彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 53

2001.6.1


button 古材を尊ぶ
button テーマ展 「近江名所図絵」のなかの高宮
button テーマ展 海中の仙島
button 武功のあかしの伝承−井伊直政所用の采配−


古材を尊ぶ

篳篥 銘沢辺
(ひちりき めいさわべ)
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 雅楽(ががく)で主旋律(しゅせんりつ)を奏でるのが篳篥。この小さな縦笛のどこから、あんなに大きな音が出るのかとふしぎな感じがします。上端に、芦の茎で作った芦舌(ろぜつ)と呼ぶリードを差し込んで演奏します。

 沢辺の銘のつけられたこの篳篥、笛自体は室町時代に遡ろうかという古さがあります。

 これを納めているのが、扇を閉じた形の管箱(かんばこ)です。「家(いえ)」と呼んでいます。下端についた要(かなめ)金具を軸に、蓋を水平に回して開閉します。

 家には、銘にふさわしいデザインが施されるのが常です。

 この例では、素材は木目もあらわな朽木。そこに螺鈿(らでん)で貝を散らします。いかにも海岸に打ち上げられた流木です。しかも、要には小さな蟹。

 なるほど「沢辺」のイメージだな、と解釈するだけではこの家のおもしろさはわかりません。実は、この材料には、由緒があります。

 江戸時代の天保年間に、東大寺の三庫、といいますから正倉院のことでしょうか、を修造したときに得た椽(たるき)の古材で作ったというのです。

 いうまでもなく奈良時代の東大寺の大仏開眼供養は、雅楽が華々しく繰り広げられた記念碑的な一大ペイジェントでした。

 以来、連綿とわが国に伝えられてきた雅楽の伝統、さらには大陸から波涛(はとう)を越えて伝えられた雅楽に対する思い入れが、この家を造らせたとみるのは穿(うが)ちすぎですようか。

(齋藤 望)

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テーマ展

「近江名所図絵」のなかの高宮

(おうみめいしょずえのなかのたかみや)
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 文化十一年(一八一四)刊行の「近江名所図絵(おうみめいしょずえ)」には、高宮駅(たかみやのうまや)(現彦根市高宮町)の光景が描かれています(写真)。

 馬子(まご)に牽かれた馬に乗る武士や町人風の女性の旅人、懸命に荷物を運ぶ人足、多賀大社の参詣客を乗せた駕籠(かご)、商品を売り歩く棒手振(ぼてふ)り、柴を背負い歩く農民たち。街道を様々な人々が行きかっています。

 街道沿いには、仙台屋という旅籠、「高宮嶋織元(たかみやしまおりもと)」の暖簾(のれん)をかけた店が軒を連ね、また、画面左側には、多賀大社の一の鳥居の姿が見えます。

 江戸時代の高宮には、中山道(なかせんどう)の宿駅(しゅくえき)が設置され、本陣(ほんじん)・脇本陣(わきほんじん)・問屋(といや)が置かれました。また、多賀大社の参道がここから分かれていたため、多くの旅人や参詣客で賑わいを見せました。一方、高宮は、近江麻布(おうみまふ)の生産・集荷の拠点でもあり、周辺地域から人々の集まる場所でした。当時、高宮布(たかみやぬの)の名は高品質の麻布のブランドとして全国的に広く知られていました。

 「近江名所図絵」の光景は、人と物の集散地として栄えた江戸時代の高宮の特色を凝縮してあらわしているものです。

 しかし、「近江名所図絵」で描かれた高宮は、高宮を外からみた一面的なイメージが前面に出ているものと考えられます。

 本陣などの施設の規模や旗籠(はたご)の数などからみた場合、高宮はけっして大きな宿場ではありませんでしたが、人口は天保十四年(一八四三)には三五六〇人を数え、中山道の宿駅のなかでは二番目、近江国内ではもっとも多くの人が暮らしている宿場でした。多くの人々が宿駅・運送以外の仕事を生業としていたと考えられるのです。

 第一に農業をあげることができます。高宮は、彦根藩から高宮村として位置づけられ、庄屋などの村役人も置かれていました。集落の周りには水田がひろがり、村高二九○○石は彦根藩領の村の中で最大です。農業用水をめぐって周辺地域とも関係を持っています。農村としての側面もあわせ持ってたのです。

 また、商業では、高宮からは不破弥三郎(ふわやさぶろう)・馬場利左衛門(ばばりざえもん)・堤惣平(つつみそうべえ)など、主に高宮布の商いにたずさわり、関東・中部地方などに店を持つ近江商人を輩出しました。このような商人が高宮のなかで果たした役割も重要です。

 テーマ展では、このような多様な人々や要素からなる江戸時代の高宮について、人々の生活に視点をすえ、住民によって高宮の町が築かれてきた歴史を具体的に紹介します。

(渡辺恒一)

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テーマ展

海中の仙島

(かいちゅうのせんとう)
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 法被(はっぴ)は、武人の鎧(よろい)姿をあらわし、側次(そばつぎ)はその略装、あるいは唐人物(とうじんぶつ)の装束として着用します。

 この側次は異色の一領。

 元来、中国の清朝(しんちょう)の朝服(ちょうふく)だったものを能装束に仕立て直したと考えられています。おそらく近代になってからのことでしょう。まことに、唐人物の役どころにふさわしく思われます。

 肩や背には龍を主文とする丸文。裾は荒波逆巻く海中の光景です。島には牡丹が咲き誇り、鳳凰が舞い、瑞雲が涌き上がります。裾広がりの形変わりに仕立てられているのは、裾の文様を生かそうとしたからに違いありません。

 ここにあらわされているのは、現実の自然の叙景ではありません。文様ひとつひとつが意味を持つ世界なのです。

 中国では、高く聳(そび)える名山や東海中の島に、不老長生の仙人の棲む仙郷があると考えられてきました。この側次にあらわされた島はその仙島なのです。龍は仙界に通う乗輿(じょうよ)であり、鳳凰は仙界からこの世にあらわれる瑞鳥にほかなりません。

 不老長生を願う切実な思いが、これらの瑞祥文(ずいしょうもん)を、身のまわりの調度や衣裳のデザインに取り入れさせたのです。そこから発する「気」を身体に取り込もうとしたともいえるでしょう。

 こうした古来の思想に裏打ちされた文様が、悠久の年月を通じて一貫して行われ続けているところに、中国の文様が秘める重みを感じないわけにはいきません。

(齋藤 望)

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武功のあかしの伝承−井伊直政所用の采配−

(ぶこうのあかしのでんしょう−いいなおまさしょようのさいはい−)
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 写真(左)は何かおわかりでしょうか。戦陣で大将が軍勢を指揮(しき)するために用いた武具(ぶぐ)で、采配(さいはい)というものです。この采配は、江戸時代中期、貞享(じょうきょう)三年(一六八六)正月に、藩士三浦十左衛門(みうらじゅうざえもん)安重から井伊家へ献上したものです。

 献上する際に尽力した藩士西掘光具の用状(ようじょう)(写真右)によると、慶長十九年(一六一四)の大阪冬の陣で、軍勢の引き上げにつかわされる三浦十左衛門安久へ井伊直孝から下されたことがわかります。安久は安重の祖父で初代藩主井伊直政以来の家臣でした。武功にたけ、大阪の陣での働きにより二代直孝の信任もえました。

 さて、この采配が三浦に下賜された経緯(けいい)については、十八世紀前半の編纂物(へんさんぶつ)「井伊年譜(いいねんぷ)」に該当する記述がみられます。それによると、慶長十九年十二月四日、大阪冬の陣の真田丸(さなだまる)の攻防戦で、ともに戦った松平忠直(まつだいらただなお)軍と先を争って攻撃し、井伊の軍勢が敵の砦(とりで)の塀下に攻めよっていたところ、犬死を防ぐべく徳川家康(とくがわいえやす)から命が下され、直孝から三浦安久と軍監(ぐんかん)役岡本半介宣就に、兵の引き上げが命じられました。これに対して三浦は、自分が言っても引き上げることはできないので、直孝の采配を下さるように申し上げたため、下されたとあります。

 また、文政七年(一八二四)に彦根藩で作成された「御武器并御道具類絵図御家中指物武器類絵図(おんぶきならびにおんどうぐるいえずおんかちゅうさしものぶきるいえず)」によると、直政の戦勝の由緒を持つ采配として直孝に伝わり、直孝が大阪の陣の時、三浦安久に下賜したものであることがわかります。

 彦根藩では貞享元年、藩士に対して、これまで井伊家から拝領した感状(かんじょう)や褒美(ほうび)など所持するものを届け出るよう命じています。その時、三浦家からこの采配のことも届け出て、その後献上することになったのかもしれません。

 江戸時代、歴代藩主所用の甲冑(かっちゅう)や刀をはじめとした武器武具は、武門を象徴する第一の道具として大切にされました。特に関ヶ原合戦や大阪の陣で、初代直政や二代直孝が用いたものは、徳川政権において井伊家を譜代大名(ふだいだいみょう)筆頭に位置づけた武功のあかしとして重視されました。また、井伊家の武功に貢献(こうけん)した家臣も、同様に家の格や名誉(めいよ)など井伊家における位置づけを示すものとして重視しました。

 彦根藩では、貞享年間以降も先述した十八世紀前半の「井伊年譜」や十九世紀前半の絵図資料など、幾度か過去の事跡を振り返ることが行われました。それぞれの武功や武器武具に付随する事跡を忘れず末代まで伝えるために、彦根城天守の宝蔵に納めるなど厳重に管理されるとともに、記憶を記録として残し、伝える努力がされてきました。こういった努力によって、武器武具類や伝承が今に伝えられているのです。

(ョ あき)

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