彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 60

2003.3.1


button 将軍から朝廷への使者 ―京都上使行列絵巻
button テーマ展「井伊家伝来の茶道具-薄茶器-」より 直弼好みの「月次茶器」
button テーマ展「和様の心−井伊家伝来能装束から−」より 桧扇
button 〈 側役日記 〉


 

将軍から朝廷への使者−京都上使行列絵巻


 井伊家の家中[かちゅう]およそ二千人の行列が、武具を持ち、隊列を組んで、京都に入る姿。彦根藩主井伊直亮[なおあき]が将軍の名代[みょうだい]として上洛する行列です。
 徳川将軍は、初期と幕末を除いてみずから上洛することはなく、朝廷とのやりとりは公家・大名らが使者として江戸と京都を行き来しておこなわれました。中でも、朝廷から征夷大将軍に任命(将軍宣下[せんげ])された御礼や将軍即位の祝儀を述べる際には、格式の高い有力な譜代[ふだい]大名が将軍の名代として上洛し、天皇に対面しました。彼らは将軍の代理とみなされ、道中などでは将軍に準じる扱いを受けました。
 この京都上使[じょうし]役は、彦根藩主井伊家では歴代の多くが勤め、四代直興[なおおき]から十四代直憲[なおのり]までのうち八名九回をかぞえます。文政十年(一八二七)には、将軍家斉[いえなり]が太政大臣宣下を受けた御礼の使者として直亮が上洛しました。
 その行列を描いた本絵巻には、鉄砲足軽三十人組からはじまる足軽諸隊、具足櫃[ぐそくびつ]など井伊家の武具、朝廷への進献物などに続き、大勢の御供に囲まれた直亮の姿、騎乗した家臣ら合計千九百六十八人もの一行の姿が描かれ、行列の様子を今に伝えています。
 将軍から朝廷への進献物は二棹[さお]の長持[ながもち]に収められ、藩主の先を進みます。長持には将軍家の家紋である葵紋[あおいもん]を染め抜いた布が掛けられ、左右に役人が付き従っています。前後にも馬上の藩士が護衛しており、厳重な警備のもと、京都まで運ばれました。
 将軍名代の壮大な行列は、街道沿いの人々に将軍の威光とその名代を勤める井伊家の権威を示しながら上洛したのです。
 

(野田浩子)

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テーマ展2 「井伊家伝来の茶道具-薄茶器-」より
直弼[なおすけ]好みの「月次茶器[つきなみちゃき]


月次茶器より 五月
橘に水鶏蒔絵黒刷毛目塗白粉解棗



 茶の湯の世界では、濃茶[こいちゃ]を入れる茶入に対して、薄茶[うすちゃ]を入れる容器を総称して薄茶器あるいは略して薄器と言います。井伊家には、百点に近い薄茶器が伝来してきました。今回のテーマ展では、それらを「かたち」「ぬり」「このみ」の三つの視点で捉[とら]えます。
 薄茶器の「かたち」は、棗[なつめ]と中次[なかつぎ]を基本形にして多種多様のものがあります。「ぬり」には、漆工芸の粋を集めた各種の塗り物が見られ、その表面を蒔絵[まきえ]で飾ったものも少なくありません。そして「このみ」には、武家茶道の創始者片桐石州[かたぎりせきしゅう]好みの作品を中心に、十三代藩主井伊直弼[なおすけ]好み、千利休[せんのりきゅう]好み、そして表千家・裏千家の歴代宗匠好みなど、名だたる茶人・茶家の好みものが揃っています。
 ここでは、井伊家伝来の薄茶器の中で、もっとも良く知られた「月次茶器」を三つの視点で捉え直してみることにしましょう。
 「月次茶器」は月次、つまり一月から十二月までの十二個の薄茶器セットの総称です。かつて、この茶器には井伊直弼の注文書が添えられていました。直弼は、まず「かたち」と「ぬり」について各月ごとに指示をします。例えば五月は「白粉解棗 黒ハケメ」と記しています。「かたち」は白粉解[おしろいとき]形の棗。白粉解は、化粧で用いる白粉の容器に似るところから命名されたもので、通常の棗よりずんぐりとした形が特徴です。そして「ぬり」は黒ハケメ。固めの黒漆を塗って、刷毛の痕跡を残す刷毛目塗の技法です。
 さらに「ぬり」には「定家卿二種之和歌図取」と注文を加えています。定家卿とは鎌倉時代前期の歌人藤原定家[ふじわらていか]のこと。彼の家集(個人の歌集)『拾遺愚草[しゅういぐそう]』に収められた「詠花鳥倭歌[えいかちょうわか]」二十四首(「花」十二首・「鳥」十二首)は、江戸時代に「月次花鳥和歌」として多くの人々に書写され、また、絵師たちによって絵画化されました。例えば五月の「花」は橘[たちばな]で、
 
     郭公[ほととぎす]なくや五月の宿がほにかならず匂ふ軒の橘
 
五月の「鳥」は水鶏[くいな]で、
 
     真木[まき]の戸をたたく水鶏の曙[あけぼの]に人にあやめの軒の移香[うつりが]
 
でした。直弼は「白粉解棗 黒ハケメ」とした五月の薄茶器に、この二種の和歌の図様を蒔絵で取り込むように指示したのです。和歌にも造詣[ぞうけい]の深かった直弼ならではの創意と言えるでしょう。
 直弼の注文書は、山形屋儀兵衛なる人物を仲介にして、京都の塗師・八代中村宗哲[そうてつ](八郎兵衛)の手で制作されました。作品の底部には、宗哲の小さな針彫銘が刻まれています。
 こうして、直弼が自らしたためた注文書により、直弼「このみ」の月次茶器が誕生しました。

(谷口 徹)



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テーマ展1 「和様[わよう]の心−井伊家伝来能装束から−」より
桧扇[ひおうぎ]

桧扇
能装束 長絹


 能の装束は文様の宝庫です。中国から伝えられた唐様[からよう]、そして日本風の和様に大別されます。
 和様文様には、身近な植物や道具が取り上げられました。これらの中には現代の私たちにはなじみの薄くなってしまったものもあります。
 図版に掲げたのは、舞をまう女役に専用の長絹[ちょうけん]という装束です。背と肩の上部に主文様を三つ配し、裾[すそ]には色変わりで草花を散らしかけています。江戸時代後期の制作です。
 さて、花が添えられた扇の形をしたものが何なのかおわかりでしょうか。
 これは桧扇をデザインしたものです。ヒノキ材の薄板を二十五枚重ね、下端を要[かなめ]としたもので、貴族たちが笏[しゃく]の替わりに手にしました。実物を目にした人は少なかったでしょうが、物語文学や工芸のデザインを通じておなじみのアイテムだったのです。
 井伊家伝来の公家装束のなかに、江戸時代の作品があります。
 それでは裾の植物は?
 春から夏にかけて可憐な花をつける桜草。江戸時代には武家の間で栽培が盛んで、色や形の変わった新品種を作り出すことを競い合った人気の園芸植物でした。
 和様の心はこのように、かつては、説明なしに誰にでもが分かる「なにげなさ」「親しみやすさ」にありました。しかし、生活様式が大きく変貌した今となっては、それも遠い昔のことになってしまったようです。
 

(齋藤 望)

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〈 側役日記[そばやくにっき] 〉

宝暦六年の側役日記。表紙と十月一日部分。
藩士惣領の入部御礼の模様を記す。


 彦根藩主井伊家の伝来史料である『彦根藩井伊家文書』の中に、側役[そばやく]日記とよばれる史料があります。側役は藩主の側近家臣であり、常時六名前後がその職に就いていました。藩主の意向を家老などの家臣に伝え、逆に家臣からの願や届を藩主に上申するのが側役の役割でした。藩の政庁であった表御殿[おもてごてん]の中奥[なかおく]にも出入りが許され、つねに藩主の側で仕えました。現在の内閣官房付きの役人のようなイメージでしょうか。この側役による勤務日誌が側役日記です。
 現在、宝暦六年(一七五六)から嘉永七年(一八五四)までの側役日記が部分的に残っていますが、大半は藩主が彦根にいる時期のものです。日記には藩主の日々の行動が記録されます。藩主の行動では、鷹狩[たかが]り、寺社参詣、年中行事などの実施状況がわかります。また、家臣からの願や届書などの書類の決裁のほか、足軽の弓・鉄砲稽古の見分[けんぶん]や、領内からの年貢収納高を記した帳面の見分など、藩主の日々の仕事を知ることができます。側役日記は、わたしたちが藩主の行動・政務を知るうえでもっとも基本的な史料なのです。
 しかし、側役日記でわかることは、右のことにとどまりません。日記からは藩主を中心とする藩の儀礼の概況も判明します。例えば、藩主が江戸から彦根へ帰国後、家臣から挨拶をうける儀礼である「入部御礼[にゅうぶおれい]」の御目見[おめみえ]は、宝暦六年(一七五六)を例にとると、五月に帰国後、七月に士大将[さむらいだいしょう]ら上層家臣から始まり、翌七年二月の家中二男末子[まっし]の御目見まで断続的に実施されます。これほど長い期間をかけ藩主が家臣から挨拶を受ける理由は、藩内での藩士の序列を確認する重要な儀礼として、入部御礼が演出されていたためだと思われます。また、他大名・公家・有力寺社・京都や大坂の出入り商人など、藩主と交際をもつ範囲が日記から全般的にわかります。
 現在残っている、もっとも古い側役日記は、宝暦六年のものです。井伊家十代井伊直英[なおひで](のち直幸[なおひで])が藩主就任後はじめて彦根へ帰った年にあたります。近年の研究では、幕府や、藩領民との関係において、直英の藩主時代が近世後期の彦根藩の起点となっているとの見通しが立てられています。その点からみると、側役日記は、藩の幕府内での動向や、藩政機構の変化、領内政策など、全体を関連づけ彦根藩の歴史を把握するうえでも欠かせない史料として位置づけられるのです。

(渡辺恒一)

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