2002.9.1
| 洲浜と雁 ―箏の装飾― | |
| 伝統と革新 ―京都画壇の華 狩野永岳― | |
| 「彦根と鳥居本・高宮―城下町の玄関口―」より 鳥居本宿の成立年代 | |
| 近江商人田付新介の来迎川通船計画〉 |
洲浜[すはま]と雁[かり] ―箏[そう]の装飾―
雅楽の楽器には、花鳥丸[かちょうまる]とか宝珠丸[ほうじゅまる]、葛城丸[かつらぎまる]などの銘のつけられたものがあります。語尾に「丸」のつくこれらの名は、例えば太郎丸、次郎丸というように、かつては成人に達する前の童子の名前でした。
なぜ楽器に童名なのでしょうか。
楽器は、妙なる音を発するとき、この世と聖なる世界とを結ぶ媒体となると考えられていました。童子もまた、他界に通ずる聖なる存在に他なりません。楽器に童名がつけられた理由はここにあります。
楽器の名所[などころ]や、そこに施される装飾の文様にも、楽器が備えていた聖性が感じられます。
箏は全体の姿が竜に見立てられ、笙[しょう]は羽を休めた鳳凰[ほうおう]になぞらえて鳳笙[ほうしょう]と呼ばれました。また竜笛[りゅうてき]の音は竜の鳴き声をうつしたのだとされます。
観念の上で、楽器は竜や鳳凰などの霊獣と深い結びつきがあったのです。
さらに文様です。ここに掲げた穐山[あきやま]の銘のある箏は、鎌倉時代の制作。装飾は江戸時代のものですが、箏に典型的な文様が施されます。
主文様は、洲浜と雁です。洲浜とは、なだらかな出入りのある浜辺をかたどった飾り物で、本来は神霊の宿る依代[よりしろ]として、饗宴や祭礼に用いられました。
これを文様化したのが輪を三つ重ねた形の洲浜文です。一方、雁は、仙境と現世とを往復する霊鳥とされていました。
この箏を弾くとき、洲浜を依代として神が宿り、雁に象徴される不老長生の楽を、神韻たる音色で奏でるという意味が籠められているのでしょう。
箏に多用されるこの二種の文様は、楽器の本質を端的にあらわしているように思われてならないのです。(齋藤 望)
平成14年度企画展
伝統と革新 ―京都画壇の華[はな] 狩野永岳[かのうえいがく]―
10月26日(土)▼11月25日(月)
期間中無休
爾雅釈草図(部分)
関西大学図書館
桜図のうち右隻 個人
雛図 個人
雲龍図 京都市歴史資料館
井伊直弼像 清凉寺
封侯図陣羽織
市立長浜城歴史博物館
燐華院客殿障壁画のうち
西壁雅集図 燐華院 舞楽図(部分) 四天王寺
松島・天橋立図
のうち左隻 個人
青緑山水図 敦賀市立博物館
桃山時代から続く京狩野[きょうがのう]家第九代の狩野永岳[かのうえいがく](一七九〇〜一八六七)は、幕末の京都で活躍した絵師です。江戸の狩野派が、最大の権力者である江戸幕府の御用をつとめて大きな力を持ち続けた一方、京狩野家は、初代山楽[さんらく]や二代山雪[さんせつ]が活躍した後は特筆すべき活躍の場がないまま江戸時代後期を迎え、再び隆盛を誇る機会を永岳の登場まで待ち続けることになります。卓越した画力を備えた永岳は、幕末の京都画壇の雄としてその名を知らしめました。
近代以降、狩野派は一般に、新味に欠けるものとして一括りに解されてきました。しかし永岳の画には近代の感覚そのものを見ることができます。これは、時代の空気を敏感に感じ取り、他派の画風を積極的に採り入れたためです。永岳は、遠く桃山、さらに遡って室町期の画風までをも取り込み、端正な中にも強烈な個性を表出して独自のスタイルを確立しました。
近年、十九世紀の画壇を見直す動きが高まりを見せていますが、永岳は再評価すべき対象の筆頭として注目されています。
この展覧会は、約百点の作品を展示し、狩野永岳の画業の全貌をはじめて明らかにしようとするものです。
□ 展示の構成
(1) 禁門絵師―朝廷とのつながり―
江戸時代後期、京狩野家は、土佐[とさ]家、鶴沢[つるさわ]家とともに、禁裏[きんり](朝廷)の御用をつとめる由緒ある家でした。御所の障壁画制作では、在京の多くの絵師が参加しましたが、その中で永岳は、格の高い重要な間[ま]で腕を振るっています。
禁裏の御用は多様で、儀式で使う屏風絵制作や天皇所用の太刀拵[たちごしらえ]の下絵制作、扇に絵を描いて定期的に納める御用などがあります。
(2) 名門・京狩野家の復興―山楽への回帰―
京狩野家の祖山楽は、永徳[えいとく]の弟子となって頭角を現し、豊臣秀吉[とよとみひでよし]に重用されました。永岳は、山楽の末裔[まつえい]であることに強い自負を持ち、桃山風の絢爛豪華[けんらんごうか]な金地極彩色の作品を多く制作、箱書で「山楽九世孫」と高らかにうたっています。祖先に立ち返るという発想はいつの時代にも見られることですが、特に江戸時代後期は幕藩体制が大きく揺らぎ、自らの存在を確認する動きが高まりを見せていました。
(3) 九条家と公家
一時期途絶えたものの、京狩野家は代々、摂関家[せっかんけ]である九条[くじょう]家に仕えていました。朝廷や関係寺院に大きな影響力をもつ九条家であってみれば、永岳の仕事の幅も広がったと推測されます。また、九条尚忠[ひさただ]の江戸下向の際には随行して富士を実見する機会を得、〃富士百幅〃を制作しています。
(4) 受容層のひろがり
@ 彦根井伊家と紀州徳川家
A 妙心寺と大寺院
B 富商の晴舞台
永岳は、まさに八面六臂[はちめんろっぴ]の活躍をしました。禁裏と九条家のみならず、東本願寺[ひがしほんがんじ]や妙心寺[みょうしんじ]、大徳寺[だいとくじ]などの大寺院、大名家である彦根井伊[いい]家と紀州徳川[とくがわ]家の御用もつとめています。そして、注目すべきは、権力をもつ層だけでなく、富裕商人も永岳作品を積極的に求めたということです。京の富商は勿論、遠く飛騨[ひだ]の高山地方には有力なパトロンが存在し、贅[ぜい]を尽くした作品の注文がなされました。
(5) 画風の展開―十九世紀の京都画壇―
@ 幕末の復古思想
A 多彩な画風―四条派、南蘋派、そして諸派―
B 水墨への傾倒と文人意識
C 寄合書-画壇での地位と評判-
十九世紀の京都画壇は、様々な画派がひしめき、百花繚乱[ひゃっかりょうらん]の様を呈していました。
その中で永岳は、桃山以来の京狩野家の画風を守りながらも、直線を幾重にも重ねる鮮烈な独自の画風を確立、当時流行していた四条[しじょう]派や南蘋[なんぴん]派をはじめとする諸派の画風を巧みに採り入れ、自家薬籠[じかやくろう]中のものとしています。特に水墨画は多様な広がりを見せ、永岳作品の中で一つのジャンルを成しています。
当時の画壇の一潮流として、日本古来の大和絵[やまとえ]をもとにした復古大和絵が盛んに描かれていました。特に名の知られた冷泉為恭[れいぜいためちか]は永岳の甥[おい]にあたりますが、永岳自身も復古的な画を手がけています。□ おもな展示作品
*京都御所小御所障壁画のうち 嵐に落葉図 広沢池図 雪松竹図(宮内庁京都事務所)*二条城本丸御殿障壁画のうち 松に鶴図(元離宮二条城事務所)*熊・鷹図(泉涌寺)*白鳳・白雉図(東寺)*孝明天皇所用紫檀地花鳥文蒔絵螺鈿太刀拵(東京国立博物館)*富士三保松原図(妙心寺天球院)*桜図(個人)*舞楽図(本願寺別院善徳寺)*井伊直弼像(清凉寺)*彦根城琵琶湖眺望図(来迎寺)*近江八景図敷瓦(本館)*隣華院客殿障壁画のうち 西園雅集図(妙心寺隣華院)*真峰宗正像(大徳寺高桐院)*大通寺書院新御座障壁画のうち 琴棋書画図(本願寺別院大通寺)*老松尉姥図(祇園祭岩戸山保存会)*鳳凰山図楽屋襖 楽太鼓図(長浜曳山鳳凰山山組)*鍾馗図(個人)*親鸞聖人稲田興法の図(個人)*舞楽図(四天王寺)*三十六歌仙歌意図(静岡県立美術館)*義経像(個人)*四季耕作図(個人)*扇面散図(本館)*林和靖・陶淵明図(二尊院)*青緑山水図(敦賀市立博物館)*柿本人麻呂像(個人)*日月山水図(島根県立美術館)*雲龍図(浄住寺)*七賢図(個人)*群亀図(京都国立博物館)*古方薬品考(京都大学附属図書館)
※期間中、大幅な展示替があります。
近江中山道四〇〇年記念展
「彦根と鳥居本・高宮―城下町の玄関口―」より
鳥居本宿の成立年代
関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康が中山道[なかせんどう]を制定して、今年で四〇〇年を迎えます。そこで、彦根市域の宿場について改めて調べてみると、鳥居本[とりいもと]宿の成立に関する興味深い史料が確認されました(写真)。
鳥居本宿は、彦根の東方、佐和山[さわやま]の東麓にある中山道の宿場です。宿の南端では彦根城下を通った「朝鮮人街道」が中山道に合流し、宿を北側に出ると程なく北国街道と分かれており、「分岐点の宿」という性格があるでしょう。
戦国時代には約1q南の小野に宿が置かれ、鳥居本は佐和山城から東山道へ出る集落として城下町の一端を担っていました。江戸時代に小野の宿駅機能が鳥居本に移されましたが、その年代はこれまで、慶長七年(一六〇二)に小野に宛てて伝馬定書が出されていることや、宿内の専宗寺の由緒書により、寛永年間(一六二四〜一六四四)と考えられてきました。
ところが、この史料によると慶長五年(一六〇〇)に小野宿で本陣を勤めた庄兵衛が、慶長八年に彦根地割を行うために江戸より来た家康家臣の命により、小野宿の代わりに新たに鳥居本を宿にするよう仰せ付けられたとあります。さらに元和九年(一六二三)からは庄兵衛はじめ六名が問屋を交替で勤めたということです。
この史料は鳥居本宿の問屋場の年寄を勤めた家に伝わったもので、末尾の記載によると、本陣の庄兵衛が「御尋ね」に答えるために享保一二年(一七二七)に作成した書類を写したということです。彦根藩もしくは幕府からの「御尋ね」への回答という公的な書類と思われ、約百年後の記録ということからも、その内容はある程度信用できるものでしょう。
では、この内容を当時のこの周辺の状況とあわせて考えてみます。関ヶ原戦後、佐和山城主となった井伊家では新たな城を造営する計画を立てていました。慶長八年二月、井伊家の家老木俣守勝[きまたもりかつ]が家康の許に行き、図面を示して候補地の中から彦根山に築城すると決定しました。実際の工事は慶長九年七月から約二年間をかけて縄張りや天守が築かれ、大坂夏の陣後の元和元年(一六一五)に再開された工事により、元和八年頃までに城内の石垣や門、城下町の町割りがほぼ完成しました。
この年代と鳥居本宿の成立を比較してみると、計画の決定・完成時期ともにほぼ同時期です。彦根築城の決定にあたっては、城郭の位置を決めるのはもちろんですが、ある記録によると、家康の御前で彦根築城が決定した際に、彦根から中山道にいたる道筋も確定したとあります。
鳥居本宿は、朝鮮人街道・北国街道が中山道と分岐する宿ですが、これは幕府による交通網整備の一環として、彦根築城とともに計画されたといえるのではないでしょうか。
(野田浩子)
テーマ展5「井伊家伝来の馬具―拝領の鞍[くら]―」より
馬とともに贈られた鞍
本館に所蔵されている鞍[くら]は、いずれも彦根藩主井伊家に伝来した品です。その多くは、藩主の使用したもので、井伊家の家紋である橘[たちばな]紋が施されています。
しかし、写真の鞍をご覧下さい。徳川家の家紋としてよく知られている葵[あおい]の紋が蒔絵[まきえ]されています。現在本館には、こうした葵紋の鞍が、八背現存しています。
実は、これらの鞍、いずれも井伊家が、徳川将軍家より拝領した(贈られた)ものなのです。
その中でも、この鞍は特に優れた出来ばえを示しています。まず目を引くのが、鮮やかな金銀の高蒔絵[たかまきえ]であらわされた大輪の菊の文様でしょう。居木[いぎ]裏の刻銘から、幕府御用鞍打師であった辻山城守政也[つじやましろかみまさや]の作とわかります。
さて、この鞍は、馬とともに贈られたものと考えられています。この鞍には鐙[あぶみ]の他、轡[くつわ] 、障泥[あおり]といった馬具が一緒に伝わっているからです。
優れた名馬は、古来より武家にとって重要な贈答品とみなされていました。そうした馬を相手に贈る際には、必ず鞍をはじめとする馬具一式をつけるのがならわしとされていました。
生き物である馬は、年月が経てば死んでしまいます。しかし、この鞍と付属の馬具は、贈られた馬が死んでしまった後も、井伊家と将軍家との関係を示す証として、大切に伝えられてきたのでしょう。
(丹羽貴之)
〈近江商人[おうみしょうにん]田付新介[たずけしんすけ]の来迎川通船計画[らいごうがわつうせんけいかく]〉
近江商人は、東北・関東地方と上方の間など、遠隔地取引をおこなった近江国出身の商人です。江戸・京や取引先などに店を設けつつも、出身の在所に本拠を構え、経営をおこなった点が特徴のひとつだとされます。ところが、彼らが在所やその周辺地域で果たした役割や、及ぼした影響力ついては、まだ十分に解明されていません。
ここでは、近江国愛知[えち]郡柳川村(現彦根市柳川町)の近江商人田付新介[たずけしんすけ]に関する一つの事例を紹介します。田付は、北海道との交易をてがけ活躍した商人です。
安政六年(一八五九)十二月、彦根藩は、藩領内の来迎川[らいごうがわ]を通船路とする命令を、この川を農業用水として利用する村々へ通達しました。来迎川は、現在の愛知川[えちがわ]町から彦根市南部の稲枝[いなえ]地区を流れ、琵琶湖にそそぐ川です。
『稲枝の歴史』(寺田所平著)では、冬の期間だけの通船であったが、船を通すための川浚いで村々が苦労したこと、また来迎川の琵琶湖河口に位置する柳川村の田付新介が、通行船の権利を持っていたことが紹介されています。
ところが、「四十九町代官家文書[しじゅうくまちだいかんけもんじょ]」(彦根城博物館蔵)の史料から、じつはこの来迎川通船は、田付が藩へ働きかけた結果実施されたものだったことがわかりました。
安政六年三月から半年あまり、田付は江戸にいました。当時、北海道の漁業請負場[うけおいば]をめぐって生じていた問題を藩主井伊直弼[いいなおすけ]にたよって解決するためでした。田付が江戸から親戚であった彦根城下の町人宮田四郎兵衛[みやたしろうべえ]へあてた書状には、漁業請負場の問題と一緒に、来迎川通船に関して彦根藩公用人宇津木六之丞[うつぎろくのじょう]と交渉していることが記されています。
この時の趣意書によれば、田付の計画は、蒲生[がもう]・神崎[かんざき]・愛知郡から大津に出る荷物を来迎川経由で運ぼうとするものでした。当時、他領であった湖岸の常楽寺[じょうらくじ]村(現安土町)から、多くの大津行き荷物が出荷されていました。
すなわち、田付は、来迎川という新ル―トにより、藩領南部地域から大津(上方)方面への荷物を運ぶことを企て、藩中枢部へ働きかけていたのです。
田付はこの企てを内密に進めましたが、在所の柳川村の庄屋とは連絡をとっていました。自分の利益だけでなく、在所の利益も考えての行動でもあったことがわかります。また、藩領南部地域の物資輸送にかかる負担を軽減するものでした。しかしその一方で、来迎川周辺の村々には、新たな負担を生じさせることになったことも見落としてはなりません。
(渡辺 恒一)