2002.12.1
| 江戸時代の異国趣味 ―朱漆塗磯草文刀拵― | |
| 常設展示「古文書が語る世界」から 将軍と大名をつなぐ老中奉書 |
江戸時代の異国趣味
―朱漆塗磯草文刀拵[しゅうるしぬりいそくさもんかたなごしらえ]―
この拵は、金具を一見しただけでも何やら普通ではない趣があります。
奇妙な形をした龍に唐草[からくさ]透[すかし]の金具、柄[つか]をおおう桐に鳳凰[ほうおう]文様の鉄板、「摺[す]りはがし」という技法によって鍍金[めっき]された金銀──いわゆる南蛮風の意匠ですが、どこの国ともつかない無国籍な印象。
本館蔵『腰物槍長刀類拵書帳』によれば、この刀拵には本来脇指[わきざし]拵[ごしらえ]がつき、大小の拵とも、ほとんどの金具が埋忠就受[うめただなりしげ]・就門[なりかど]といった江戸時代後期に江戸で活躍した江戸埋忠派の工人達によって作られたことがわかります。就受・就門はこうした作風を得意としていました。
異国風のデザインといえば、桃山時代から江戸時代初期にかけて、南蛮趣味が流行したのはよく知られています。
しかし、実は鎖国の後も江戸時代を通じて、こうしたデザインには根強い人気があったのです。この拵に見られる金具は、そのことをよく物語っています。
(丹羽貴之)
テーマ展9 人権学習シリーズF 「異文化の出会い」より
雨森芳洲[あめのもりほうしゅう]に学ぶ国際感覚
日本列島と朝鮮半島、この対馬[つしま]海峡を隔てた両地域の関係は、古代以来、連綿と続いてきました。
しかし、必ずしも良好な関係が続いたわけではありません。一六世紀末の豊臣秀吉による朝鮮への侵略戦争、明治末から終戦まで続いた韓国併合など、現在も両地域の国民感情の中で大きなしこりとなった悲しい歴史がありました。
江戸時代の始め、豊臣秀吉の朝鮮侵略以来、通交が途絶えていた日朝関係を回復しようとしたのは、徳川家康です。家康は「武力」による外交から、「友好」を旨とする外交へ転換をはかろうとします。その関係修復の実務を担ったのは、地理的に近く朝鮮国と独自の交渉ルートを持っていた対馬藩でした。
その結果、徳川将軍と朝鮮国王は、互いに国書を交換しあう友好国として「通信[つうしん]の国」となり、この関係は、寛永[かんえい]一六年(一六三九)の鎖国以降も変わりませんでした。つまり朝鮮国は、江戸時代を通じて日本が唯一対等に国交を維持し続けた国だったのです。
対馬藩では朝鮮国との交渉のため、外交文書の解読や起草、漂流民との筆談役などを勤める学識豊かな儒学者を雇い、その任務に当たらせていました。雨森芳洲も十七世紀末に対馬藩に採用された儒学者です。
芳洲の生まれは北近江の雨森村(伊香郡高月町)、また京都・伊勢とも伝えます。芳洲は十八歳で江戸へ出て、儒学者木下順庵[きのしたじゅんあん]に入門、後に将軍に重用される新井白石[あらいはくせき]や室鳩巣[むろきゅうそう]らとともに学びました。二十二歳の時、対馬藩の儒学者に採用され、二十六歳で初めて対馬に赴任しました。
彼は対馬での経験の中から、国際関係では互いに理解しあうことが重要であり、表面的な言葉だけではなく、朝鮮の歴史・慣習、朝鮮語の理解が不可欠と痛感したのです。そのため二度にわたり朝鮮国の釜山[ぷさん]に留学、朝鮮語と朝鮮の文化・習慣を広く学びました。
彼の著書の中には、こうした経験から『交隣須知[こうりんしゅち]』など朝鮮語の入門書や、『朝鮮風俗考[ちょうせんふうぞくこう]』など朝鮮国の歴史・風俗・慣習について述べたものが多く見られます。
そして、芳洲が六十一歳の時に著した『交隣提醒[こうりんていせい]』では、国際関係においては「互いに欺[あざむ]かず争わず、真実を以[もっ]ての交わり」が大事であると、誠心[せいしん]による交流を基本とすることを説いたのです。この思想は、彼の先進的な国際感覚を示したものであり、現代にも通じる外交思想といえるでしょう。
現実の外交問題は、国家と国家の利害がからみ、なかなか彼が唱えるようにはいきません。しかし、現代社会における国際化という課題の中では、私たち市民レベルでの交流において、芳洲の国際感覚に大いに学ぶべき点があるといえるでしょう。
(母利美和)
テーマ展8 「唐子[からこ]のすがた」より
唐子と吉祥[きっしょう]
中国絵画の大きな特色のひとつに、「吉祥」という考えがあります。例えば、牡丹を画題とする絵の場合、単なる鑑賞画ではなく、「富貴[ふうき]」を象徴する吉祥の花として描かれるのです。
中国絵画の強い影響を受け続けた日本絵画にも、勿論この考えは流入しました。しかし日本では、身近な四季の草花としての性格が強まり、吉祥としての意味は幾分薄れる傾向にあります。
今回紹介する「唐子」にも同様のことが言えます。写真の「唐子遊び図」は、十九世紀、江戸の浜町狩野家八代の狩野中信[かのうなかのぶ]が描いた屏風のうちの半双で、中国の子どもたち(唐子)が楽しげに遊んでいる様子が描かれています。
この絵の源は、子孫の繁栄を祈るため、百人という多くの子どもたちが遊戯をするさまを描く中国の「百児図」であったと考えられます。
多くの子どもたちを描くことで子孫繁栄を願うはずの絵が、いつしか少数の子どもたちが戯れる絵となり、本来の意味が薄められてしまったわけです。
絵の中には、松竹梅や牡丹も描き込まれていることから、全体で「吉祥」の意味が込められていることも確かで、少数の唐子にも、かろうじて吉祥の意味が健在であったことが分かります。
(木文恵)
常設展示「古文書が語る世界」から
将軍と大名をつなぐ老中奉書[ろうじゅうほうしょ]
大名は、原則として江戸と国許[くにもと]をほぼ一年ごとに行き来する参勤交代を繰り返していました。江戸にいる間には、毎月3回の「月次[つきなみ]登城」や五節句、将軍家の冠婚葬祭の際などに江戸城に登城して将軍に対面することが大名の最も重要な「仕事」で、それを繰り返すことが、将軍の家臣としての立場を確認することにつながっていました。
では、国許に帰っている間はこのような勤めはしなくてよかったのでしょうか。
結論から先に述べると、彦根藩主井伊家の場合、彦根に帰国している間も、書類によってたびたび将軍へ御機嫌を伺ったり見舞いなどを述べていました。その頻度や内容がわかるのが、「老中奉書」と呼ばれる書類です。
老中奉書とは、幕政の最高責任者である老中が、主君である将軍の意志を伝える形式で発した書類です。中には、居城の修復許可や参勤の延期を許可するなど、幕府側の許可・命令などを伝えるものもありますが、現存する老中奉書のほとんどは、井伊家から将軍家へ出された献上品や御機嫌伺い・見舞いなどを述べた文書に対する礼状や返事です。一年の帰国の間には、たいていの年で五十点程度もの老中奉書が出されていることが現存する文書から確認できます。このことは、井伊家側から同数の書類や献上品が差し出されていることを意味します。
将軍へ出された書類に注目すると、その内容は、将軍家に子供が出生した祝いや死去した悔やみなど臨時の冠婚葬祭はもちろんのこと、将軍が寺社参詣したり外出した際の見舞いや、正月や節句などの年中行事が無事に済んだことに対する喜びの言上といった将軍が変わりがないことを喜ぶものまであります。これらは、江戸にいるときに生じたならば、登城して言上する内容です。さらに、毎月将軍の御機嫌を伺って、老中奉書にて将軍が変わりない旨まで返事を受け取っています。
大名本人が直接登城できなくとも、その意志を伝える書類を提出することでそれに代え、将軍の家臣としての勤めを果たしたといえるでしょう。
井伊家伝来の老中奉書の中には、長年の保存の中ではげしく破損してしまったものが多くあり、平成十年より国と県の補助金の交付を受けて、修理を進めています。修復された老中奉書を分析することによって、さらに大名と将軍の関係を明らかにできるでしょう。
(野田浩子)