Hikone Castle Museum News 64
2004.3.1
| 豪奢の対極―銀地七宝衽文鞍― | |
| 直弼と宗猿 |
豪奢[ごうしゃ]の対極―銀地七宝衽文鞍[ぎんじしっぽうちぎりもんくら]―
江戸時代、工芸の世界では蒔絵をはじめとする漆芸の技法は高い完成度をみせ、これらを駆使しつつ、いかに個性ある作品を作るかが求められました。
こうした流れの中、金銀を多用し、過剰ともいえる装飾と大胆なデザインの豪奢[ごうしゃ]な鞍が数多く作られました。
ところがこの鞍は、黒漆塗りの下地にびっしりと銀粉を蒔[ま]き、手形(肩のくぼみの部分)には金梨地[きんなしじ]を施し、居木先[いぎさき]は黒漆塗りに金蒔絵[きんまきえ]で七宝[しっぽう]文様を描きます。金銀を用いながらも艶[つや]を抑え、静かで落ち着いた印象を与えています。
この静謐[せいひつ]さを破るのは、前輪[まえわ]の中央に据えられた七宝の衽文[ちぎりもん]です。向かい合った三角形の赤と青の鮮やかなコントラストは、見る者の目を惹きつけます。
豪奢な雰囲気とはおよそ対極にあるシンプルな鞍。これに発色のよい七宝を据えた心憎いまでの意匠は、当時の漆芸表現の多様さを物語る作品のひとつであったといえるでしょう。
(水谷千恵)
テーマ展「大野出目家[おおのでめけ]―井伊家伝来能面から―」より
天下一
能面 小姫 是閑吉満作 同 面裏焼印「天下一是閑」
京都・三十三間堂で矢数を競って行われた通し矢で、新記録をうち立てた者は、「天下一[てんかいち]」と賞賛されました。文字どおり、天下に比べる者がないほど優れている、と言う意味です。
桃山時代から江戸時代にかけて、天下一の号が盛んに用いられるようになります。
例えば能面。図版に掲げた小姫[こひめ]は、面裏に「天下一是閑[ぜかん]」の焼印があります。大野出目家の初代、是閑吉満[よしみつ](?〜一六一六)の作で、彼は自らの技量を、天下一だと主張しているのです。
天下一の号に法的な根拠があるわけではありませんが、だからといって、誰でもが勝手に使えるというものではありませんでした。
織田信長や豊臣秀吉ら、時の権力者が、技のすぐれた職人に天下一を称することを許したのです。楽市楽座にみるような、彼らの経済施策の一環、あるいは彼らの王権の象徴と捉えることもできます。
よく目にするのは、柄鏡[えかがみ]に天下一の銘を刻んだものでしょう。この他にも釜や漆工品などの茶道具、筆、墨、そしてなんと菓子の職人までもが天下一を標榜していました。現代でいえば、通商産業省のグッドデザイン認定に通ずるものがあります。
面打では、桃山時代の角坊[すみのぼう]が「天下一若狭守」の焼印を使ったのが最初です。『太閤記』によれば、角坊は、秀吉の命により九州の名護屋[なごや]城に下って能面を模刻した功により、文禄二年(一五九三)、秀吉から天下一の号を許す朱印状を与えられました。
一方、是閑は、『大野出目家伝書』によれば、文禄四年、やはり秀吉から朱印状を与えられたとされます。残された作品を見ても、彼はたしかに天下一を名乗るにふさわしい技量をそなえていたように思われます。
是閑は、この焼印を効果的に用いました。しばしば焼印に緑色の顔料を埋め込むのです。素地[きじ]に彩色の文字という点からいうと、例えば寺院の額や聯[れん]が思い当たります。銘を際だたせるという効果が指摘できます。
ところで、天下一とは、天下に並ぶものがいないのですから、諸職のなかの一分野に一人、せいぜい数人しかいないはずなのですが、やがて許可なく標榜するものが輩出するようになります。
看板などにも使われるようになり、誇大広告だということで、幕府は天和二年(一六八二)に、「天下一」の使用を禁じるにいたりました。
本来の意味を離れて、実質を伴わない、ありきたりの宣伝文句になってしまったといえるでしょう。(齋藤 望)
テーマ展「井伊家伝来の茶道具―花生[はないけ]と水指[みずさし]・建水[けんすい]―」より
花は野に在るが如く
さび竹二重切花生
日本で古くから仏前や書院の床を飾ってきた花は、やがて花の立て方に一定の方式を生み、しだいに技芸として整えられていきます。その先達となったのが池坊家[いけのぼうけ]ですが、一方では、これまでとは流れを大きく異にし、形式をあまり定めず、花そのものの美しさを生かす流儀も生まれてきました。前者の花の扱いを「立花[りっか]」、後者を「投入[なげいれ]」と称しました。
立花は、中国から伝わった古銅[こどう]や青磁などの容器に、花のある木を釘や針金などを用いて立てました。これに対して投入は、『華道全書』によれば「山野沢地の花の出生を其のままそのなりになげいるゝを投入の本意とする」もので、用いる容器も雑器が主体でした。
こうした投入の伝統が、やがて茶の湯の世界に「わび茶」が普及するとともに取り入れられて、茶の湯の花として文字どおり開花することになります。投入の伝統は、「花は野に在るが如く」に生けよと唱えた千利休[せんのりきゅう]の美意識に、いともみごとに適っていたのです。用いる容器の名称も、立花の華瓶[けびょう]に対して、花を投げ入れるところから、花入[はないれ]または花生[はないけ]と称されました。花生は茶室の床の間に置かれ、時に掛けられましたが、茶室がしだいに小間になるにつれて小型のものが用いられ、その種類も古銅や青磁とともに、わびた風情の強い日本の陶器や漆器・籠・瓢[ひさご]そして竹などを素材にしたものが加わりました。
写真は、小堀遠州[こぼりえんしゅう]の子、小堀権十郎[ごんじゅうろう]作の竹花生です。竹の上下二重に花間[はなま]を切ったもので、竹の表面にあらわれた「さび」が枯淡な味わいを見せています。
(谷口 徹)
直弼[なおすけ]と宗猿[そうえん]
桑木地寿字蒔絵雪吹
安政四年(一八五七)十一月二十七日、彦根藩江戸藩邸で、藩主井伊直弼[いいなおすけ]が自ら亭主をつとめる茶会(自会)が催されました。主客として招かれたのは片桐宗猿[かたぎりそうえん]。宗猿は、直弼が茶の湯の師と仰いだ石州流[せきしゅうりゅう]の茶匠です。
この年の夏ごろ、直弼は自己の茶の湯の集大成である『茶湯一会集[ちゃのゆいちえしゅう]』を完成しますが、完成にいたるまで宗猿には、確認できるだけでも十三通の書状を出して、茶の湯について不明な点をたずねています。当日の茶会は、『茶湯一会集』の完成を師とともに祝う意図があったのかもしれません。
茶会の記録(茶会記)をみると、直弼は当日の茶会のためにさまざまな茶道具を取り揃えています。その一つに「桑木地寿字蒔絵雪吹[くわきじことぶきじまきえふぶき]」があります。この茶道具は写真のように現存していますが、調べてみると、実は宗猿が主客であることを考慮して、直弼が意図的に道具組みに加えたようです。
「桑木地寿字蒔絵雪吹」は桑の木地で作った雪吹形の薄茶器で、蓋の甲には「寿」の一字が金粉字形[きんぷんじぎょう]で大きく配されています。そして蓋裏には、やはり金粉字形で「九十二才 下条長兵衛(花押)」とあります。
下条長兵衛は石州流の祖片桐石州の長男信隆[のぶたか]のことです。信隆は長男として生まれましたが、庶子であったため別家をたてて下条を名乗りました。彼は後嗣に恵まれず、老年におよぶまで旗本一千石として幕府に勤仕しました。ようやく養子が決まり、老いを理由に職務を退くのは享保元年(一七一六)、実に九十二歳の時でした。そして、その年の四月一日に死去しています。この雪吹は、隠居して亡くなるまでの間に制作されたものでしょう。「寿」の字は、ようやく養子が決まり、晴れて隠居の身になったことを祝ったものでしょうか。
そして、この雪吹を納めた黒漆塗り箱の蓋表には朱漆で「寿字」、蓋裏にも「下条長兵衛賀好 片宗猿(花押)」の文字。宗猿は下条信隆の六代で、信隆を重んじ、信隆追善の茶会を百会催したことでも知られます。この作品は、初代の遺品に六代が箱書を記したものであり、いつの日にか宗猿から直弼に譲られたのでしょう。直弼はこのことを忘れず、当日の茶会に意図して道具組みに加えました。
なお、この日の茶会記には、後座のところに「花入一重切 銘高砂 片桐宗猿先生作 今日到来ニ付」と記されています。当日もまた、宗猿は直弼に譲るために、自作の竹一重切花生[たけいちじゅうぎりはないけ]を持参しており、それは直弼の配慮でさっそく茶席を飾ることになりました。
当日の茶会は、直弼と宗猿双方の相手を思いやる細やかな配慮で、心安らぐ茶席となったことでしょう。明けて安政五年、四月に直弼は大老に就任し、六月には日米修好通商条約に調印。そして九月に安政の大獄が始まるなど、あわただしく幕政に奔走することを考えると、この日の茶会は一入[ひとしお]感慨深いものがあります。
(谷口 徹)