2000.12.1
真珠光沢への憧憬(どうけい)
青貝花籠文香合(あおがいはなかごもんこうごう)藤の実形の素地全体に黒漆を塗り、蓋(ふた)の甲に薄貝を細かく散りばめて花籠をあしらった香合。花籠の薄貝が、光の加減で青のほかにも桃色や黄色と鮮やかに発色し、見る者の心を魅了してやみません。
人類が貝裏の真珠光沢に着目し、それを工芸品に取り込んだのは、ずいぶん昔のことです。その起源は明確ではありませんが、シルクロードを経て中国に伝わり、中国の唐代に完成しました。「唐代螺鈿(らでん)」と称される作品はわが国にももたらされ、正倉院の宝物として現存しています。
その後、中国では螺鈿技法は一時衰退しますが、元そして明の時代を迎える頃には、鮑(あわび)貝を主体として、これを薄く剥(は)いだ薄貝細工が新しく生まれ、発達します。薄貝法により、これまでの厚貝では困難であった細密な意匠の表現が可能となりました。
現在、夜行貝など厚貝を用いたものを螺鈿と呼び、薄貝を用いたものを青貝と別称するのが一般的です。薄貝の主な素材が、青系の発色が特徴的な鮑貝であることから青貝の名が生まれたのでしょう。
ともあれ明代の青貝は、室町時代以降、唐物尊重の社会風潮の中でさかんに日本へ請求されました。ここで紹介した作品も、日本にもたらされて香木を入れる風炉用香合に見立てられたものです。この種の青貝香合は、江戸時代になると、堆朱(ついしゅ)香合とともに唐物香合の代表として高い人気を得ることになります。
(谷口 徹)
「井伊家伝来の茶道具−茶の湯釜−」より
芦屋(あしや)と天命(てんみょう)古くから茶会を催すことを「釜をかける」と言い、年の初めの茶会を「初釜」、毎月の茶会を「月釜」と称すなど、釜は茶の湯の象徴であり、代名詞でもありました。このことは、幕末の大名茶人井伊直弼(いいなおすけ)が著した『茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)』
一、 釜ハ一室の主人公に比し、道具の数ニ入らずと古来いひ伝へ、此釜一口ニて一会の位も定るほどの事なれバ、能々(よくよく)穿鑿(せんさく)をとくべし と認識していたことにもうかがえます。まさに、釜は道具を超えた道具であったと言えます。
さて、このような釜が日本に登場するのは古墳時代にまでさかのぼります。ただし土師器(はじき)という素焼きの土製品でした。のちに奈良時代になると、土製品に加えて鉄製・銅製のものも登場しますが、あくまで厨房用の湯沸しなどに用いる日用品でした。これらに対して、茶の湯のための釜、つまり茶釜が制作されるようになるのは鎌倉時代以降のこと。その双璧をなしたのが芦屋釜と天命釜です。
芦屋釜は筑前国(福島県)遠賀川(おんががわ)の河口にある山鹿庄芦屋津(やまがのしょうあしやづ)で制作された釜の総称。古くから砂鉄を産し、たたらで製鉄をして鍋・釜・農工具などの日用品を製作してきた地であり、室町時代になると、数々の名物釜を世に送り出しました。
一方、天命釜は、下野(しもつけ)国佐野庄天命(栃木県佐野市)一帯で制作されたものです。「天明」や「天猫」の文字が当てられることもあります。天命では芦屋より古くから鋳物技術が発達していたようですが、日用品を作っていた期間が長く、茶釜の制作は芦屋より百年ほど遅く始まったと伝えられています。その作風は、芦屋釜がおしなべて洗練され上品であるのに対し、天命釜は雑器の名残りがあって厚手で素朴です。このことが侘茶(わびちゃ)の意に適(かな)い、その興隆とともに大いにもてはやされる事になりました。
こうして、室町時代に盛期を迎えた芦屋釜と天命釜でしたが、桃山時代になるとしだいに衰退し、かわって京都三条釜座において京釜の制作が盛んとなり、やがてその分派が江戸に生まれ、盛岡・金沢その他の地方にも釜作がおこって、江戸時代の盛んな需要にこたえることになります。
写真は、室町時代に制作され井伊家に伝来した天命釜です。口の左右に鐶付(かんつき)があり責紐釜(せめひもがま)と称します。責紐釜は天命に始まり、貴人に献茶をするとき、両脇の鐶付に紐を通して押さえ、口に封印をするのに便利な器形とされます。胴部は厚く素文(そもん)で、荒々しい肌の素朴さを生かして、侘びた趣を表出しています。
(谷口 徹)
「吉祥のデザイン-鶴-」より
鶴足皮包鞘大小拵(つるあしかわつつみさやだいしょうごしらえ)写真の本館蔵「鶴足皮包鞘大小拵」をごらんください。大小ともに、鞘の表面に貼り合わされているのは、鶴の足の皮です。
「鶴の足の皮を貼った鞘」という強烈な印象によって見過ごされてしまいがちですが、この拵には色々な趣向が施されています。
例えば、大拵の三所物(みところもの)には、雛を育てる鶴、小拵の三所物には、つがいになって仲良く飛ぶ鶴といった具合に「鶴尽くし」といってよいほど様々な場所に鶴の姿が描かれています。
また、翡翠(ひすい)で出来た栗形(くりがた)には唐松文様が刻まれ、この拵に付属する替鞘(かえさや)(スペアの鞘)には蒔絵で霞地(かすみじ)に松葉文があらわされるなど「鶴に松」の組み合わせが意識されています。
この拵を作らせた人物は、大胆な遊びによって、なんとも奇怪にしておめでたい拵を作り上げてしまったのです。
ところで、江戸時代、鶴を捕獲する権利は、原則として将軍家が独占していました。捕獲された鶴は朝廷や御三家、国持大名など、わずかな家格の高い家に贈られたのです。将軍から鶴を贈られるということは大変に名誉なことだったでしょう。
この拵は現代の感覚だけでなく、ある程度、当時の鶴に対する習慣や信仰を通して眺める必要があるのかもしれません。
(丹羽 貴之)
常設展示『古文書が語る世界』から
幕末彦根藩の足軽(あしがる)嘉永六年(一八五三)正月、彦根藩の内目付(うちめつけ)が相州(そうしゅう)(相模国、現神奈川県)の警備地での風聞を記した一通の報告書を側役(そばやく)へ提出しました。ペリーが開国を求め浦賀へ来航する五ヵ月前のことです。当時、彦根藩は江戸湾の海防のため、相州に配備されていました。
風聞として報告されたのは相州詰の足軽の行状でした。その内容は、1.足軽が打裂羽織(ぶっさきばおり)・小紋股引(こもんももひき)などの華美な服装で陣屋から外出し、相州の人々へ士分の者のような言葉づかいで話していること、2.代官方下役を勤める足軽が、村方で役威を振りかざし迷惑をかけていること、3.物頭(ものがしら)(足軽大将)から打裂羽織・小紋股引が禁止されたが、不満に思い、内々に着用する者がいること、などでした。
風聞書からは、士分と足軽との間には身分的な格差があり、本来は服装や言葉づかいが違っていたこと、にもかかわらず、足軽のなかにその規制に逆らう動きがあったことがわかります。
ここでの足軽の振る舞いは、異国船に対する海防のために出陣していたこと深く関係していたと考えられます。軍事的緊張の下、西洋流砲術の導入がはかられ足軽が技術を伝習するなど、兵力としての足軽の役割がより重要なものとなります。足軽自身、それを自覚するような状況があったと思われます。このような自覚が、備場での士気の高まりとあいまって、従来の身分規制を破る行動を生み出したと類推されます。
幕末・維新の政治変革を推進した勢力として、諸藩の下級武士層が従来注目されてきました。彦根藩でも、足軽出身者をふくむ下級武士が軍事指揮官として台頭し、維新期の藩政の中枢を担います。
いまだ推測の域を出ませんが、相州警備でみられたような足軽の軍事的役割の増大と身分上昇の志向が、維新期の下級武士の政治参加へ向けた大きなワンステップとなったと思われます。足軽の動向は幕末政治史を解明する上で極めて重要な論点なのです。
(渡辺 恒一)