彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 49

2000.6.1


button 雅やかな物語絵・源氏八景手鑑
button テーマ展 「学ぶ」ということ
button テーマ展 橘紋の変遷
button  生家を思う心 - 藩主側室緑樹院

雅やかな物語絵
源氏八景手鑑
(げんじはっけいてかがみ)

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 源氏物語五十四帖のうち、八帖を選んで構成した手鑑(てかがみ)形式の画帖を紹介しましょう。

 御簾(みす)、屏風(びょうぶ)、襖障子(ふすましょうじ)、手鑑、硯箱(すずりばこ)、杉戸(すぎど)、巻子(かんす)、掛軸(かけじく)など、画面を身のまわりの道具類に見立て、その中に物語の場面を描いています。掛軸の表具部分に実際の裂(きれ)を貼りつけるなど一部に実際の素材を用いており、工芸品としての要素の強い、見る者を楽しませる作品です。

 この画帖には、下絵が付属していて、次のような画題が書き込まれています。箒木の夜雨、須磨の秋月、明石の晩鐘、松風の帰帆、行幸の暮雪、幻の帰雁、玉鬘の晴嵐、夕霧の夕照。そう、近江八景、あるいはそのもととなった中国の瀟湘(しょうしょう)八景になぞらえて制作されたのです。

 写真は、その中の「行幸の暮雪」の部分。水滴(すいてき)の部分に金属をはめ込み、硯の蓋(ふた)に物語の一場面を描いています。ただし、図様からみて、一般的には「朝顔」の帖に比定できる場面です。雪の夜、源氏が悩む紫の上をなぐさめようと、少女たちに雪ころがしをさせて遊ばせた、その様子でしょう。

 源氏絵は、婚礼調度として制作されることも多くありました。華やかに彩色された絵は、豪華な裂で装飾され、蒔絵(まきえ)の箱などに納められ、晴れがましい婚礼に一層の華を添えました。この画帖も、そうした御道具のひとつだったのかもしれません。

(高木 文恵)

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テーマ展
「昔の子ども・今の子ども」より
「学ぶ」ということ

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 山高きがゆえに貴からず
樹(き)あるをもって貴しとす
人肥えたるゆえに貴からず
智あるをもって貴しとす
(中略)
人学ばざれば智なし
智なきは愚人とす
(中略)
学文(がくもん)に怠る時なかれ
眠りを除いてよもすがら誦せよ
(以下略)

 これは、平安末期から江戸時代をへて、明治の初年までの非常に長い期間にわたって流布した『実語教(じつごきょう)・童子教(どうじきょう)』と呼ばれる教訓書の「実語教」の冒頭部分です。

 江戸時代に入って木版刷りで刊行されるようになり、寺子屋(てらこや)での「読み・書き・そろばん」の内、読み進めることによって、学問をすること・道徳的なおこないをすることなどの大切さを学ぶ教科書として使用されました。

 『実語教・童子教』の表紙の表題(写真)には「童子必用、平仮名附(ひらがなつき)」と記され、漢文体の本文には「読む」ことを始めたばかりの子どもたちに読みやすいようにひらがなのルビと返り点が付けられています。また、本文の上の部分には、「弘法大師筆妙之図(こうぼうだいしひつみょうのず)」などといった図のほかに、「請客心得之事(しょうきゃくこころえのこと)」といった日常の心得を記した文章なども合わせて収録されていて、実用的な学習もできるように工夫されています。

 江戸時代の庶民の子どもたちは寺子屋や家塾(かじゅく)で「読み・書き・そろばん」を学びましたが、庶民の子どもたちのすべてが寺子屋で学べたわけではありません。また、武士の子どもたちは、各藩に配置された藩校(はんこう)などで学問や武芸に励んだことは知られていますが、武士身分の子どもであっても、足軽以下の下級武士の子どもたちは藩校に入学することを許されなかったという例もありました。

 教育を受けることが法律的に整えられていくのは明治以降のことですが、現在の憲法が制定されるまでの間は、国家にとって有益な人間になるための教育制度が作られたのであって、決して個々の人間が自由に学ぶことを保障したものではありませんでした。

 現在の日本では、満六歳になった子どもたちが小学校(盲(もう)学校・聾(ろう)学校養護学校を含む)に入学し、小学校六年・中学校三年の合計九年間の「義務教育」を受けることが、日本国憲法や教育基本法・学校教育法などで「教育を受ける権利」として定められていますが、ここにいたるまでの歴史の深さをあらためて考えたいものです。

(齋藤 祐司)

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テーマ展
「橘紋の系譜」より
橘紋(たちばなもん)の変遷

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 今日、普段の生活の中で、自分の家の家紋を目にすることは、ごく希と言って良いでしょう。しかし、江戸時代の大名家では、旗指物(はたさしもの)をはじめとする武器武具や衣服、調度品など様々な場所に家紋がほどこされていました。

 また、現在、家紋はたいてい、一家に一つです。しかし、かつては一つの家が複数の家紋を持つことも少なくありませんでした。彦根藩井伊家には橘紋(たちばなもん)と井桁紋(いげたもん)の二つがあります。『寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)』によれば、橘紋は衣服の紋、井桁紋は旗の紋とされています。

 橘紋は、井伊家に限らず、多くの家で使用されている紋です。その形状は各家それぞれで、中でも井伊家の橘紋は、俗に「彦根橘(ひこねたちばな)」と呼ばれています。

 しかし、実際に井伊家が用いた橘紋の形状は、桃山から江戸時代を通じてかなり変化しており、その種類も様々です。端的な例を挙げれば、写真1は江戸初期の作と見られる伝井伊直孝(なおたか)所用「朱漆塗手綱文鞘大小拵(しゅうるしぬりたづなもんさやだいしょうごしらえ)」の小柄に付く橘紋、写真2は「磯草百壇塗(いそくさひゃくだんぬり)鞘大小拵」の鐔に施された橘紋で、江戸時代終わり頃の刀装金功師、大森英辰(おおもりてるとき)によって彫られたものです。年月を経て、同じ家の紋とは思えないほど変化を遂げていることが分かります。

 このテーマ展は、井伊家の橘紋が施された美術工芸品を集め、その変化の過程や時代時代の特徴を明らかにしようとするものです。橘紋がほどこされている美術工芸品の製作年代を推定する上で、これが一つの目安となればと考えています

(丹波 貴之)

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生家を思う心
藩主側室緑樹院(りょくじゅいん)

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 藩主の側室がその生家に宛てた書状が、去年度ご寄贈いただいた『高橋四郎兵衛家文書』に含まれています。ここに見える彼女の生家への思いの一端を紹介しましょう。

 その女性は彦根藩七代藩主井伊直惟(なおのぶ)(一六九七〜一七三六)の側室で、直惟没後に緑樹院(りょくじゅいん)と称した人物です。父は江戸の浪人高橋四郎兵衛。高橋家の先祖は織田信長にも仕えた武将で、父四郎兵衛は一時期徳島藩蜂須賀(はちすか)家に仕えていましたが、のちに退身しました。彼女はその縁により徳島藩主蜂須賀綱矩(つなのり)の娘亀姫に仕え、亀姫が井伊直惟の正室として井伊家に嫁いだ際に、その侍女として井伊家奥向(おくひき)に入ったようです。のちに直惟の側室となり、その娘を産みました。

 藩主の側室となると、奥向に居室を与えられて、相応の待遇を受けることになります。彼女は直惟没後もしばらくは井伊家の江戸屋敷で暮らし、のちに彦根の屋敷に移ります。井伊家の一員として現藩主や家族たちと交わり、折節の贈答などをおこなっていたことが記録に残っています。

 藩主の側室となると、その生家は多大な影響を受けます。緑樹院の兄弟久成が彦根藩士に取り立てられ、緑樹院の側に仕えました。久成は延享三年(一七四六)に彦根で暮らすよう命じられますが、これは緑樹院の彦根転居に連動してのことかもしれません。

 緑樹院の力で彦根藩士となった高橋家も、跡継ぎがいないと家の安泰は望めません。緑樹院は生家の反映につながる縁談をまとめています。高橋家の二代目を継いだ昌連の妻には、別の直惟側室に仕えて井伊家奥向で勤めていた女性おまさが迎えられました。彼女は、緑樹院が側室同士のつきあいの中から、高橋家の将来を託せると見込んだ女性だったのでしょう。

 おまさが高橋家に入る直前に緑樹院からおまさに宛てた書状が残っています(写真)。そこでは、昌連から屋敷替えとなって引越しをするのにあわせておまさを引き取ることにすると報告を受けたので、祝いの言葉を述べると共に祝儀の品を贈ることを伝えています。周囲の人もさぞ悦んでいるだろうと繰り返す言葉の中に、緑樹院自信の喜びにあふれる気持ちがにじみでています。

 緑樹院の書状は生家の高橋家に宛てた数通しか残っていませんが、これらから、生家の繁栄を願い、それに助力する女性の姿を見ることができるでしょう。

(野田 浩子)

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