Hikone Castle Museum News 62
2003.9.1
| 色鮮やかな楽しい造形―――交趾荒磯文香合 | |
| 狩野永岳と彦根藩 |
色鮮やかな楽しい造形―――交趾荒磯文香合[こうちあらいそもんこうごう]
江戸時代も終わりに近い安政二年(1855)、「形物香合相撲[かたものこうごうすもう]」という相撲の番付に似せて型(形)物香合の評価を示す一覧が刊行されました。そこには214点にのぼる様々な香合が掲げられましたが、そのうち64点が交趾焼香合で占められていました。当時、交趾焼香合が茶の湯の世界で、いかに高い評価と関心を得ていたかを窺[うかが]い知ることができます。
この焼物に冠された「交趾」は、現在のベトナムあたりを示す呼称。ただし、それは焼物の産地を意味するものではありません。この地を経由して日本にやってくる貿易船を、かつて交趾船と称したことに由来するものであり、経由地がいつしか生産地のごとく呼ばれるようになったものと思われます。
では、実際の生産地はどこなのでしょう。古くから研究者の間では、交趾焼はベトナムではなく中国南部で焼かれたものと推測されてきました。事実、近年実施された福建省平和県の発掘調査では、交趾焼香合を焼いた窯跡(田坑窯)が発見されており、少なくとも交趾焼香合の一部が当地で焼かれたことが判明しています。
交趾焼香合は、押し型で型抜きしたものを一度素焼きし、その上に黄・緑・紫の三彩釉[さんさいゆう](鉛釉)を掛け分けて再び焼成します。写真の作品は井伊家に伝来したもの。波涛[はとう]の中から頭をもたげる魚や海老[えび]・龍の姿が、コミカルなタッチで表現され、鮮やかな三彩によって色分けされています。見て楽しく、触れていとおしい造形です。
幕末の大老として、また大名茶人として知られた彦根藩十三代藩主井伊直弼[いいなおすけ]もこの香合を好みました。彼は、安政五年(1858)12月29日に、江戸屋敷の四畳半の茶室で自ら亭主となって茶会を催した際、数ある香合の中からこの作品を選んで茶席を飾っています。
(谷口 徹)
平成十五年度 企画展 井伊の赤備え―彦根藩の甲冑―
10月25日(土)〜11月24日(月)(期間中無休)
朱漆塗燻韋威伊予札腰取二枚胴具足
井伊直孝所用 朱漆塗紺糸威桶側二枚胴具足
井伊直政所用
大将の居所を示す馬印[うまじるし]は金色の蠅取[はえと]りの形、朱色に染めた絹地の垂れがつきます。旗印[はたじるし]は朱地に金で井桁[いげた]の紋。これが戦場における井伊家の「しるし」でした。
さらにこの一団は特異でした。大将はいうまでもなく、士卒にいたるまで軍団の全員が、身にまとう甲冑[かっちゅう]を朱漆塗りとし、兜には金色の天衝[てんつき]、騎馬の大旗や旗指物[はたさしもの]、足軽[あしがる]の指物も朱色でした。「井伊の赤備[あかぞな]え」と称されるゆえんです。
初代井伊直政[いいなおまさ](1561〜1602)にはじまるこの朱づくめの軍装は、その後、幕末にいたるまで、江戸時代を通じて代々受け継がれました。
元来、井伊家は、現在の静岡県引佐[いなさ]郡引佐町井伊谷[いいのや]に勢力をもつ武士でした。
天正三年(1575)、15歳の直政は、浜松城にあった徳川家康に近習として仕え、その後、天正10年には、家康の甲州経略に従いました。
このとき家康は、22歳の直政をしかるべき大将とすべく、武田氏の滅亡により主を失った甲斐や上州(現在の山梨県や群馬県)の武将など117人を直政に附したといいます。家康の意図は、直政を徳川の先手[さきて]と位置づけることにありました。これにより彼の軍事力は飛躍的に増強されたのです。
このことは、井伊谷以来の家臣団に、新たに大きな勢力が加わった事を意味します。
彼らをどのように機能的にまとめるかが課題でした。家康は、直政の軍勢を「赤備え」とすることを命じ、武田遺臣の三人の武士に、甲斐や越後、信濃などで行われていた軍法の良いところをとって、井伊家の軍制を定めるよう命じたのです。もともと武田の有力武将の中には、飯富[おぶ](山縣[やまがた])や小幡[おばた]などの赤備えの伝統がありました。
ところで、井伊家の朱具足は、当世具足[とうせいぐそく]と呼ばれる形式で作られています。
天文十二年(1543)、ポルトガル船により、日本に火縄銃[ひなわじゅう]が伝えられて以降、合戦の様相は、それまでの騎馬を中心とした戦闘から、鉄砲や長柄の槍[やり]を主力とする集団戦へと変化しました。
大鎧[おおよろい]や胴丸[どうまる]といった古式の甲冑ではこれに対処することができなくなり、防御力を高めた量産可能な甲冑が要求されたのです。
これに応えて考え出されたのが、鉄を素材に全身を隙間なく覆った甲冑、すなわち、昔の甲冑とは異なる今風(当世風)の、という意味の「当世具足[ぐそく]」でした。
さらに、桃山という時代の嗜好[しこう]を反映して、この時期の甲冑には、人目を驚かす奇抜な装飾が加えられるのが常でした。伝統にとらわれない自由で個性的な発想がみられます。
その中にあって井伊家の朱具足は、いたってシンプルで機能的な形態に特色があります。奇を衒[てら]うより、むしろ軍備のすべてを朱色で統一する「赤備え」としたところに主張があったのです。
この時期「赤」は武勇を示す特別の色でした。個々の武者がそれぞれに自己主張するのではなく、徳川の先手として、戦場で軍勢がひときわ異彩を放つところに眼目があったのです。
この展覧会では、当世具足の諸相、そして、井伊家歴代や家臣の甲冑武具を一堂に会して紹介します。【展示の構成と主な展示作品】
*作品名に付記した所用者は伝承によるところが多く、今後の検討を必要とするものもあります。
1 当世具足の登場
(1) 桃山の合戦―鉄砲と槍―
川中島合戦図(和歌山県立博物館) 火縄銃‐銘榎並屋勘左衛門・大てんぐ(大阪城天守閣) 黒漆塗唐冠形兜(高津古文化会館) 大身槍(大阪城天守閣) 片鎌槍‐加藤清正所用(東京国立博物館) 長刀‐銘上州住次重(本館)
(2) 桃山の美意識
―当世具足の諸相―
南蛮胴具足‐天童織田家伝来(岐阜市歴史博物館) 朱漆塗紺糸素懸威縫延二枚胴具足‐豊臣秀次所用(サントリー美術館) 栗色塗紺糸威二枚胴具足‐仙石秀久所用(上田市立博物館) 猩々緋陣羽織‐真田正信所用(真田宝物館)
2 井伊の赤備え
(1) 直政と直孝
(初代・二代)
朱漆塗仏二枚胴具足‐井伊直政所用(本館) 朱漆塗紺糸威桶側二枚胴具足‐井伊直政所用(本館) 朱漆塗燻韋威伊予札腰取二枚胴具足‐井伊直孝所用(本館) 関ヶ原合戦図(本館) 若江合戦図(本館) 朱漆塗蛭巻鞘大小拵‐井伊直孝所用(本館) 金箔押蠅取形馬印(本館) 朱地井桁文金箔押旗印(本館) 朱采配‐井伊直孝所用(大阪城天守閣) 朱漆塗紺糸威桶側二枚胴具足(甘楽町歴史民俗資料館)
(2) 直澄から直憲まで
(三代〜十四代)
朱漆塗紺糸威伊予札腰取二枚胴具足‐井伊直澄所用(本館) 朱漆塗朽葉糸威伊予札腰取二枚胴具足‐井伊直興所用(本館) 朱漆塗紺糸威伊予札腰取二枚胴具足‐井伊直定所用(本館) 朱漆塗紅糸威伊予札胸腰取二枚胴具足‐井伊直¥蒲p(本館) 朱漆塗萌葱糸威伊予札胸取二枚胴具足‐井伊直幸所用(本館) 朱漆塗朽葉糸威腰取二枚胴具足‐井伊直中所用(本館) 朱漆塗紺糸威伊予札二枚胴具足‐井伊直亮所用(本館) 朱漆塗紅糸威伊予札腰取二枚胴具足‐井伊直弼所用(本館) 朱漆塗紅糸威本小札二枚胴具足‐井伊直憲所用(護国神社)
(3) 子弟・家臣たち
朱漆塗白糸威伊予札腰取二枚胴具足‐井伊直滋所用(本館) 朱漆塗紺糸威伊予札胸腰取三枚胴具足‐井伊直恒所用(本館) 朱漆塗仏胴腰取五枚胴具足‐初召用・井伊直滋所用(本館) 朱漆塗色々威腹巻‐松平弥千代所用(本館) 朱漆塗紺糸威瑠璃斎胴具足‐木俣家伝来(大阪城天守閣) 朱漆塗紅糸威切付小札二枚胴具足(本館) 朱漆塗紺糸威切付小札二枚胴具足(本館) 朱漆塗紺糸威伊予札胸腰取二枚胴具足(本館) 朱漆塗紺糸威桶側五枚胴具足(個人) 八幡大菩薩軍旗(大阪城天守閣)
テーマ展 「大名の婚礼調度」より
大名の婚礼
宜子所用の眉作箱
江戸時代、婚礼は、結ばれる両人を越えて両家の大切な行事であり、家の格式に則してとり行われました。とりわけ大名の場合、婚礼に関わる一連の行事は、私たちの想像を絶するものでした。
まず、その手続きがたいへんでした。江戸幕府が成立すると、幕府は諸大名の婚礼にさまざまな規定をもうけました。大名は幕府の許可なくして、勝手に婚姻を結ぶことはできなかったのです。当主双方が同意すると、双方の家より縁組願いを幕府に提出します。幕府は、それが身分格式相応であることなどを吟味して許可します。この縁組願いに許可が下りて、初めて両家の縁組が整うことになります。以後、結納[ゆいのう]から婚礼にいたるまで、その都度伺いを立て、婚礼が済んだあとも、御礼言上、献上物持参などの手順を経て、ようやく婚姻の手続きが完了しました。手続きだけでもこのように複雑なものでしたから、個々の行事の内容は煩雑[はんざつ]を極めました。
当然、婚礼に伴って運ばれる輿入[こしい]れの道具、つまり婚礼調度もまた大変なものでした。多大な費用が惜しげもなく使われ、漆や蒔絵などで加飾された華やかでおびただしい数の調度品が、行列を整えて嫁入り先へ運び込まれました。その数が百種を越えることも珍しくありませんでした。
ただ、こうした婚礼の品々が今日まで当初の揃[そろ]いのままで伝存する例はほとんどありません。すべての婚礼調度は散逸[さんいつ]する運命にありました。夫人が他界すると、生前使用した品々は、彼女の菩提[ぼだい]を弔うために遺骸とともに寺へ納められ、その他は形見分けや贈答品として肉親や大勢の側仕[そばつか]えの人々に与えられました。
それでも今日残る婚礼調度の数々は、江戸時代の武家文化が育んだ最も日本的な美術工芸品として、美術史の中に高く位置付けられています。
井伊家に伝来した調度品には、こうした婚礼にともなう作品が少なくありません。今回のテーマ展では、それらの調度品の中から、彦根藩最後の藩主井伊直憲[いいなおのり]の正室に迎えられた有栖川宮幟仁[ありすがわのみやたかひと]親王の三女もりの宮宜子[もりのみやよしこ]の婚礼調度をまとめて紹介します。
(谷口 徹)
テーマ展 「日本の楽器・箏[そう]―井伊家伝来資料から―」より
子[ね]の日[ひ]
附属の色紙 箏 銘子の日
箏[そう](琴)の調べは、古来、しばしば松風の音に譬[たと]えられました。
この「子[ね]の日[ひ]」の銘[めい]がある箏には、一枚の色紙が添えられています。
松風の音[おと]に乱るゝ琴[こと]の音[ね]を
ひ(弾)けは子日[ねのひ]の心地こそすれ
三十六歌仙のひとり、斎宮女御[さいぐうにょうご](徽子[きし]女王、929〜985)の歌です。
娘の規子内親王が、伊勢神宮で神に奉仕する斎宮[さいぐう]に選ばれ、京都の嵯峨[さが]にあった野の宮(潔斎のため一年間籠もる宮殿)に入り、庚申待[こうしんま]ちの歌合わせをしたときのことです。「松風、夜の琴に入る」という題で詠んだ二首のうちのひとつで、「松」の連想から、「子の日」が思い浮かんだのでした。
正月の最初の子の日には、野に出て小松を引き(根[ね]引きの松)、若菜を摘んで遊ぶのが習わしでした。春の息吹を感じる、千代を祝う年中行事です。琴を弾くに小松を引く、琴の音に小松の根がかけられています。
この箏は、室町時代の文安五年(1448)に、重井忠治なる人物が作ったものです。
箏は実用品なので、よい音を奏で、見栄えをよくするために、繰り返し手が加えられました。
おそらく江戸時代後期に、古箏であることが珍重され、「子の日」の銘がつけられて、現在見る若松の装飾が施こされたものと思われます。
王朝に憧れる美意識には、根強いものがありました。
(齋藤 望)
狩野永岳[かのうえいがく]と彦根藩
昨年、幕末の京で活躍した京狩野家第九代の狩野永岳[かのうえいがく](1790〜1867)を紹介する展覧会を開催しました。彼の画は、禁裏[きんり]や公家、寺社を中心に、大名家や富商・富農に至るまで、たいへん幅広い層に支持されていたことが分かりました。
永岳は、彦根藩では五人扶持[ぶち]を宛[あてが]われ、藩主の肖像画制作や家臣への下賜[かし]品の制作、席画[せきが]や画の鑑定などの御用をつとめていました。最近、やはり彦根藩関係の作品として制作された可能性が高い永岳画を知る機会を得ましたので、ここに紹介します。
それは、束帯[そくたい]姿で笏[しゃく]を持ち、高麗縁[こうらいべり]の上畳に坐す人物像です。笏には「萬里一條銕[ばんりいちじょうのてつ](万里一条鉄)」の墨書が、太刀を佩用[はいよう]するための平緒[ひらお]には違い割り紋(割り違い紋)が確認されます。
念から念へ、雑念を交えずに正念[しょうねん]が一貫して相続することをいう「万里一条鉄」とは、茶道石州[せきしゅう]流の祖・片桐石州[かたぎりせきしゅう](1605〜73)が特に重視していた語であること、違い割り紋が片桐家の家紋であることから、本図は、石州の画像と判断することができます。緋色[ひいろ]の位袍[いほう]を着することも、位階が五位であった石州の像として描かれた判断を補強するものです。
では、何故この画が彦根藩と関係があったと推定されるかといえば、石州流は、武家社会に適合する大名茶として大成したために彦根藩でも採り入れられ、特に十三代藩主井伊直弼[いいなおすけ](1815〜60)が極めようと熱意を傾けて自ら一派を成すにまで至った流派だからです。勿論、直弼も「万里一条鉄」の精神を重視し、この文言を大書した茶掛けの書(本館蔵)も揮毫[きごう]しています。
現在まで確認できた資料から判断すると、永岳が彦根藩の御用をつとめるようになったのは、直弼が藩主となった嘉永三年(1850)以降、つまり永岳61歳以降のことと推定されます。この石州像の筆致を見ても、永岳の画風がすっかり確立した老年の域に達した時期のものと判断され、制作時期にも齟齬[そご]がありません。
この石州像、直弼自身の指示で描かせたのかどうかは分かりませんが、彦根藩の御用の多様性を示す作品として注目されるものといっていいでしょう。
余談ですが、明治以降、本像は天神像として伝えられてきました。なるほど、束帯で笏を持って坐す姿は、天神さんに通じます。武家に尊重された石州ですが、武家政権崩壊後には影が薄くならざるを得なかったことを象徴しているかのようです。
(高木文恵)