彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 50

2000.9.1


button 武家儀礼と式書・式図
button テーマ展 埋もれ木の精神
button テーマ展 蓮月と彦根藩士
button 文久二年政変の真相
button 美術のなかの童子

武家の儀礼と式書(しきしょ)・式図(しきず)

若君様御成并還御之節外向之図
(わかぎみさまおなりならびにかんぎょのせつそとむきのず)
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 江戸時代の武家社会では、殿中(でんちゅう)の儀式から日常生活の作法(さほう)にいたるまで、あらゆる場面で儀礼が社会の秩序をあらわすものとして重要な意味を持ちました。武士たちは儀礼から離れて生きることはできませんでした。「儀礼社会」ともいってよいほどです。

 写真の絵図は、式図(しきず)と呼ばれるもの。宝暦十三年(一七六三)、徳川将軍家の若君(わかぎみ)が御宮参り(おみやまいり)の後に井伊家の江戸上屋敷へ訪れる(御成(おなり))にあたって作成されました。井伊家の当主(彦根藩主)がいつ、どこで、どのように振る舞い、若君を屋敷に迎え入れ、また見送るのかが朱筆などで示されています。このように式図は儀式での立振舞を平面図上に示したもので、その順序を細かく文章にした式書(しきしょ)とセットで作られました[写真左]

 宮参りの後の若君の御成は、井伊家だけでおこなわれる恒例の儀式でした。儀式には先例(せんれい)や作法など多くの約束事があり、その内容はとても複雑でした。しかも定まった形で儀式をとりおこなうことが求められました。このような儀式をわかりやすく理解するために、式書と式図が作られたのです。

 式書と式図は、「儀礼社会」の産物であり、それ自体が江戸時代の武家社会の特徴をよく表現しています。

(渡辺 恒一)

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テーマ展

「井伊直弼−新しい人間像をさぐる−」より
埋もれ木の精神

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直弼が埋木舎で研鑽を重ねた茶の湯はのちに大成され、一七人の弟子を持つまでになります。弟子はいずれも家臣ですが、写真は弟子の三浦内膳に与えた「ゆふ月」という銘の直弼自作の竹茶杓です。

 井伊直弼(いいなおすけ)は、彦根藩十一代藩主直中(なおなか)の十四男として、文化十二年(一八一五)に生まれました。すでに隠居の身であった父とともに、幼少期を、彦根の下屋敷(しもやしき)である槻御殿(けやきごてん)で何不自由なく過ごします。ところが天保二年(一八三一)の父の死は、彼の境遇を一変させることになりました。

 直弼は、井伊家の家風に従って藩から三百俵の宛行扶持(あてがいぶち)を支給されることになり、槻御殿を出て、中堀に面した尾末(おすえ)町の質素な屋敷に移ることになります。彼はここを「埋木舎(うもれぎのや)」と名づけました。

 世の中を
  よそに見つつもうもれ木の
   埋もれておらむ心なき身は

 直弼は一生を埋木舎で朽ち果てることを覚悟しましたが、失意のうちにも彼は「なすべき業(すべ)」を見出し、それに全力を傾けることで、忍び入る諦観の情を打ち払っていったようです。彼が埋木舎で、「なすべき業」として出精したのは、禅であり武術であり、和歌・国学そして茶の湯など、文武両道にわたるものでした。直弼の埋木舎生活は、一七歳から三二歳までの十五年間にも及びました。

 弘化三年(一八四六)、そんな直弼のもとに突如朗報が舞い込みます。世子直元(せいしなおもと)が病死したため、直弼が急遽世子として将軍の目通りを得ることになったのです。そして嘉永三年(一八五〇)、一二代藩主直亮(なおあき)が亡くなるとともに一三代藩主に襲封(しゅうほう)。安政五年(一八五八)には大老職に就任。万延元年(一八六〇)に桜田門外で暗殺されるまでの数年間を、幕政の中枢で日本の岐路を決するために奔走することになります。

 直弼の後半生は、ぱっと咲いてぱっと散る、文字通り「花の生涯」でした。これまで語られることの多かった直弼像も、彼の後半生を通して見た政治家直弼像であったように思います。ところが直弼には、先に述べたような花と咲くまでの長い埋木舎時代があったのです。それは埋木として「なすべき業」に精励する青年期から壮年期の直弼です。彼がこの時代に培った精神が、のちに政治家直弼として大きく花開いたと考えられます。

 このテーマ展は、直弼の埋木舎時代に注目し、彼が埋木舎で励んださまざまな「なすべき業」を通して、新しい直弼像を描こうとするものです。

(谷口 徹)

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テーマ展

「新収蔵品展I」より
蓮月(れんげつ)と彦根藩主

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 大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)(一七九一 〜 一八七五)は、江戸時代後期の京の歌人で、自詠の歌を彫った陶器の制作や、若き日の富岡鉄斎(とみおかてっさい)との交遊でも知られています。

 蓮月と彦根とは、実に浅からぬ関係にあります。蓮月は、夫と離縁した後、彦根藩士の庶子を婿(むこ)として迎えており、その婿と子どもを亡くした後には、彦根の町人の子を養子としているのです。

 さらにいま一人、近親者ではなかったようですが、彦根出身者で蓮月と親しく交流していた人物がいました。彦根藩士西村有年(にしむらありとし)です。

 昭和二年に刊行された『蓮月尼全集』には、蓮月からこの有年に宛てて詠んだ和歌が二例紹介されています。一首は有年が彦根に帰る際送った歌、もう一首は有年が佐野奉行(ぶぎょう)を命ぜられて関東へ下るときに詠んだ詩です。

 後者の歌は、「君がゆくあずまのたびの箱根山 ふたたびこしてとくかへりませ」。有年を思いやる心を平易な言葉で歌っています。

 蓮月と有年がいつ頃知り合ったかは定かではありませんが、有年が佐野奉行に命ぜられたのは蓮月が七十歳を過ぎた頃ですので、この時分には既に、紹介した歌に見るような親しい交流があったことになります。

 近年、有年の子孫のお宅に伝わった、蓮月と有年それぞれの和歌の作品を頂戴しました。

 テーマ展「収蔵品展I」では、これらの作品を含めた、平成六年度から十一年度にかけて当館で収蔵した作品を紹介します。

(高木 文恵)

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文久二年政変の真相

 文久(ぶんきゅう)二年(一八六二)八月二十七日、彦根藩の命運を左右する重大な決断が下されました。桜田門外(さくらだもんがい)の変の二年余り後のことです。

 その決断とは、大老直弼(なおすけ)の側近長野主膳(ながのしゅぜん)の処刑、家老木俣(きまた)・庵原(いはら)両人の隠居謹慎など、直弼没後の藩政を握った人物への断罪です。

 当時、幕府では公武合体(こうぶがったい)を推進した老中(ろうじゅう)安藤信正(あんどうのぶまさ)が坂下門外(さかしたもんがい)の変で傷害され、京都では直弼政権の時代に長野と共に京都での情報収集活動をおこなった島田左近(しまださこん)が薩摩藩士らに斬首される事件がおこるなど、幕末政治や直弼政権への批判が高まっていた頃です。

 また藩内でも、直弼没後の政治実権を握っていた長野らへの批判も高まっていた頃です。

 長野に対する罪状は次のように記されていました。

 姦計(かんけい)をもって重役の者に取り入り政道(せいどう)を取り乱し、御国害(おんこくがい)を醸(かも)し、人気(じんき)を動揺いたさせ候挙動、言語道断、不届至極、重罪の者に候

 決断を下したのは、もちろん藩主伊井直憲(なおのり)ですが、当時直憲はまだ十五歳、家老岡本半介(おかもとはんすけ)の進言によると伝えられます。しかし、実際は岡本自らが計画したものではなく、渋谷太郎(しぶやりゅうたろう)(後の谷鉄臣(たにてつおみ))が岡本に進言したのでした。渋谷は、明治になって自身の懐旧談(かいきゅうだん)として次のように語っています。

 文久二年頃、諸藩士の間で在京の長野の首を切って鴨川に晒し首にし、彦根藩の悪行を書き立てようとの噂があった。危険を感じた長野は、密かに京を離れ彦根へ戻って家老木俣邸に身を寄せていた。

 しかし、ある日彦根城下油屋町(あぶらやちょう)(現在の中央町・立花町の境)の藤嘉(ふじか)という道具屋から、土佐訛(とさなまり)の見慣れぬ二人の武士が出てきたので店の女房に尋ねたら、長野が来ていないか聞かれたとのこと。

 これは猶予ならないと思い、すぐ同志の外村省吾(とのむらしょうご)・北川徳之丞(きたがわとくのじょう)・河上吉太郎(かわかみよしたろう)らと、他藩の者に長野の首を取られると一大事になる、早く彼を処分するべきだと相談した。そして、岡本の屋敷へ出かけて事態の危急を論じ、彼を捕え、家老木俣・庵原の出仕停止を決めた。

 渋谷は城下に住む町医者。若い頃江戸に出て、梁川星巖(やながわせいがん)や佐久間象山(さくましょうざん)と出会い、尊皇攘夷(そんのうじょうい)論に傾倒していました。他の者も藩の下級武士でした。渋谷らは、岡本も反長野の立場、身分は違うが気脈を通じ合えると踏んだのでした。この狙いは的中、岡本の決心により藩主直憲に進言され実行に移されたのです。長野が捕らえられたのは八月二十四日、その断罪は三日後のことでした。

 この政変の意義は、直弼を英雄視する論調の中では否定的です。しかし、彦根藩が幕末維新の激動の時代を生き残るための重要な決断の一つでした。この政変を期に渋谷らは後に藩の重職につき、戊辰戦争(ぼしんせんそう)では彦根藩を勤王(きんのう)派へと導いたのでした。

(母利 美和)

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美術のなかの童子

 

 この展覧会は、「神聖な童子」という視点から、日本美術の童子像の不思議さや魅力を紹介しようとするものです。

 ここで取り上げる童子たちは、愛すべき、かわいらしい子どもではありません。

 古代中世の日本では、人間は十五、六歳になると一人前の成人として扱われるようになりました。

 この年齢に達すると某丸(なにがしまる)という童名を捨てて成人名を名乗ります。風体も、童形の特徴である垂髪(すいはつ)から結髪(けっぱつ)、烏帽子姿(えぼしすがた)へと変身しました。

 そしてその言動一つ一つが社会的な責任を負うものとされるようになったのです。それまでが「童子」の時期です。

 この時代、童子はいたって自由でした。

 彼らは未熟な人間としてではなく、成人とは異なる聖なる存在として、人ならぬ力を持つとされていたのです。

 一方、文学や宗教の世界では、「神聖な童子」の本質を具現して、神仏の世界に通う童子たちが活躍しました。

 美術作品には、こうしたさまざまな童子が登場します。

 展示は、「プロローグ どこから? どこへ?」で始まります。

 人間はどこから来たのか、そしてどこへ行くのか。最初に古代中世の人々の童子観を探ります。

 ついで、「天衣無縫(てんいむほう)」。

 ここでは、絵巻などに描かれた、竹馬や弓で遊んだり、建築現場で働く現実の童子の姿をみます。

 訶梨帝母(かりていも)や栴檀乾闥婆(せんだんけんだつば)などの童子を護る神仏も併せて紹介します。

 いよいよ第二の「仏教の童子」から、宗教的世界の童子たちが登場します。

 仏教では、白鳳時代のように少年相が流行したこともありますが、主尊で経軌に童子形と規定されているのは、文殊菩薩と不動明王くらいです。そしてそれらも、必ずしも童子形に作られた訳ではありませんでした。

 ところが、脇尊に眼を転じると、たくさんの童子が活躍します。善財(ぜんざい)童子や善膩師(ぜんにし)童子、文殊菩薩の八大童子、不動明王の矜羯羅(こんがら)、制た迦(せいたか)童子をはじめ、弁財天、荼吉尼(だきに)天、三宝荒神(さんぽうこうじん)などに従う眷属、護法がそれです。

 さらに熊野のような霊場には必ずといってもよいほどパワフルな霊力を備えた護法童子が存在しました。

 また、役行者(えんのぎょうじゃ)をはじめ、泰澄(たいちょう)、命蓮(みょうれん)、性空(しょうくう)、皇慶(こうげい)などといった高僧、験者(げんじゃ)にも護法童子が付き従っていたことが注目されます。

 さらに興味深いのは、これらが鬼形につくられることがあったことです。童子は一方で鬼神にも通ずるのです。

 第三は「神仏と童子」。

 けして多くはないのですが、童子形で顕現する神仏があります。八幡神や春日若宮、国東(くにさき)の太郎天、伊勢や長谷の雨宝(うほう)童子、伊勢の妙見(みょうけん)菩薩、比叡山の十禅師(じゅうぜんじ)、粉河(こかわ)の童男(どうなん)行者など。童子形であることに意味があるのはまちがいありません。

 また童子が本来的に具えている神仏の世界とのかかわりは、神の託宣を受ける童子や、観音の化身とされた稚児に見ることができます。そしてこれに関連して、牛飼童(うしかいわらわ)のように、成人してもなお童形の人々がいました。

 こうした考えは、南無仏太子(なむぶつたいし)や孝養太子(聖徳太子)、稚児大師(空海)などの童形の祖師像を生み出すことにもなります。

 展示のしめくくりは「エピローグ 童子の肖像−童子観の変容−」。

 中世も終わりに近くなると、夭折した童子の肖像がつくられるようになります。

 そこには、現代に通ずる「人間として未熟な、教育されるべき子ども」という観念の萌芽をみることができます。童子も成人と同様に、追善供養の対象となったのでした。

主な展示作品
●法然上人絵伝(知恩院) ○訶梨帝母像(園城寺) ○童子経曼陀羅図(智積院) ○文殊菩薩像(西大寺)
○文殊渡海図(叡福寺) ○善財童子像(竹林寺) ○善財童子像 康円作(東京国立博物館) ○華厳五十五所絵(東京国立博物館)
○不動明王二童子像(恵光院) ○不動明王二童子像(成菩提院) ○不動明王八大童子(長福寺) ○不動明王二童子像(常照寺)
○地蔵菩薩像(浄信寺) ○善膩師童子像 湛慶作(雪蹊寺) ■熊野本地仏曼陀羅図(根津美術館) □吉野曼陀羅図(西大寺)
○童子像(矜羯羅童子・制た迦童子像 吉祥寺) ■泰澄大師及び侍者像(大谷寺) ○八幡神垂迹曼陀羅図(来迎寺) □童子形神像(石清水八幡宮)
○童子像(大将軍八神社) ○太郎天及び二童子像(長安寺) ○雨宝童子像(金剛証寺) ○妙見菩薩像(読売新聞社)
○十禅師像(伝聖徳太子像、成菩提寺) ●粉河寺縁起絵(粉河寺) ○松崎天神縁起絵(防府天満宮) ■能面・大喝食(三井文庫)
■能面・童子(三井文庫) ○誕生釈迦仏像(善水寺) ○聖徳太子像(観音寺) □南無仏太子像(伝香寺)
○聖徳太子孝養像(松岡寺) ○細川蓮丸像(聴松院) ○豊臣棄丸像(隣華院) □童子八幡神像(栗棘庵)
 護法童子像(延暦寺)  
●=国宝
○=重要文化財
■=重要美術品
□=県指定文化財

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