彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 47

1999.11.1


button 朱塗仏二枚胴具足
button 藩主の弓術稽古御覧
button テーマ展 垂れる美
button テーマ展 龍と橘

直政の具足
朱塗仏二枚胴具足
(しゅぬりほとけにまいどうぐそく)

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 初代井伊直政(いいなおまさ)が関ヶ原の合戦の際、使用したと伝えられる具足。

 桃山時代、戦場に新たに登場した鉄砲に対応するため、この具足のように丈夫な鉄板を張り合わせた、当世(とうせい)(「今風の」という意味)具足(ぐそく)が流行していました。

 当時の武将達はこの当世具足に新奇なファッションを取り入れ、一つの文化といってよいものを作り上げていました。それは、海外よりもたらされた羅紗(らしゃ)、天鵞絨(びろうど)、孔雀(くじゃく)の羽などを用いた華やかな陣羽織(じんばおり)や、様々な形の変わり兜(かぶと)に代表される、派手で自己主張の強いものでした。

 しかし、この具足、全体を朱塗(しゅぬり)としている他、これといって装飾らしい装飾は施されていません。むしろ極限にまで無駄を省き、実用に徹することによって生まれた機能美が感じられます。

(丹羽貴之)

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寄贈史料から
藩主の弓術稽古御覧

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 日本に伝わる弓術の流派の中に、日置(へき)流という流派があります。室町時代の日置弾正正次を流祖とするもので、吉田流などの諸流派に分派し、古来からの弓術の流派である逸見・武田・小笠原流などと共に、江戸時代以降も武家社会において広く伝承されました。

 彦根藩の場合、天明元年(1781)に弓術を伝える家として、日置・吉田・武田・片岡の四流派九家があり、その中で日置流の増島百介(ますじまももすけ)家が最多の52人の門弟を有していました。

 今年、当館にこの増島家のご子孫が古文書(302件)と、掛幅二幅を寄贈されました。古文書はそのほとんどが江戸時代の弓術関係史料です。

 増島百介家は、初代から彦根藩に仕え、二代目高雄がこの日置流弓術を習得、以後代々家芸として継承していました。彦根藩士の人事録ともいえる「侍中由緒帳(さむらいじゅうゆいしょちょう)」によれば、六代目高義が、寛政11年(1799)の彦根藩の藩校稽古館(けいこかん)設立時に弓術教授を勤めていたこともわかっています。

 写真の資料は、増島百介家文書の「御覧御代見名前中附(ごらんごだいけんなまえあたりづけ)」です。これには、天和3年(1683)から安政5年(1858)までの間、彦根城内の御用米蔵前、表御殿松之間前、槻(けやき)御殿、藩校稽古館・弘道館などの各矢場で、増島家の若い門弟たちが、藩主や世子(若殿様)の面前で弓術の稽古を行う「御覧」と、藩主に代わって門弟たちの師匠が代わりに見る「御代見」とよばれる二種類の特別な稽古の成績が記されています。

 特に天明元年以降、井伊直幸(いいなおひで)が四回、直富(なおとみ)一回、直中(なおなか)十四回、直亮(なおあき)六回、直弼(なおすけ)五回といった回数で「御覧」「御代見」が行われています。

 稽古の内容は、一人が四回矢を射て、的の中央に的中した場合には「●」、的の枠内に当たった場合には「○」、的から外れた場合には「−」の三種の成績をつけ、個々の成績と共に全員の実射総数と、約40パーセント程度の的中率を記しました。

 彦根藩主が井伊直幸・直中の時から幕末にかけて、藩主の意向によって、積極的に武芸の稽古が行われたことがわかります。また、寛政期は全国的に藩校設立の気運が高まった時期であり、彦根藩でも稽古館が設立され、幕末の激動期を目前にして、藩士たちに武芸の鍛錬によって精神を修養し、学問の研鑚に励ませ、人材の育成に努めたのでした。

 今後も寄贈史料の検討を進めつつ、新たな史料の発見も期待したいものです。

(齊藤祐司)

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テーマ展
「長絹(ちょうけん)と舞衣(まいぎぬ)−井伊家伝来能装束から−」より
垂(しだ)れる美
 期間 1999年11月27日(土)〜12月22日(水)

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 垂桜(しだれざくら)、垂柳(しだれやなぎ)、垂梅(しだれうめ)……。枝が垂れ下がった垂木(しだれぎ)は、なぜか私たちの心を惹きつけます。

 能の『西行桜(さいぎょうざくら)』では、

  しかるに花の名高きは、まづ初花(はつはな)を急ぐなる、近衛殿(このえどの)の糸桜(いとざくら)……

と、都の桜の名所尽くしをするその真っ先に、近衛家の邸宅にある糸桜、すなわち垂桜があげられました。

 そして、西行桜のシテが桜の古木の精であるように、垂木は、かつては、神霊の依代(よりしろ)とも考えられていました。垂れることに意味があったのです。

 さて、能装束の長絹(ちょうけん)の文様にも、上から下へ垂れる美が意識して用いられます。

 長絹は主に、舞をまう女役に用いる能に特有の装束です。広袖で脇縫いがありません。

 この一領は、深い紫色の地に、絽金(ろきん)で文様を織りあらわしています。江戸時代後期の制作とみられます。

 背と両袖の上部に配された重点文様は、花籠(はなかご)に活けた垂桜。

 これに対して裾には、生命力を感じさせる槍梅(やりうめ)。枝の背丈や花の位置、小枝のあんばいなどにきめ細かな工夫があります。

 優艶に垂れる桜と、天を目指して伸びる梅。曲線の優しさと、直線の強さという対比のおもしろさが見どころです。

 また、文様の大きさに注目してみると、花籠に活けた桜は、槍梅に較べて小ぶりです。

 もちろん、桜と梅の花の大きさには、そんなに違いはありませんから、西欧の近代的な感覚からいったら奇異な感じがするかも知れません。

 しかし、日本人の伝統的な美意識では、実際のモノの大きさを作品に反映する必要はさらさらないのでした。むしろ構成のおもしろさに重点があります。

 ここでは、槍梅の逞しさがアクセントになっています。

(齋藤 望)

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テーマ展
「吉祥(きっしょう)のデザイン−龍の姿−」より
龍と橘
 期間 2000年1月1日(土)〜2月1日(火)

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 来年の干支(えと)である龍は、十二支の中でも唯一、想像上の動物です。

 中国明代の百科全書ともいうべき『本草綱目(ほんぞうこうもく)』によれば、龍の姿は、「頭がラクダ、角が鹿、目が 兎、耳が牛、頭が蛇、腹が蜃(しん)、鱗(うろこ)が鯉、爪が鷹、掌(てのひら)が虎に似ている」としています。

 日本では、中世以来、龍の勇猛な姿が武士に好まれ、甲冑や刀剣の拵(こしらえ)などに龍の文様を用いることが流行しました。

 特に、刀の拵に付属する目貫(めぬき)・小柄(こづか)・笄(こうがい)等の刀装具には、数々の名品が残されています。

 写真の目貫は本館蔵「蝶鮫黒研出鞘大小拵(ちょうざめくろとぎだしさやだいしょうこしらえ)」の柄(つか)に取り付けられています。現在、目貫裏の銘(めい)を読みとることは出来ませんが、十二代藩主井伊直亮(いいなおあき)が家蔵の刀剣類を記録した『腰物鑓長刀拵書帳(こしのものやりなぎなたこしらえがきちょう』では、江戸で活躍した刀装金工師、津尋甫(つじんぽ)(1721〜1762)の作としています。

 写真をじっくりとご覧下さい。この龍が握っているのは橘(たちばな)です。本来龍が持っているのは宝珠ですから、これは非常に珍しい取り合わせです。橘は古くから吉祥の果実とされており、その意味では、大変めでたい組み合わせともいえますが、いささか奇異の感は否めません。

 やはり、井伊家の家紋である橘紋を意識してのデザインと見るべきでしょう。とすれば、彦根藩主が尋甫に特別こ指図して作らせたのかも知れません。

(丹羽貴之)

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