彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 54

2001.9.1


button 秀吉(ひでよし)の天下統一と伊井直政(いいなおまさ)
button 平成13年度企画展 日本の藩窯(はんよう)
button テーマ展 竜蛇(りゅうじゃ)の面
button テーマ展 三体和歌(さんたいわか)
button 御用部屋入り(ごようべやいり)−大老(たいろう)の準備期間−


秀吉(ひでよし)の天下統一と伊井直政(いいなおまさ)

豊臣秀吉朱印状(しゅいんじょう)
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 檀紙(だんし)と呼ばれる皺目(しわめ)を入れた大振りの料紙に、墨色あざやかに記された手紙の主は豊臣秀吉。秀吉は、天正十八年(一五九○)、小田原城の後北条(ほうじょう)氏を攻め落とし、関東一円を徳川家康(とくがわいえやす)に託しました。家康は、その拠点を江戸に定め、後の江戸幕府の基礎を築き始めます。
 この手紙は、ちょうどその頃、奥州長沼(おうしゅうながぬま)(福島県)にいた秀吉から、家康の一家臣であった伊井(いい)直政に宛てられたものです。
 直政は、家康の関東入部にともない、家康から上野(こうずけ)国箕輪(みのわ)(群馬県箕郷(みさと)町)に十二万石を与えられていました。手紙には、箕輪に入った直政に対して、新しい領地の調査と普請を命じています。普請とは、おそらく城普請でしょう。
 しかし、なぜ家康からではなく、秀吉から直接直政に命じられたのでしょうか。
 家康の関東入部は、天下統一の最終段階に入った奥州攻略に向けての、秀吉による布石でした。そして、直政の箕輪配置も、実は家康による関東支配のためではなく、奥州攻略のため秀吉の強い意向によるものだったのです。 
 秀吉の天下統一においては、直政は家康の一家臣ではなく、秀吉の壮大な戦略の中で、重要な位置を占めていたのです。
 慶長二年(一五九七)、家康は直政に信州・越後進出のため新たな城地選定を命じ、翌三年十月、高崎(群馬県高崎市)に城を移しました。奇しくもその二ヶ月前、秀吉はこの世を去ります。家康の全国制覇への第一歩が踏み出された年でもありました。

(母利美和)

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平成13年度企画展  日本の藩窯(はんよう)−西日本編−

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10月27日(土)〜11月26日(月) (期間中無休) ■開館時間■ 9:00〜17:00(入館は16:30まで)  ■観覧料金■ 一般 1,000円(900円)/小・中学生 500円(340円) ※( )内は30人以上の団体料金

 江戸時代は「やきもの」が人々の生活の中に広く深く浸透した時代です。各種の日用品から茶華道用品にいたるまで、多様な「やきもの」が大量に消費されました。
 こうした大量消費を支えたのが窯業地です。江戸時代には、大小の窯業地が全国各地に生まれ、さまざまな「やきもの」を世に送り出しました。窯業地は、藩の指導や援助を受けるなど、藩と関わりをもったものが数多く見られます。それらは「藩窯(はんよう)」 「御用窯(ごようがま)」「お庭焼(おにわやき)」などと呼ばれますが、その呼称は必ずしも統一されたものとはなっていません。ただ、「藩窯」が藩の経営に主眼が置かれているのに対して、「御用窯」は藩に限らず禁裏や門跡、茶華宗家などの御用達の窯という広範な意味に用いられることが多く、また、「お庭焼」は茶器など大名の嗜好が色濃く反映した特殊な窯を称しているように思います。
 この企画展では、藩が直接経営に乗り出した窯を「藩窯」ととらえ、その類例を全国に求めて 「藩窯」の実態をあきらかにします。
 西日本各地から、次の十六の藩窯を一堂に紹介します。

・湖東(ことう)焼−彦根藩(滋賀県)
・南紀男山(なんきおとこやま)焼−紀州藩(和歌山県)
・王子山(おうじやま)焼−篠山藩(兵庫県)
・東山(とうざん)焼−姫路藩(兵庫県)
・閑谷(しずたに)焼−岡山藩(岡山県)
・姫谷(ひめたに)焼−福山藩(広島県)
・萩(はぎ)焼−萩藩(山口県)
・尾戸(おど)焼−土佐藩(高知県)
・能茶山(のうさやま)焼−土佐藩(高知県)
・上野(あがの)焼−小倉藩(福岡県)
・高取(たかとり)焼−福岡藩(福岡県)
・唐津(からつ)焼−唐津藩(佐賀県)
・鍋島(なべしま)焼−佐賀藩(佐賀県)
・平戸(ひらど)焼−平戸藩(長崎県)
・八代(やつしろ)焼−熊本藩(熊本県)
・薩摩(さつま)焼−薩摩藩(鹿児島県)

 西日本各地の藩窯を概観すると、東日本にはなかった特徴が認められます。ここでは、そのことについて簡単に紹介することにしましょう。
 文禄(ぶんろく)元年(一五九二)、豊臣秀吉は朝鮮半島への出兵を決意します。「文禄・慶長の役」(朝鮮では「壬申・丁酉の倭乱」と言う)の始まりです。この役では、出陣した西国大名の多くが、朝鮮の陶工を日本へ連行しました。「やきもの戦争」とも呼ぶ所以(ゆえん)です。萩焼・上野焼・高取焼・八代焼・。薩摩焼などは、いずれもそうした朝鮮の陶工たちによって始められ、藩窯として茶の湯のための陶器を焼くことが、大名間で一種のブームとなったのです。
 一方、朝鮮の陶工の中には郷里で製作していた磁器を試みる人々が現れました。そしていち早く成功するのが有田です。十七世紀初頭に始まった有田の磁器生産は、佐賀藩の有望な産業として発展していくことになります。佐賀藩窯の鍋島焼はそうした有田の磁器をベースとし、有田の磁器を象徴する存在として生まれました。以後、出来の悪いものや焼損じ品は廃棄する、力量の劣る者は罷免(ひめん)するなどの厳重な統制により、藩窯鍋島焼として高い水準を維持することになります。

(谷口 徹)

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テーマ展

竜蛇の面

(りゅうじゃのめん)
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 「般若(はんにゃ)」という知られた鬼女(きじょ)の面があります。額に二本の角を生やし、口は張り裂けんばかり。眼にも歯にも金色の金具を被せます。嫉妬に狂う女の役柄に用います。
 しかし般若という言葉は、『大般若経』という六百部に及ぶ大部の教典があることからも想像されるように、仏教で真理を認識し悟りを開く最高の智慧(ちえ)をいう言葉です。
 なぜ般若が、怨霊(おんりょう)の面の名前になってしまったのでしょうか。
 何のことはない、般若坊という、名前からすれば僧籍にあった面打が創作したので、この名があるのだと伝えられています。
 ところで、ここに掲げた面は、般若に似ているのですが、般若が沈鬱(ちんうつ)な中にも品位を感じさせるのに対して、怨みの激情を直截(ちょくせつ)にあらわしているところが異なります。その角は、先鋭化した精神が表出したかの印象があります。
 このタイプの面を蛇(じゃ)と呼びます。鳥取・池田家伝来で、面裏に享保十八年(一七三三)の年紀と、金剛流の本面を甫閑満猶(ほかんみつなお)(?〜一七五〇)が写したものであること、「道成寺(どうじょうじ)」に用いることが記されています。
 道成寺は、和歌山県日高群にある寺。恋慕の情が遂げられないことを恨んだ女が、日高川に身を投じて大蛇と化し、道成寺の鐘の内に隠れた熊野還向の修行者を焼き殺すという、道成寺縁起絵巻で有名です。
 この説話は、中・近世には多くの芸能に採り入れられて、道成寺物という一ジャンルを形成することになりました。
 その源泉となった能の「道成寺」は、絵巻の後日譚の形をとります。
 焼けた鐘の再興供養の法会。一人の白拍子(しらびょう)が現れます。女の舞が最高潮に達したとき、「思えば此(この)鐘、恨めしや」と、竜頭(りゅうず)に手を掛けて中に飛び入ると、鐘は落下してしまいます。白拍子は先に修験者を焼き殺した女の怨霊だったのでした。
 鐘が再び上がると蛇体と化した鬼女が出現する見せ場となります。この後ジテに般若や蛇の面を用います。
 道成寺縁起絵巻では大蛇に変じた女は竜の姿に描かれています。大蛇と竜とは同体と見なされていたからです。
 蛇の面は、竜女のイメージの上に、「四つの角を面上に生ぜる鬼形の女」「口広くして面赤き女」(『諸山縁起』)などと語られる鬼女の凄みを強調した面といえるでしょう。

(齋藤 望)

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三体和歌

(さんたいわか)
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 「春夏は、たけたかくふとく
  秋冬は、からひてほそく
  恋旅は、えんにやさしく」

の文言ではじまるこの和歌巻には、建仁二年(一二〇二)三月二十日の夜、後鳥羽院(ごとばいん)が発起した歌会で詠まれた歌がしたためられています。院を含む七人が六首づつ、つまり計四十二首が歌題別に記されているのです。メンバーは、藤原良経(ふじわらのよしつね)、慈円(じえん)、藤原定家(さだいえ)、藤原家隆(いえたか)、寂連(じゃくれん)、鴨長明(かものちょうめい)と、今でもよく知られた面々で、このときの歌のうち五首が、勅撰和歌集である『新古今和歌集』に収められました。
 冒頭の文章は、春・夏の歌は「高体」、秋・冬の歌は「痩体」で、恋・旅のそれは「艶体」という様式で歌うということを示しています。これら三種の様式は「三体」と称され、風体分類のひとつとして注目されるものです。
 筆写したのは、室町時代に活躍した歌人・連歌師の牡丹花肖柏(ぼたんかしょうはく)(一四四三〜一五二七)と伝えられています。肖柏は公家の出身で、早くに出家して禅門に入り、宗祇(そうぎ)にしたがって和歌・連歌を学び、宮廷連歌の歌壇に占める位置も高く、大いに活躍しました。当時は戦乱の世でありましたが、庇護者のもとで風流な生活をおくっています。晩年には堺に移り、人々に和歌や連歌の指導をして堺の文化に大きな影響を与えました。
 本作品は、天地が二十センチほどの小品ですが、たっぷりとした墨でよどなく書かれており、堂々とした威風を感じさせます。

(高木文恵)

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御用部屋入り −大老(たいろう)の準備期間−

(ごようべやいり)
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 彦根藩主は、しばしば幕府最高の役職である「大老」職を勤めたことはよく知られていますが、その前段階ともいうべき立場があったことはあまり知られていないのではないでしょうか。
 江戸時代後期に幕府に提出した公式な井伊家の系譜書では、四代藩主井伊直興(なおおき)の元禄八年(一六九五)十一月二十八日条に、「向後表方御礼の節老中列に着座いたすべし、その上御用部屋へもまかり通り候様」にと命じられた記述があります。これは、今後、将軍が江戸城内の「表向(おもてむき)」に出て諸大名から御礼を受ける節には、直興も老中と同列に着座すること。また、老中の執務部屋である御用部屋へも入るようにとの意味です。この立場を井伊家では「御用部屋入り」と称しました。この立場にあること約二年、直興は元禄十年六月十三日に大老職を命じられました。十代直幸(なおひで)・十二代直亮(なおあき)も同様に、大老に就任する一〜二年前に「御用部屋入り」を命じられています。
 では次に、十代直幸の登城内容を記録した日記(写真)により、その行動を見ていきいます。諸大名は月に数回江戸城に登城し、将軍への対面儀礼をおこないます。対面する部屋は、「御用部屋入り」前の井伊家は諸大名と同様、一般的な儀礼空間である「表向」の部屋ですが、「御用部屋入り」すると、老中と共に将軍の執務部屋「御座之間(ござのま)」に入り対面します。この空間には一般の大名は余程のことがないと立ち入れません。ここでの対面は、将軍が次に「表向」に出るのを迎え、それに御供するためです。次に、将軍が「表向」に出て諸大名と対面する場には幕閣も列座しますが、「御用部屋入り」の井伊は老中の上座に着座します。将軍と諸大名の対面儀礼が済むと、老中は政務に就きますが、井伊のみは退出します。
 また、井伊家は常に「溜詰(たまりづめ)」という幕政顧問的な立場にあり、月に二回将軍の御機嫌を老中から伺うために登城しましたが、「御用部屋入り」を命じられると、月に四回と倍増します。つまり、「御用部屋入り」すると儀礼の場で老中と行動を共にし、より将軍に近侍するようになったといえるでしょう。ただ、大老のような役職を命じられたのではなく、「溜詰」の範疇内で、特別な行為をとるよう命じられたと言うことです。
 では、「御用部屋入り」にはどのような意味があったのでしょう。儀礼の場で老中と行動を共にすることは、後日大老に就任した際の振る舞いを身につける目的があったと考えられます。大老は、他の役職や立場のように、その行動を見習うことのできる前任者はいません。そのため、大老の職務を滞りなく果たせるよう事前に所作を習得する、いわば「準備期間」といえるのではないでしょうか。

(野田浩子)

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