2003.6.1
| 大名家伝来の公家の書…和漢朗詠集 | |
| 描き変えられた関ヶ原合戦図 |
大名家伝来の公家の書…和漢朗詠集[わかんろうえいしゅう]
公家衆三十人の寄合[よりあい]による和漢朗詠集の写本。内曇[うちぐもり]の料紙に、ほぼ二、三紙分を分担書写し、上下二巻の体裁をとります。
筆者には当時の有力公家が動員され、その官職から考えると、天和二年(一六八二)の制作と推定できます。上巻の巻頭を飾る左大臣近衛基熈[このえもとひろ](一六四八〜一七二二)は、寛永の三筆[さんぴつ]に数えられる近衛信尹[のぶただ]や信尋[のぶひろ]の書風に影響を受けた、和様[わよう]の柔和な筆致でしたためています。
代々彦根藩主であった井伊家に伝来した美術工芸品の中には、江戸時代の公家の書が少なくありません。これらは、井伊家が、公家と結んだ姻戚関係や政治的な関係により、金銭的な援助をしたことに対する御礼として入手したものが多いと見られます。
幕末期、安政の御所造営に功のあった井伊家を含む大名家が、朝廷から、三十六歌仙手鑑[てかがみ]や十体[じってい]和歌巻子を下賜された記録があります。これらも、和漢朗詠集同様、当時の公家衆の寄合書だったのではないでしょうか。
(高木文恵)
テーマ展 「荒神山[こうじんやま]と周辺地域の暮らし」より
生活の歴史
人は、自然の恵みを受け、また自然に対し、労働という働きかけをおこなうことにより、生命を維持してきました。この営みは、気候・地形・動植物の生態といった自然環境の違いなどにより、多様で個性的なものとならざるをえません。この結果、各地域に独自の生活スタイルと風土が、歴史的に形づくられてきました。
展示では、彦根市南西部の荒神山[こうじんやま]と周辺地域の関係に注目し、地域の生活の歴史を紹介します。
荒神山(標高二六一・五メートル)は、琵琶湖畔の平野部に孤立する山です。山内には群集墳[ぐんしゅうふん]などの古墳があり、山頂には現在も荒神山神社が鎮座しています。荒神山は、信仰の山であり、また、自然の恵みをもたらす山でもありました。
写真の絵図は、彦根藩領の石寺[いしでら]村・三津屋[みつや]村・須越[すごし]村の絵図です。享保二十年(一七三五)に、藩の川除奉行[かわよけぶぎょう]へ提出するために作られました。とてもくわしく地形・地名などが描かれています。
絵図の上側の山が荒神山。以下、琵琶湖の内湖である曽根沼[そねぬま]、各村の在所・田畑とあり、下辺が琵琶湖です。曽根沼には葭島[よしじま]が点在し、村の内には細かな水路がはりめぐらされています。三か村周辺の特徴ある地形がよくわかります。
ところで、この絵図にさらに、現在の住民の方からの聞き取りや、地域に残された古文書の内容を重ね合わせてゆくと、地域の生活の様子をより豊かに復元することができます。例えば曽根沼では「ツケシバ(漬柴)」という漁法がおこなわれました。山で苅った柴を組み水中に沈め、魚を寄せ、簀[す]で囲んだ後、柴を揚げ魚を獲るものです。また、沼の藻草は肥料などとして有効に農業に用いられました。
このように、高度成長期以前のこの地域の生活では、実にみごとに自然条件、つまり山と沼を利用した生活が築かれています。このような生活スタイルは江戸時代にまでさかのぼれるものです。日々の暮らしのなかでの工夫と努力の積み重ねにより形作られる地域生活の歴史。展示では、そのような歴史を取り上げようと思います。
(渡辺恒一)
テーマ展 「井伊家歴代の肖像」より
江戸期の祖先顕彰ブーム
三代直澄像(部分)
清凉寺蔵
近年、肖像画を巡る研究が活発な動きを見せています。写実的な作品以外は研究対象として見られなかった江戸時代中期以降の肖像画も、ここにきてようやく語られるようになった感があります。
彦根藩主井伊家の菩提寺[ぼだいじ]である清凉寺[せいりょうじ](彦根市)には、初代直政[なおまさ]から十三代直弼[なおすけ]に至る十三幅の肖像画がまとまって伝来しています。初代と二代の像は江戸の早い時期に描かれたものですが、三代から九代までは、江戸後期の文化九年(一八一二)にまとめて制作されたものです。これは一体何を意味するのでしょうか。
十八世紀末、幕藩体制は大きな危機を迎えていました。その解決策のひとつとして、歴史に学び、先例を歴史的に確認するために幕府の日記の整備や家譜の編纂などがおこなわれ、文化文政期には一大編纂書時代ともいうべき時代を迎えました。家の歴史的由緒を調べることにより、祖先を歴史的に再確認する作業は、単なる知識の集約にとどまらず、祖先顕彰、祖先崇拝の気運を育んでいくことになります。
文化年間におこなわれた彦根藩の清凉寺中興事業は、こうした意識に支えられたものです。寺の境内には、初代および二代の木像を安置する護国殿[ごこくでん]が建てられ、三代から九代の肖像画がまとめて制作され、清凉寺に納められました。
菩提寺以外にも、井伊家に関係の深い寺社には井伊家当主の肖像画や肖像彫刻が伝えられています。本展は、これら肖像を一堂に公開し、江戸時代の肖像制作の意味を考えようとするものです。
(高木文恵)
描き変えられた関ヶ原合戦図
当館所蔵の関ヶ原合戦図屏風は、慶長五年(一六〇〇)九月十五日、関ヶ原盆地で戦闘を繰り広げた東西両軍が交戦する姿が描かれています。ただ、作者の印が手書きであり、写された図とわかります。同様の構図を持つ屏風も各地に伝わっています。
館蔵品の図の特徴は、井伊隊の描き方に見いだせます。
徳川家康重臣の井伊直政は、戦場から逃れようとする西軍の島津勢に向かう場面が描かれています。周囲には赤備[あかぞな]えの家臣たちがいます。家臣の背には、家紋や姓名を記した旗指物[はたさしもの]や使者を示す母衣[ほろ]などが差されています。実際の装束でも、旗指物や母衣上部の金地の板(形状から「牛[うし]の舌[した]」と呼ぶ)に姓名が記され、個人が特定できるようになっていました。
その中の一人、岡本半介[おかもとはんすえけ]は朱地に金の点が多数ついた「乱[みだ]れ星[ぼし]」の母衣が描かれています。これは彼特有の指物で、家臣の間では「変わり指物」として著名でした。ところが、その描き方に奇妙な点が見つかります。
合戦図には、人物を特定できるよう、細長い紙の付箋により人名が書き込まれています。井伊家中には、母衣や旗指物に姓名が書かれている者が多く、彼らには付箋[ふせん]は必要ありません。ところが、なぜか岡本半介のみが付箋と「牛の舌」の二カ所に姓名が記されているのです。
その理由を考えるために、同様の構図を持つ屏風(関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵)の描き方を見ると、半介の指物は母衣ではなく四角い無地の旗指物となっています。この図であれば人物を特定するためには付箋が必要です。また、この図には井伊家中で旗指物に姓名の記された者が一人もいないことから、館蔵の図に描かれる岡本半介の母衣や姓名入りの旗指物は、オリジナルの合戦図には描かれておらず、彦根藩周辺で屏風を写す際に描き変えられたと推定できます。
合戦図に描かれる人物やその行為を見ていると、武将の戦功や逸話が多数盛り込まれていることから、オリジナルの図はそれらが記されている軍記類や逸話集など当時一般に知られていた関ヶ原合戦に関する情報をもとに描いたと考えられます。
全国レベルで知られた情報をもとに描かれた関ヶ原合戦図の構図の上に、井伊家中に伝わる先祖の戦場での活躍を描き加えたものが彦根に伝わったのでしょう。
(野田浩子)
*新コーナー「金亀玉鶴」では、各学芸員の研究余録を掲載します。タイトルには彦根藩主所用の印章を用いました。印文は、彦根城の別名「金亀城」、または彦根城のある「金亀山」から発想を得たものと考えられます。