2001.12.1
御用絵師(ごようえし)の描いた名所の絵
佐竹永海(さたけえいかい)筆 摺針暁景図(すりはりぎょうけいず)
中山道(なかせんどう)の鳥居本(とりいもと)宿と馬場(ばんば)宿の間の摺針峠(すりはりとうげ)は、彦根城下にほど近く、琵琶湖や内湖を見渡す眺望の見事な景勝地として知られていました。
本図は、幕末期の嘉永(かえい)元年(一八四八)、彦根藩御用絵師の佐竹永海(一八〇三〜七四)が描いた摺針峠の秋の景です。参勤交代の大名もよく立ち寄ったという本陣構えの茶店「望湖亭(ぼうこてい)」や、眼下に広がる琵琶湖、遠くに浮かぶ竹生島(ちくぶしま)も描き込まれています。
永海は、これを描いた六年前、ときの藩主井伊直亮(いいなおあき)が江戸から国元の彦根に帰るにあたり、一緒に随行したことが分かっています。その際にはこの摺針峠を通っているわけですが、本図はこれまで、実際に見た光景をもとに描かれた真景図だと考えられてきました。
しかし、どうもそうとは言い切れなくなってきました。文化二年(一八〇五)に刊行されて広く流布した「木曽名所図会」や、同じ版を使って刊行された「近江名所図会」にみる摺針峠の図は、ほとんど同一の構図なのです。
これら名所図会では、峠の景は東から捉え、琵琶湖の景は南から北を眺めたように描かれています。つまり、画としておさまりやすいように巧みにアレンジされているわけです。
永海が、これら先行の名所図絵を目にせずに全く同じアレンジをしたと考えるのは不自然です。名所図絵を構図の種本として、樹木を紅葉させるなど、多少改変をして作品を完成させたのではないでしょうか。
一方、永海の真景図の代表作として、「筥根真景図(はこねしんけいず)」が挙げられます。これは、永海自身が画中に「真景図」と記しており、実景をもとに描いた作品であることを明らかにしています。
同一絵師の名所の絵も、その成り立ちはさまざまだと実感させられます。(高木 文恵)
「松竹梅」の源流
(「しょうちくばい」のげんりゅう)松、竹、梅は、それぞれ古来より日本人に親しまれてきた吉祥(きっしょう)(おめでたい)文様でした。この三者を組み合わせたのが「松竹梅」です。
これらは何故、吉祥文様とみなされ、一つの文様として組み合わされるようになったのでしょうか。
松、竹、梅をめでたいものと考える思想は、もともと中国から伝わったものです。中国人は、この三つの植物をとりわけ神秘的な霊木(れいぼく)ととらえ、これらに人間のあるべき理想の姿を投影してきました。
常緑樹である松は、冬にあっても青々とした葉を保つことから、長寿あるいは節操(せっそう)の象徴とされました。
竹もまた、冬でも枯れることのない性質に加え、まっすぐに延びた姿から、心の清らかな人物に例えられました。
梅の場合、一見繊細な姿でありながら、厳しい寒さの中で美しい花を咲かせる強さがあります
酷寒の中でも姿を変えない松竹と、寒さに耐えて花を咲かせる梅は、「歳寒三友(さいかんさんゆう)」とよばれ、貞潔さや志の高い人物を表すモチーフだったのです。
松竹梅の源流とみられるこの「歳寒三友」の考え方は、唐物(からもの)(中国の文物)が大変流行した室町時代頃には日本に伝来し、主に禅僧など知識人の間で知られていたようです。しかしその後、松竹梅の組み合わせは、もっぱら吉祥招福の面が強調されて一般に広まっていきます。
そのさきがけといってよいのが、「蓬莱文様(ほうらいもんよう)」の松竹梅でした。
蓬莱文様とは、不老不死の仙人が住むという島、蓬莱山(ほうらいさん)の姿を文様化したもので、これもまた中国を源流とする古い吉祥文様の一つです。
鎌倉時代頃までの蓬莱文様は、山岳、松、鶴亀を描いたものが主流でした。しかし、次第に山岳が消え、竹、梅が描き加えられるようになり、最終的には、松竹梅、鶴亀、州浜(すはま)を組み合わせた「吉祥づくし」とでもいうべき文様が室町時代に生まれます。
写真は、蓬莱文様をあらわした江戸時代の鏡。「蓬莱鏡(ほうらいきょう)」と呼ばれるこうした鏡は、婚礼調度の鏡の定番でした。
江戸時代以降、松竹梅の文様は慶事において欠かせない存在となっていきます。今回のテーマ展では、そうした江戸時代の作品を中心に、松、竹、梅をモチーフにした様々な美術工芸品を紹介します。
年のはじめに、おめでたい気分を味わっていただければ幸いです。(丹羽貴之)
稲富流砲術と彦根藩
(いなどめりゅうほうじゅつとひこねはん)近世初期、稲富一夢(いなどめいちむ)が創始した砲術は稲富流と呼ばれ、後世の砲術に大きな影響を与えました。
稲富一夢は丹後一色(いっしき)氏に仕え、一色氏の滅亡後、細川忠興(ただおき)に仕えて重用されていましたが、主君出兵の留守中、忠興夫人ガラシャの自害に殉死しなかったため、主君の勘気(かんき)に触れ逃亡の身となります。
これを一時匿(かくま)ったのが、関ヶ原合戦後に佐和山城に入った井伊直政でした。直政は一夢の弟子であったとも伝えられ、一夢は慶長六年(一六〇一)当時の家臣の名を記した「分限帳(ぶんげんちょう)」にも、「稲富一夢斎」として名を連ねています。
後に、一夢は家康を頼り忠興の勘気を許され、清洲(きよす)藩主松平忠吉(ただよし)や、尾張徳川家に仕えますが、佐和山時代には、宇津木治部右衛門(うつぎじぶえもん)・沢村角右衛門(かくえもん)・齋藤半兵衛(はんべえ)ら井伊家家中に砲術を伝授しました。図は、慶長十三年九月、齋藤半兵衛・同半弥(はんや)の父子に与えられた砲術の伝授書です。
彦根藩に広がったこの砲術の技術は、大坂の陣で大活躍しました。夏陣の最終段階、豊臣秀頼(ひでより)・淀君(よどぎみ)らが立て籠もる大坂城を彦根藩が砲撃し、彼らを自害に追い詰めたのです。
彦根藩の歴史にとって、稲富流砲術の獲得は大きな意味を持っていたのです。(母利美和)
幕末彦根藩代官 佐藤孫右衛門の上申書
(ばくまつひこねはんだいかん さとうまごえもんのじょうしんしょ)幕末期の嘉永(かえい)年間(一八四八〜五四)の末頃、一人の彦根藩士が、長文の上申書を認(したた)め、藩主井伊直弼(なおすけ)の側近へ提出しました。藩士の名は佐藤孫右衛門。当時、彼は藩領北部の農民支配にあたる北筋代官役(きたすじだいかんやく)を勤めていました。他の代官たちが長くとも五年くらいで交替するなか二十年余り代官役の職にあり、また、元方勘定奉行(もとかたかんじょうぶぎょう)も勤め、窮乏する藩財政資金調達に実績を残すなど、当時の藩の運営に欠かすことのできない人物でした。
上申書では、(1)嘉永四年(一八五一)の制度改正以降、筋奉行(すじぶぎょう)の筋方役所と代官役所の仕事内容が入り組み混乱しているので整理してほしいこと、(2)筋方・代官方の下役人については、一代限りで目先の事情しか考えられない者ではなく、親から子へ世襲で長期に勤める者が必要であること。(3)下役人への監督を強化すること、(4)代官役所が筋方の配下のように扱われがちであること、などが詳細に述べられています(写真)。
嘉永四年の制度改正とは、筋方の職務が多く忙しいため、村方からの公事(くじ)訴訟の吟味(取り調べ)や願いの受理など従来筋方役所が行ってきた職務を、代官役所の仕事に変更するものでした。ところが、改正後、仕事の分掌をめぐり、筋方と代官方が不和になるという事態がおこりました。佐藤の上申書は、この状況を打開するために作成されたものでした。
当時の藩の内目付(うちめつけ)による調査では、この筋方と代官方との関係悪化の原因は、筋方役所の元締と呼ばれる下役人たちの動きにあるといいます。元締は足軽が勤め、筋奉行が交替しても続けて勤める役職で、公事訴訟の取り調べなど実際の業務は彼らが行っていました。内目付によれば、元締の中には訴訟当事者から金銀を受け取り便宜をはかる不正を行う者がおり、その者たちが筋方役所の公事訴訟・願受理などの職務がなくなり利権を失うことがないように、筋奉行に働きかけたり、代官方の取り調べの邪魔をしているとしています。
内目付は、佐藤のことを、性格は根気強く、交渉時には相手の主張を角立てず幾度も押し返し、自分の主張の基本線を決して譲らない「ぢりぢり押しの風(ふう)」の人物であると評しています。この上申書には、当時の彦根藩の農民支配制度が抱えていた課題とともに、根気強く支配制度の改革を進めようとする佐藤の姿勢がよくあらわされています。(渡辺 恒一)
*この史料は常設展示「古文書が語る世界」で十二月二十三日から一月二十八日まで展示。