彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 63

2003.121


button 杜若
button テーマ展「仙人と仙境」より 仙人、神通力を失う
button テーマ展「冬を楽しむ―季節の美意識―」から 降り積もる雪
button 彦根藩の藩札(米札)


 

杜若[かきつばた]

杜若

 この箏[そう]、装飾は螺鈿[らでん]で杜若をあらわすのみ。しかも、柱[じ]を入れる畳紙[たとうがみ]も、箏を包む包裂[つつみぎれ]もすべて杜若のデザイン。
 これは、在原業平[ありわらのなりひら]を主人公とする『伊勢物語』に取材したデザインです。都から東国へと下る業平一行が三河[みかわ]の国の八橋[やつはし]へ至ります。そこに咲き誇っていたのは杜若でした。
 業平は「かきつばた」の五文字を五句のはじめに置き、都を偲[しの]んで歌を詠みます。
 
 唐衣きつゝなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思う
(唐衣を着馴らすように馴れ親しんできた妻が都に残っているので、こうしてはるばるとやって来た旅のつらさが身にしみて感ぜられる〈『新日本古典文学大系』による〉)
 
 このモチーフは、造形の上では、はじめは、業平一行と杜若、そして八橋というワンセットだったのですが、まず人物が消え、ついで橋が消えというように、説明的な構成から、杜若だけの象徴的な図様へと変化しました。
 伊勢物語のこの段は、江戸時代の人々にたいへん好まれ、杜若=八橋=業平、という常識が成り立っていたのです。
 さらにこの箏の場合は、八橋検校[やつはしけんぎょう](1614〜1685)により始められ、その後の箏曲の源となった八橋流をも意識しているのかもしれません。
 

(齋藤 望)

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テーマ展「仙人と仙境」より
 仙人、神通力を失う

能面
一角仙人
能面
一角仙人


 私たち現代人が思い浮かべる仙人とは、人里離れた山奥に住み、空を飛ぶなどの術を身につけ、霞を食べるといったイメージでしょうか。
 漠然と思い浮かべる仙人像ですが、中国の民間信仰をとりいれて体系づけられた道教により、実に多彩な姿が伝えられています。
 仙人とは、人間が修練などにより神通力[じんつうりき]を獲得し、不老長生をとげる者のことをいいます。つまり、私たちと全くかけ離れた存在なのではなく、あくまでも人間がなれるものと考えられていたのです。もともと神怪な存在である精霊[せいれい]や神霊[しんれい]とは一線を画すわけです。
 道教では、仙人を神々として仰ぎますが、同時に、実際に仙人になることを求めます。このことは、道教が来世(彼岸)ではなく現世(此岸)を尚び、現[うつ]し身[み]の中に天国を建てようとする現実的な特色をもつとされる理由でもあります。
 仙人には、修練の方法によって等級の違いが生ずると考えられていました。例えば晋の葛洪[かつこう]が著した『抱朴子[ほうぼくし]』によれば、上から、天空に昇る天仙、名山に遊行[ゆうぎょう]する地仙、いったん死んだ上で仙人になる尸解仙[しかいせん]といった具合で、さらに細かな分類がされることもあります。
 中には、厳しい修練でいったん神通力を手に入れたものの、それを失ってしまう者もいます。
 その一人が一角仙人[いっかくせんにん]です。インド山中の波羅奈国[はらなこく]の山中で鹿から生まれたとされ、神通力で龍神を封じ込めたために旱魃[かんばつ]となりました。国王はこれを憂慮、仙人の神通力を失わしめんと策をはかります。国王の遣わした美女に惑わされた仙人は、その力を失い、地には再び雨が降り注ぐに至りました。
 この話は、もともとインドの神話で、仏典の大智度論[だいちどろん]などにも載っているものです。日本では、古くは『今昔物語』や『太平記』などに取り込まれ、能や歌舞伎の演目ともなりました。
 実は、女性に惑わされて通力を失った仙人は、日本にもいます。『扶桑略記[ふそうりゃっき]』や『今昔物語』に登場し、久米[くめ]寺の開基とされる久米の仙人は、吉野川上空を飛行中、衣を洗う若き女性の白い脚に心を奪われて落下、のちにはこの女性を妻とし、俗人となって生活を送ったといいます。
 こうした話をみていくと、やはり仙人は、神聖な存在とはいうものの、あくまでも人間であるということに改めて納得させられます。

(木文恵)

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テーマ展「冬を楽しむ―季節の美意識―」から
 降り積もる雪

降り積もる雪
降り積もる雪


 冬の景物というと、まず思い浮かぶのは「雪」です。
 今では厄介者[やっかいもの]扱いされている雪も、かつては、すこぶる日本人の美意識を刺激したもののようで、和歌や古典文学には、しばしば雪のシチュエーションが設定されています。
 例えば、白河院(1053〜1129)の小野の雪見御幸[ゆきみごこう]。雪の朝、院は、
 
 おもしろき雪かな。いづかたへ かむかうべき。
 
と、雪見を企て、洛北の小野に住む皇太后歓子を訪れました。そこで機知に富んだもてなしを受け、雪景色を楽しんだのでした(『古今著聞集』ほか)。
 ところが雪を造形化するとなると、大きな問題が生じます。雪は定まった形をもたず、しかも色は純白です。雪自体では「絵」にならないのです。
 そこで、絵画では、山や草木などに降り積もった雪や、深々[しんしん]と降る雪をいかに表現するかに腐心することになりました。
 工芸品でも事情は同様です。雪持ち松や雪持ち笹として表現されました。文様ではこのほかに、六稜の丸文にデザインした雪輪[ゆきわ]があります。雪は六花[りっか]とも称されていましたから、早くから雪の結晶が、六画形を基本とすることが知られていたのでしょう。
 図は能装束の素襖[すおう]。裾の文様は雪持ち笹。雪が降り積もっている様子を白く抜いてあらわします。茶地にくすんだ緑色とする色調は押さえぎみで、ものさびた印象があります。
 寒々とした冬を舞台とする演目にふさわしいといえましょう。
 

(齋藤 望)

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彦根藩の藩札[はんさつ](米札[こめふだ])

彦根藩の藩札(米札)


 江戸時代、日本国内では幕府が発行した金・銀・銭などの貨幣が流通していました。このほかにも、諸藩が藩札(紙幣)を発行していました。
 藩札の発行は、幕府の発行する貨幣の流通にさまざまな影響を与えるため、宝永4年(1707)以降は禁止されていましたが、享保15年(1730)6月に解禁されました。以後、幕府の許可を得て発行する形をとり、明治維新を迎えるまで、各地で藩札が発行されました。
 彦根藩で最初に藩札が発行されたのは享保15年10月。幕府が藩札解禁をした直後のことでした。彦根藩の場合、藩札の額面に例えば「納米弐升 此代壱匁預」と記されて米と銀との引き替えが行われる形になっていたために「米札」と称されていました。この米札は、経済的に窮乏する彦根藩士を救済することを目的に幕府から許可を得たものでした。
 約10年後の寛保元年(1741)12月、彦根藩は幕府の許可を得て、藩内での幕府発行貨幣の流通を禁止し、米札だけを通用させるという「皆米札[みなこめふだ]」政策を実施しました。
 彦根藩の米札発行については、町奉行・筋奉行・元方勘定奉行[もとかたかんじょうぶぎょう]などが中心となって進められ、「皆米札」政策実施以後は、これに皆米札奉行が新設され、領内には米札の引替所が置かれて円滑な流通に努めました。
 この米札の製作・管理の一端がうかがえる史料として、元方勘定所の勘定人が、家老からの指示を抜き書きした帳面(「御指紙略記[おんさしがみりゃっき]」)が残されています。
 製作に関するものとして、文政元年(1818)、米札に使用する紙に、印刷時の文字のにじみを押さえ、発色をよくする「礬水引[どうさひき]」の処理を施したことが記されています。こうした工夫は米札の偽造防止にも役立ったと思われます。天保4年(1833)には、入札を行って落札した表具屋に礬水引を任せたことも記されています。
 管理に関しては、文化8年(1811)に、傷んで使えなくなった古い米札を回収し、皆米札奉行と元方勘定奉行が立ち会いの上で封をして西の丸櫓へ保管したことが記されています。文化10年には、約170キログラムにおよぶ古米札を裁断し、御作事方[おんさくじかた]に「紙すふ」として渡したことも記されています。今風にいえばシュレッダーで裁断した古紙を壁材として再利用するようなものでしょうか。
 まだまだ米札については、分からないことが多く、史料に記されたデータをさらに積み重ねて実態に迫っていきたいと思います。
 

(齊藤祐司)

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