彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 52

2001.3.1


button 戦場にはためく巨大な籏印
button テーマ展 江戸時代の甲冑−復古調より
button テーマ展 井伊家伝来の茶道具
button 井伊家の面目と直弼の決意


戦場にはためく巨大な籏印

朱地井桁紋籏印
(しゅじいげたもんはたじるし)
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 籏印(はたじるし)とは、軍勢を率いる武将が戦場の中で自らの位置を示すのに用いた標識です。おびただしい人数が動く広い戦場の中で、敵味方、個々の将の位置関係、戦の状況等が判断できるよう、なくてはならないものでした。

 本館蔵「朱地井桁紋籏印(しゅじいげたもんはたじるし)」は彦根藩井伊家に伝来したもので、関ヶ原の戦いに使用されたと伝えられています。

 上部と縦の一方に竿(さお)を通す昇旗(のぼりばた)の形式で、大きさが縦方向が331.0cm、横方向が204.0cmもあります。これは井伊家に伝来した籏印の中でも最大です。

 軍装を全て赤で統一したために「井伊の赤備え(あかぞなえ)」と呼ばれた井伊家の籏に相応しく、朱染絹地(しゅぞめきぬじ)の両面に紙で裏打ちした金箔を縫いつけ、井伊家の家紋、井桁紋(いげたもん)をあらわしています。

 非常にシンプルなデザインですが、それだけに遠くからでも良く目立ったことでしょう。

(丹羽 貴之)

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テーマ展

「江戸時代の甲冑−復古調−」より
江戸時代の大鎧

 写真の甲冑は堺市博物館所蔵の大鎧(おおよろい)です。

 全体を紅糸(くれないいと)で威し(おどし)、あらゆる箇所に梅枝文様の金具が据(す)えられています。鍬形(くわがた)を打った兜(かぶと)には龍の飾りが付き、胴正面に張られた弦走韋(つるばしりがわ)等に波に龍の文様をあしらっています。

 大鎧は平安時代から鎌倉時代にかけて流行した騎射戦(きしゃせん)、つまり馬に乗り弓矢で戦うことを想定して作られています。

 例えば、弓を大きく引き絞るのに都合が良いよう、脇の下周辺が大きく空けられ、空いた両脇は胸の左右に付けられた鳩尾板(きゅうびのいた)、栴檀板(せんだんのいた)で守られています。また四つに分かれた草摺(くさずり)は、馬に乗った時、太股全体を隙間無く覆うよう工夫されています。

 戦国時代に鉄砲という強力な武器が伝来すると、大鎧などそれまであった甲冑は廃れてしまいます。次第に、分厚く幅の広い鉄板を用いた当世具足が主流となっていきました。

 この甲冑には肥前島原藩松平家の家紋「島原扇(しまばらおうぎ)」が据えられ、付属の調進書より天保十年(一八三九)の製作と判明することから、八代藩主松平忠候(ただこれ)(一七九九〜一八四○)所用と思われます。

 この時期に、鉄砲ではなく弓矢での戦いを想定した甲冑が作られるのは、なにやら時代錯誤な感じがします。

 しかし、色とりどりの威毛(おどしげ)に、染韋(そめかわ)や錦(にしき)、精緻な彫刻を施した金具等で飾られた古式の甲冑には、鉄板を主体とした当世具足に無い魅力があります。

 江戸時代に入り世の中が平和になると、室町時代以前の古い甲冑に関心が向けられるようになりました。宝永六年(一七○九)に『本朝軍器考』を著した新井白石(あらいはくせき)をはじめ、様々な人々によって古い甲冑が研究されるようになり、そうした知識の蓄積が、次第に甲冑の製作にも反映されていくようになります。

 こうして生まれたのが「復古調(ふっこちょう)」、または「復古鎧(ふっこよろい)」とよばれる甲冑です。主に平安時代から室町時代の甲冑をモデルに作られ、江戸時代中期以降に流行しました。

 復古調の甲冑は、実践で使用するための武具というよりも、武家の権威を誇示するための道具といって良いものでした。そのため、費用を惜しまず入念に製作されたものも少なくありません。

 この甲冑はその典型的な作例で、金工、漆工、染織、皮革など様々な分野における最高級の工芸技術を見ることが出来ます。

(丹羽 貴之)

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テーマ展

「井伊家伝来の茶道具−茶碗−」より
天目茶碗

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 手に触れ、口に触れて私たちの生活の中でたいへん身近なものに焼物の茶碗があります。この茶碗、昨今では飯(めし)を盛る際にも用いられますが、本来は文字どおり茶を飲むためのもの。茶の湯の世界では、古くから人気のある茶道具です。

 茶の湯で用いられる茶碗は、和物(日本製)のほか唐物(からもの)(中国製)や高麗(こうらい)物(朝鮮製)があり、時代の移ろいとともに変化する人々の美意識に応じて、その好みをさまざまに変えてきました。

 わが国に中国から喫茶の法が伝えられたのは、鎌倉時代ころと考えられていますが、それに前後して唐物茶碗が日本にもたらされ、室町時代の書院茶の流行とともに茶碗の主流をなすようになります。

 唐物茶碗としては、天目茶碗や青磁茶碗などがよく知られています。なかでも天目茶碗は、書院茶の中で重要な地歩を占め、天目台に乗せて丁重に取り扱われました。

 これらの天目茶碗は、宋時代に福建省の建窯(けんよう)で焼かれたものです。建窯の近くには禅寺の名刹をいくつも抱えた天目山がそびえており、日本から留学した禅僧の多くも、ここで修行の日々を過ごしたと伝えています。

 彼らは帰国に際して、寺院で学んだ喫茶の法とともに、寺院の什器(じゅうき)である建窯の茶碗も日本に持ち帰りました。以後、この種の茶碗をわが国で天目茶碗と称するようになったのです。

(谷口 徹)

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井伊家の面目と直弼の決意

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 弘化(こうか)四年(一八四七)二月、幕府は、江戸湾周辺に頻繁に渡来する異国船警備のため、彦根藩に相模国の海岸警備を命じました。いわゆる相州(そうしゅう)警備です。

 当時、彦根藩主井伊直亮(いいなおあき)の世子(せいし)だった直弼(なおすけ)は、井伊家は初代直政以来、将軍家からの内命で京都守護の重責を任された家であり、相州警備の命令は井伊家の格式に不相応であると批判的な意見をもっていました。とはいえ、幕府の命令を断るよりも、武功の家としてまずは誰もが驚くような手厚い警備に努め、その上で辞退を願うのが筋ではないかと考えていました。

 このような直弼の意に反して、藩主直亮や藩の重役たちの警備に対する認識は甘く、世間の批判が高まっていました。浦賀奉行から他藩に比べて警備が手薄であると指摘される事態も起こり、直弼は日々相州警備のことに悩み、直亮や藩の重役らの行動に憂慮していました。しかし、世子の直弼にはどうすることもできませんでした。

 ところが、嘉永(かえい)二年(一八四九)六月以降、相州警備の経済的負担が多いため、彦根藩の城使役(じょうしやく)宇津木六之丞(うつぎろくのじょう)らが中心になって、相州警備免除のために幕府役人に働きかけ、彦根・会津二藩の警備地域の持ち場替えの内願書を作成し、幕府に提出しようと計画していました。

 この動きに対し、同三年十一月、直弼が藩主になると、いよいよ自ら行動を始めました。同年十二月、直弼は持ち場替えの内願書は、自分を顧みず他を怨むものであり、井伊家に不似合のものであると批判し、彦根藩が今果たすべきことは、「当家の面目」を立てること。将軍の戦陣の先鋒(せんぽう)を勤める武功の家として、幕府に命じられた相州警備の場で、十分な働きを見せることが重要であると、その初心を貫こうとしました。そのため、来春には自ら相州に赴こうと、側役(そばやく)に宛てた書付にその決意のほどを記しています(写真)。

 直弼は実際に台場や大砲の稽古を見分し、警備体制の再編成を進めました。同六年六月にアメリカ艦隊ペリーが来航した際には、約二千名の彦根藩兵を浦賀に派遣し、ようやく相州警備での十分な任務を果たすことができたのでした。

 安政元年(一八五四)四月、彦根藩は晴れて正式に京都守護を命じられました。彼の決意は実を結び、ようやく井伊家の面目は保たれたのです。

(齊藤 祐司)

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