2002.6.1
| 政則会心の一作──脇指 赤松政則作 | |
| |
|
| 直弼の茶の湯観 |
政則[まさのり]会心の一作─脇指[わきざし] 赤松政則[あかまつまさのり]作
彦根城博物館にある刀剣の中で一番の変わり種はどれか? もし、そんな質問があったなら、まっさきにこの作品をあげたいと思います。
この刀は専門の刀工による作ではありません。茎[なかご]に刻まれた銘文によれば、播磨[はりま]、備前[びぜん]、美作[みまさか]三国の守護大名であった、赤松政則(一四五五〜一四九六)が作ったものです。
武将自らが刀を打ったのも興味深いことですが、さらに銘文には、この刀は長船宗光[おさふねむねみつ]のために作るとあります。
宗光は、兄の勝光[かつみつ]とともに、室町時代後期の長船派を代表する刀工の一人です。
彼は、文明[ぶんめい]十五年(一四八三)の合戦には政則方として戦いに参加するなど、ひとりの刀工という以上に赤松家のために尽くしました。また、作刀においては政則の師であり、協力者であったという説もあります。
さて、現在残る政則作の刀は、ほとんどが家臣に与えたものです。
この作品、政則の作としては初期のもので、かなりの出来映えを示します。会心の一作として、宗光に対する感謝の気持ちを籠[こ]めて贈ったとみることもできるでしょう。
この刀は、政則と宗光の関係を窺[うかが]わせる貴重な資料なのです。
(丹羽貴之)
「長浜・大通寺[だいつうじ]の精華 ‐井伊家から大通寺へ‐」より 井伊家と大通寺
![]()
大通寺は江戸時代初期に長浜に建立された、浄土真宗大谷派の寺院です。湖北一円の真宗門徒や長浜町人など地域の幅広い層から信仰を集め、今日でも「御坊[ごぼう]さん」と親しみを込めて呼ばれています。
当館では、平成十年度から、市立長浜城歴史博物館・滋賀県立近代美術館とともに、大通寺の文化財調査を実施し、多くの成果を得ることができました。今回のテーマ展はその成果の一端を広くみなさんにご紹介しようとするものです。
彦根藩主井伊家と大通寺は、江戸時代を通じて深い関係を維持しました。両者の関係は、元和[げんな]五年(一六一九)に二代井伊直孝[なおたか]が、加増によって長浜の地を領したことに始まります。慶安[けいあん]二年(一六四六)には、開基宣如上人[せんにょしょうにん]の懇望[こんもう]により、直孝が寺領を寄進して現在地に移転しました。以後、三代直澄[なおずみ]により加増され、大通寺の寺領は四十三石余となります。
井伊家と大通寺の関係は、こうした寺領の寄進にとどまりませんでした。そもそも大通寺は、本山宣如上人の息男宣澄[せんちょう](霊瑞院)が入寺して初代となって以来、代々が本山門主[もんしゅ]の直弟が住職となる連枝[れんし]寺院でした。こうした高い寺格は、やがて井伊家の息女や息男を迎えることにもなりました。
その最初は、元文[げんぶん]五年(一七四〇)、七代直惟[なおのぶ]の八女嘉寿[かず](数・門信院)が大通寺五世横超院[おうちょういん]の内室となります。この時には、現在重要文化財となっている広間の附玄関が、井伊家から寄進されています。次いで八代直幸の七女静[しず](智光院)が、明和[めいわ]五年(一七七〇)に大通寺の養女となり、のちに横超院の子超倫院[ちょうりんいん]の内室となります。また、直幸の九男遍勝[へんしょう]も天明六年(一七八六)に横超院の婿養子に迎えられ、横超院の女美江子を妻として六世明達院となりました。婿養子となった際には、新御座[しんござ]という書院が井伊家から寄進されました。
十三代井伊直弼[なおすけ]と大通寺は特に深い関係にありました。直弼がいまだ埋木舎[うもれぎのや]で不遇な日々を送っていた天保[てんぽう]十三年(一八四二)、大通寺の住職が空席となったため、直弼を養子に迎えようという話しが具体化します。直弼もこの依頼に決心を固めていたようですが、結局は本山の門主の子が若年ながら住職の座につくことで、直弼の養子依頼は頓挫[とんざ]してしまいました。
その後、直弼の埋木舎時代晩年に生まれた二女弥千代[やちよ]、藩主時代の七女砂千代[さちよ](霊泉院)が、ともに大通寺の養女となっており、砂千代はのちに大通寺十世霊寿院[れいじゅいん]の内室となります。今回のテーマ展では、井伊家から大通寺に迎えられた人々が残した品々を紹介しますが、そのほとんどが砂千代の調度で占められています。
(谷口 徹)
「越前出目[えちぜんでめ]家―井伊家伝来能面から―」より 鉋目[かんなめ]
![]()
古い能面には、しばしば作者が誰であるかを知らせるサインが、隠されているとされます。
「小獅子[こじし]」の面裏の鼻のところを見ると、上部に縦十条、下にも三条の、いかにも作為的な彫り込みが認められます。
これが「鉋目」、あるいは「知らせ鉋」「細工印」などと呼ばれるもので、作者固有のしるしだというのです。
江戸時代中期の喜多流の太夫、喜多古能[きたこのう](一七四二〜一八二九)の著した「面目利書[めんめききしょ]」の越前出目家初代満照[みつてる]の条には、鼻の上に竪[たて]に鉋目あり、細工印ありとみえ、これに従えば、この面は満照作ということになります。
面自体は、室町末から桃山頃の制作と見られ、優れた作行きを示しますから、年代的に矛盾はないのですが、鉋目を根拠に満照作と断定してよいかどうかは、難しいところです。
というのは、そもそも、この鼻の上の縦の鉋目を使った能面作者が、一人だけなのかどうかといった根本的な疑問からして、解明されていないのが現状だからです。
さらに、古面の写しを作るとき、面裏までも克明に模すこともあるので、問題はいっそう複雑です。
古能の説は当時の伝承を書き留めたものです。それはそれとして、学問的な観点から、同様の作例を集めて、慎重に比較検討してみる必要があります。
(齋藤 望)
直弼[なおすけ]の茶の湯観
![]()
「一期一会[いちごいちえ]」、この言葉、昨今よく使われるようになりました。この世の最期になるかも知れないから、今日の出会いを大事にしよう」などと、理解される向きもあります。
この言葉は、井伊直弼の茶の湯の精神をあらわすものとして知られていますが、直弼独自の言葉ではありません。利休[りきゅう]の門弟が記した「山上宗二記[やまのうえそうじき]」に「一期に一度の会」とすでにみえています。
しかし、この言葉の次元を一段と高めたのは直弼です。
直弼は、安政[あんせい]四年(一八五七)秋頃に著した「茶湯一会集」の序文でこの言葉を用い、標題にも「一会集」と象徴的に用いています。草稿段階では、「一期一篇」の言葉を用い、最終的に、「一期一会」と書き換えたのです。
「一会集」の序文に直弼はこう記しています。「たとえ同じ顔ぶれで何回となく茶会を開いたとしても、今日のこの会はふたたび繰り返すことはない。それはわが一世一度の会である」と。
これは、たんに明日の命は保証されないから一生涯に一度という意味ではなく、茶会は主人も客も、それぞれ心を尽くしあう場であり、主客心の通う瞬間は、二度と帰らないことを思えば、つねに一期(生涯)に一会の場と思うべきであるという、直弼独自の境涯を示しているのです。
「一会集」を著す十二年前、弘化[こうか]二年(一八四五)に、直弼は「入門記」を著して一派創立を宣言しました。その末文で、当時の茶の湯が快楽として求める奢侈や道具への執着を否定し、水を汲み、塵を払い、稽古を重ねることこそが茶の湯であり、それを「修行の常体」と表現しています。
修行は修行そのものが目的であり、他の世俗の目的をもつものではなく、茶の湯が家業や諸芸の助けとなることはあっても、それ自体が目的となっては「喫茶之道」「茶之一道」は立ちがたいとも記しています。直弼が天保[てんぽう]七年(一八三六)頃に著した茶論書「栂尾[とがのお]みちふみ」では、まだ茶の湯は諸業の助けになることを強調し、茶の湯の効用を述べるのみでしたが、茶の湯の独立した思想としての確立を目指したのでした。
「入門記」に記した直弼の茶の湯の理想像は、そのまま自分自身に課した言葉でもあったのでしょう。直弼は終生、茶の湯求道から離れることはありませんでした。
その結果、たどり着いたのが「一期一会」の境地でした。
安政七年(一八六〇)三月三日、直弼は桜田の春雪を赤く染めて、その一期を終えます。「一会集」完成のわずか三年後でした。直弼にとって、茶の湯とは生涯をかけた修養の道であったのでしょう。(母利美和)