彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 48

2000.2.1


button 雅楽器・狛笛
button テーマ展 家光政権と井伊直孝
button テーマ展 御用絵師・佐竹永海
button テーマ展 井伊直孝と茶湯

夕顔
雅楽器・狛笛
(ががっき・こまぶえ)

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 雅楽で使う横笛のひとつに狛笛(こまぶえ)(高麗(こま)笛)があります。右方(うほう)の高麗楽専用に使います。

 この作品は、江戸時代の製作。笛を納める筒は、縦に割れる割筒(わりづつ)で、黒漆地に金銀の蒔絵と色漆で夕顔と御所車(ごしょぐるま)、そして桧扇(ひおうぎ)が描かれています。中央の金具も夕顔の葉。

 何か意味ありげな取り合わせです。

 実は、この文様は、『源氏物語』の夕顔の巻に取材しているとみられます。

 源氏十七歳の夏の忍びの恋。

 病に伏す乳母(めのと)の家を見舞ったとき、源氏は隣家の垣根に咲く夕顔に目をとめます。

 随身(ずいじん)に一房を取らせようとすると、家から女童(めのわらわ)が出てきて、花を源氏に参らせるために、香を焚きしめた扇を随身にとらせるのです。

 扇には、

  心あてにそれかとぞ見る白露のひかりそえたる夕顔の花

 「もしかしたら、あなたは源氏の君では?」と和歌が書き付けてありました。もの柔らかなこの女性に、源氏は、すっかり魅せられてしまいます。

 源氏の乗ってきた御所車、あでやかに花開く夕顔、そしてこの場の重要な道具立てである扇。物語の世界を抽象的にあらわしています。

 このような手法を留守(るす)模様と称します。主題を直接にはあらわさないけれども、それと知らしめるのです。日本美術の常套手段のひとつです。

(齋藤 望)

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テーマ展
「徳川三代と井伊直孝」より
家光(いえみつ)政権と井伊直孝(いいなおたか)

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 寛永十一年(一六三四)七月、三代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)は三度目の上洛をしました。これ以後幕末まで将軍上洛はなく、江戸時代初期最後となった将軍上洛でした。

 元和九年(一六二三)の上洛時に征夷大将軍に就いた家光ですが、当時、大御所(おおごしょ)の秀忠(ひでただ)が健在のため両者間で二元的な権力構造となっていました。寛永九年(一六三二)に秀忠が亡くなり、名実ともに天下を掌握した家光は、それを誇示するように上洛を計画します。寛永十一年の上洛は、三十万もの兵力を率いた壮大なもので、京都では大規模な大名の領地替えや領地朱印状(りょうちしゅいんじょう)の発給などをおこない、家光の全国統治を印象づけました。

 上洛を終えた家光は、その帰路で一通の書状を認(したた)めています(写真)。彦根藩二代藩主井伊直孝(いいなおたか)に宛てたものです。直孝は、秀忠の遺言により、家光政権の幕政参与という、老中の上位に位置する立場にありました。この上洛の際にも、道中の宿所として七月七日に彦根城に家光を迎え、在京中は家光の御供をしています。帰路では八月九日に尾張まで見送り、そこから居城の彦根へ引き返しました。

 この書状は彦根に戻った直孝へ宛てたもので、本文中には「江戸へ着き候て、今年・来年の内に大きなる仕置(しおき)ども候間、其方(そなた)も暮に下られ候様にと云い候へども、万事談合すべく候間、霜月の末・極月の始め時分、小云い候よりはやく罷(まか)り下らるべく候」(読み下し)とあります。直孝は年末には江戸へ下向することになっていましたが、家光が江戸帰着後「大きなる仕置」をすることになったので、その相談のため直孝に下向の日程を早めるよう命じています。

 事実、翌寛永十二年には、対馬(つしま)の宗(そう)氏とその重臣柳川(やながわ)氏の争論から朝鮮との関係にまで問題が発展した柳川一件を家光みずから裁定しています。また、より厳格な鎖国令を発布して日本船の海外渡航と在外日本人の帰国を禁止したり、大名統制では武家諸法度を改訂して参勤交代を制度化させるなど、江戸時代を特徴づける制度を次々と成立させました。これらの検討のため幕閣の会議が繰り返されましたが、直孝はその中で欠かすことのできない人物だったのです。

 家光政権のもと、この先二百年以上続く江戸幕府の体制がほぼ決定づけられましたが、直孝は政権の重鎮として、終生彦根に戻ることなく家光を支え続けました。

(野田浩子)

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テーマ展
「彦根藩御用絵師・佐竹永海」より
御用絵師(ごようえし)・佐竹永海(さたけえいかい)

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 佐竹永海(さたけえいかい)(一八〇三〜七四)は、江戸後期から明治初期にかけて活躍した絵師です。奥羽会津の出身で、当時関東画壇を席巻していた谷文晁(たにぶんちょう)(一七六三〜一八四〇)の門弟として知られています。

 多くの永海作品には、なるほど師の画風の影響が色濃く反映されています。文晁が多様な画派の折衷様式をとったように、永海も、南宋画と北宋画の画風を折衷した山水図や、南蘋風の色鮮やかな花卉図などを手がけており、師の採り入れた画風を確実に継承しているさまがうかがえます。

 その一方で、文晁の影響から一歩踏み出した作品も確認できます。彦根藩御用絵師の時代の作と思われるその絵は、縦一四〇cm、横一二〇cmほどの大幅で、もとは衝立だったかと考えられます。金雲と金砂子で彩られた画面に、逆巻く波間の岩上の鷲を描いており、いかにも武家の御殿を荘厳するにふさわしい、力強い画です。

 永海は、天保九年(一八三八)、十二代藩主直亮(なおあき)のときに井伊(いい)家に召し抱えられました。ときに三十六歳。同家の庇護のもと、永海は、法橋(ほっきょう)、法眼(ほうげん)という位に叙せられ、彦根の下屋敷である槻御殿(けやきごてん)の障壁画を描いたり、多賀社に絵馬を奉納するなど、精力的な活動を行っています。

(高木文恵)

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テーマ展
「彦根藩の茶湯」より
井伊直孝(いいなおたか)と茶湯(ちゃのゆ)

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 彦根藩歴代の茶湯(ちゃのゆ)とを考えたとき、幕末の大老(たいろう)井伊直弼(いいなおすけ)を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。しかし、彦根藩主と茶湯の関係は、初代直政(なおまさ)の頃からあったと考えられ、史料的に年紀が確認できる最も早い事例は、二代藩主直孝(なおたか)(一五九〇〜一六五九)の時のことです。それは直孝が元和元年(一六一五)大坂の陣の功績により、徳川家康(とくがわいえやす)から茶入(ちゃいれ)「宮王肩衝(みやおうかたつき)」を拝領したことです。

 直孝と茶湯に関する例をひとつ紹介しましょう。写真は小堀遠州(こぼりえんしゅう)(一五七九〜一六四七)から、直孝にあてた書状で、茶壺に添えられて伝来しているものです。内容は、茶葉は詰める茶壺二つを斡旋(あっせん)するもので、入手した茶壺に大判二枚五両と三枚の値段をつけ、「大判三枚のものは釉(ゆう)がはげているが、気に入らなければお返しください」と細かく点検し、評価しています。さらに「いずれもよい品で、自分用に買って留め置いているので二つあわせていかがか」とすすめています。この書状が添えられた呂宋壺(るそんつぼ)は、釉薬(ゆうやく)がはげているため、大判三枚の値段がつけられた茶壺と考えられます。

 小堀遠州は、師匠(ししょう)の古田織部(ふるたおりべ)が元和元年になくなったあと、諸大名に茶湯の指導をし、幕府の茶道指南役となり、当時の茶湯界を担っていた人物です。二代将軍秀忠(ひでただ)、三代将軍家光(いえみつ)に仕え、駿府(すんぶ)城や禁裏(きんり)、二条城などの作事奉行を務め、建築、造園に優れた才能をあらわし、茶室や茶室の作庭にも優れた才能を発揮しました。

 直孝と遠州の関係は深く、茶壺の斡旋のほかにも遠州から茶釜が斡旋されたり、遠州が直孝の嫡男直滋(なおしげ)の茶会へ訪問する際、直孝を誘うなどといった交流があります。また、寛永九年(一六三二)には、家光から御三家へ御茶がふるまわれる時に、直孝も招かれ、同じく相伴(しょうばん)しています。御茶の拝領以外にも、直孝は寛永年間(一六二四〜一六四四)には将軍家の人々への御茶の献上も頻繁におこなっています。

 江戸時代初期、茶湯が隆盛を極め、政治の場面でも利用されたため、大名と茶湯は常に近い存在でした。直孝の茶湯に関する記録は、この時代に比較的多く確認できます。この遠州の書状は、その具体的なようすが窺える一次史料として貴重なものといえましょう。

(頼 あき)

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