称で、尉面のなかでは笑みの状態が際だちます。
さて、図版の笑尉は、面当(めんあて)に、「宝永(ほうえい)五子年出来(ねのとししゅったい)、出目杢之助(でめもくのすけ)」の墨書があります。出目杢之助とは、世襲面打ち家のひとつ越前出目家の五代目、洞水満昆(どうすいみつのり)(?〜一七二九)のこと。その作風はなかなか手堅く、この時期を代表する面打ちの一人です。
この銘から、この面が江戸時代中期の宝永五年(一七〇八)、洞水により制作されたことがわかります。
また、面裏には朱漆で、享保(きょうほう)十八癸丑(みずのとうし)五月調(ととの)う、福来作写(ふくらいさくうつ)し、笑尉、出目洞水、見合(みあわ)せ之(これ)を写(うつ)す(読み下し)」と記しています。
桃山から江戸時代になると、本面(オリジナル)の写し(模作、コピー)の制作が盛んに行われるようになりました。
この面の場合は、越前住の面打ち、福来(ふくらい)石王兵衛作の面の写しであると言うのですが、洞水が「見合せこれを写す」…もとになった本面と見比べながら、写しを作ったというのがおもしろいところです。
面裏にはこの他に、「旧因州侯(いんしゅうこう)蔵、ハシヲカ(橋岡)久太郎所持、七十五」の金泥(きんでい)銘があることから、因州侯、すなわち鳥取の池田家に伝来したことがわかります。
朱漆銘からみると、享保十八年(一七三三)五月に池田家に入ったものでしょう。時の藩主は、三代吉泰(よしやす)(一六八七〜一七三九)。
ところで池田家には大量の能面が収蔵されていたことが知られています。大正八年(一九一九)には七百八十三面もの能面が売り立てられているのです。
当館には十九面の池田家伝来の能面があり、いずれもこの笑尉のような興味ぶかい銘記が記されています。
(齋藤 望)
「菊を愛でる」より
菊は若き未亡人
期間 1999年8月20日(金)〜9月20日(月)
彦根藩士森川許六(もりかわきょりく)(一六五六〜一七一五)は、俳人松尾芭蕉(まつおばしょう)の晩年の有力な弟子として知られています。俳句・俳文だけでなく画にも秀で、師の芭蕉に画を教えていたといいます。
その許六の代表作の一に、『百花賦(ひゃっかふ)』(当館所蔵)があります。梅・桜にはじまる三十種の花々を取り上げ、女性に例えた戯文に花の画を添える、という洒落(しゃれ)た構成となっています。
いかにも風流な作品のように見えますが、許六の機知のなせるわざでしょうか、紫陽花(あじさい)は白あばたの痕がたくさんある太った女性のようだとか、辛口の表現がわりあい多く見受けられます。
その一方で、秋の花を代表する菊の記述を見ると、雅やかで数寄(すき)を好み、目立ったことを嫌うその姿は、身分ある若き女性が夫に先立たれ、幼子とともにひっそりと暮す風に似ている、とのこと。
菊は、中国では梅・竹・蘭とともに四君子(しくんし)のひとつに数えられ、菊を愛でることは君子の素養とも考えられていました。また、不老長生の花とされ、九月九日の重陽(ちょうよう)の節句では菊酒を飲むしきたりもありました。これらの考えは、日本にも早くから移入されています。
辛口の許六にとっても、菊はあくまでも伝統どおり高貴なイメージであった、ということでしょうか。
(高木文恵)