彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 56

2002.3.1


button 理想郷を色鮮やかに飾る -七宝荒磯花文水指
button テーマ展  「大口と半切−井伊家伝来能装束から−」より  竜田川
button テーマ展 「井伊家伝来の茶道具−炭道具−」より 茶の湯の名脇役
button 大奥女中の井伊家来訪−若君様の御成とともに−


理想郷を色鮮やかに飾る -七宝荒磯花文水指

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 胴部に,波間に躍る魚の荒磯文と花文を交互に描いた七宝製の水指。中国は明[みん]時代の作品です。彼の地で鉢として制作されたものを日本に輸入し、塗蓋を添えて茶道具の水指に見立てています。彦根藩主井伊家に伝来した茶道具の中で、ひときわ鮮やかに異彩を放つ作品です。
 七宝焼は銅や真鍮[しんちゅう]など金属製の器胎[きたい]の表面にガラス質の釉薬を着け、窯で焼き付けて研磨したものです。色鮮やかな釉薬は、ガラス質に赤であれば酸化鉄、青ならば酸化銅といった酸化物を混入することによって多彩な七宝釉を得ることができます。
 七宝釉を施す際に、釉薬が混ざり合わないように個々の色ごとに区画をする必要がありますが、細い金属紐で縁取って釉薬を詰める手法を有線[ゆうせん]七宝と言います。今回紹介した水指は、その有線七宝の手法で制作されたものであり、金属紐は器胎と同じ真鍮が用いられています。
 七宝製品は、中世にはもっぱら中国からの輸入、つまり唐物に依存していました。本例のような製品が、日本人の求めに応じて幾つとなくわが国にもたらされました。これらを今日のように七宝と呼ぶようになるのも、実はこの頃のことです。
 その淵源[えんげん]は仏教の経典にありました。経典では、極楽浄土の世界を荘厳[そうごん]する珠宝として七宝の語が用いられました。七宝は本来、理想郷を色鮮やかに飾るものであったのです。当時の人々は、自国にはない鮮麗な輝きを発するこの種の製品に憧れをいだき、それがつのって、もともと架空であるはずの七宝の名を与えることになったのでしょう。言い得て妙、この命名に優るものはありません。

(谷口 徹)

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テーマ展

「大口と半切−井伊家伝来能装束から−」より 竜田川

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 絵文字が流行しています。
 例えば「 (^o^) 」。この種の顔の表情だけでも、喜怒哀楽をあらわす多くの種類があります。決まった読み方はないようで、単純な図形の組み合わせで気持ちを伝えようとするものです。
 近年になって突如始まったブームのように思うかも知れませんが、本質的には極めて伝統的な流れに乗った現象です。
 類例を探すと、江戸時代に流行した「絵暦」や「判じ絵」などがすぐに思い浮かびます。さらに広く日本の美術を見渡してみると、これと同じことが、連綿と行われてきたことがわかります。
 一例をあげると、紅葉はもちろん秋の景物ですが、これが流水に楓葉となると、がぜん意味するところが限定されてきます。
 竜田河紅葉[もみじ]乱れて流るめり渡らば錦中[にしきなか]やたえなむ (竜田川は紅葉が乱れ流れているように見える。渡るならば、この紅葉の錦が中途で断ち切れてしまうだろうかなあ)
 かつての日本人ならば、『古今集』[こきんしゅう]のよみ人知らずのこの歌が、即座に思い浮かぶのでした。流水に楓葉といえば、奈良の竜田川と決まっていたのです。
 形に意味が込められ、その背後に豊穣な文学的な世界が広がっています。
 さて、ここに掲げたのは能装束の文大口[もんおおくち]。大口は大口袴の略。普通は無地で、色目は白大口、緋[ひ]大口から、その他の色大口までとさまざま。そのなかで文様を織りだした大口を特に「文大口」と呼びます。
 白地に金糸で逆巻く水の流れををあらわし、上には飛沫が飛びます。ここに色糸で楓の葉。まさに竜田川の色鮮やかな豪奢さです。
 ところで文大口は、平家の公達[きんだち]の役に多く着用します。なぜ王朝の貴公子に竜田川なのでしょうか。
 竜田川の紅葉をモチーフにしたこんな歌もあります。
 ちはやぶる神世[かみよ]も聞かずたつた(竜田)河から(韓)紅[くれない]に水くくるとは(神々のみ世でも、その事があったと聞いていない。竜田川が深い紅色に水をくくりそめるとは…)
 同じ『古今集』の在原業平[ありわらのなりひら]のこの歌から想起されるのは、深紅の水、すなわち紅い血が水のように流れるさまです。
 楓葉に籠められたイメージの重層性。平家の栄華…ゆく川の流れ…転落…合戦…死。文様が我われに語りかけてくるものは、けっして絵文字のように単純ではありません。
(和歌の大意は、新日本古典文学大系本による)

(齋藤 望)

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テーマ展

「井伊家伝来の茶道具−炭道具−」より 茶の湯の名脇役

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 茶の湯の世界において、炉や風炉に炭を組み入れる際の作法を炭手前と言い、そこで用いる道具一式を炭道具と称します。
 炭道具は、炭斗[すみとり]・羽箒[はぼうき]・火箸[ひばし]・鐶[かん]・釜敷[かましき]・灰器[はいき]・灰匙[はいさじ]など多彩な道具で構成されています。火箸以外はあまり聞きなれないものばかり。しかし、一見すれば、名前は知らなくとも用途を推測できるものがあります。近年まで、私たちの身の回りで使われてきたものが、かなりあるからです。
 もちろん一つ一つをよく見ると、やはり違っています。いずれも吟味された素材を用いて、たいへん丁寧にセンス良く仕上がっているのです。はるばる中国から請来した唐物[からもの]と称される作品も少なくありません。
 炭道具は茶道具の中では脇役。茶会で脚光を浴びることはあまりありません。色彩的にも地味なものが主体です。しかし、それでいてキラリと光る優品が潜んでいるものです。まるで映画やドラマの名脇役のように。名脇役の存在によって茶会は重厚味を帯び、主役がますます引き立つのです。今回のテーマ展では、こうした名脇役を数多く紹介します。

 

(谷口 徹)

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大奥女中の井伊家来訪−若君様の御成とともに−

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 彦根藩主井伊家は、幕府の公式な行事で大奥の女中たちの訪問を受けた珍しい家です。それは、将軍家の跡継ぎである若君が、生後まもなく徳川家の産土神[うぶすながみ]である日吉山王[ひえさんのう]社に御宮参りに出かけ、その帰りに外桜田[そとさくらだ] にある井伊家の江戸上屋敷に立ち寄った際のことでした。
 井伊家への若君御成は、寛永十九年(一六四二)、将軍徳川家光[いえみつ]の嫡子竹千代(のちの四代将軍家綱[いえつな])が生まれて約半年後に行った御宮参りの際、戻り道にある井伊直孝[なおたか]の屋敷に立ち寄り休息したのを初例とします。以後、御宮参りをした若君は皆その帰りに井伊家に立ち寄りました。譜代[ふだい]大名筆頭である井伊家では、これを重要な御用として、居室や調度の設営、若君や御供衆への食事の用意、祝儀品の献上など万全の準備を調えて若君の御成を待ちました。
 若君は江戸城大奥で女中により育てられていました。大奥女中には、筆頭の「老女」[ろうじょ]、外交役「表使」、書記官「右筆」[ゆうひつ]などの役職があり、若君には専任の「抱守[だきもり]」もいました。そのため、若君の御宮参りは大奥にとっても特別な行事で、女中が多数同行しました。井伊家には、先に来て準備する者、若君に同行する者など約四〇人の女中が訪問しました。
 文政十二年(一八二九)九月の若君(のちの十三代将軍家定[いえさだ])御成[おなり]では、井伊家の女性では藩主井伊直亮[なおあき]正室・前藩主直中[なおなか]正室・故井伊直富[なおとみ](元世子)の正室守真院[しゅしんいん]や、他家へ嫁いだ井伊家の娘六人が若君に対面しました。若君が丈夫に成長している様子を拝見し、祝儀の品を贈りました。
 対面するにあたり、事前に到着していた大奥女中から所作の指導を受けました。対面の場での座席が両者の関係を象徴するため、どこに座るかは重視されました。また、初めて会った女性たちは、挨拶や自己紹介をして、若君との対面までの時間に親しく会話をしていたようです。
 若君の帰還後も、無事に御成が済んだことを喜び、若君へ御目見[おめみえ]できた御礼を述べるなど、井伊家奥向と大奥女中との書状のやりとりが続きます。写真は、将軍正室「御台[みだい]様」から、御成が無事済んだことを祝う品を下されることを伝える大奥老女から守真院への書状で、「散らし書」と呼ばれる特有の文字配列で書かれています。
 さらに、この対面を契機として、以後、年始の祝儀や暑中・寒中の御機嫌伺いの書状を大奥老女と交わすことも認められました。
 これは、若君の御成という井伊家特有の役割から派生して、大名家の奥向が大奥と交友できる特権を獲得したと考えることができるでしょう。

(野田 浩子)

 

 

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