彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 65

2004.6.1


button 彦根藩の相州警衛 ―三浦半島彩色絵図―
button テーマ展「譜代大名井伊家の儀礼」より 幕府儀礼にみる井伊家の立場
button テーマ展「書家・日下部鳴鶴と鳴鶴をめぐる人々」より 鳴鶴の心の師たち
button なぜ若江合戦図は描かれたのか


 

彦根藩の相州〔そうしゅう〕警衛〔けいえい〕
 ―三浦半島彩色絵図〔みうらはんとうさいしきえず〕

三浦半島彩色絵図

 弘化四年(一八四七)二月から嘉永六年(一八五三)十一月までの約七年間、幕府は彦根藩に対して、江戸(東京)湾の入り口にあたる相模国の三浦半島での異国船警備を命じました。
 具体的には湘南で有名な江ノ島(神奈川県鎌倉市)近辺から三浦半島の西側を南下し、半島先端の三崎・城ヶ島(三浦市)、さらに東に進んで浦賀(横須賀市)の手前あたりまで、距離にして約六十キロメートルにおよぶ地域を管轄し、三ヶ所の陣屋〔じんや〕と九ヶ所あまりの台場を築き、彦根藩士などおよそ三千人を動員して、江戸湾内に侵入しようとする異国船の警備に務めました。嘉永六年六月のペリー浦賀来航時、彦根藩は相州警衛の任務についており、多くの彦根藩士たちが黒船を目の当たりにしたものと思われます。
 彦根城博物館には、三浦半島全体を範囲とする相州警衛関連の絵図が六枚確認できますが、当絵図は縦約五十五cm・横約四十cmで、折り畳まれると掌〔てのひら〕に収まるもっともコンパクトなものです。絵図中、地名をあずき色で塗った所は彦根藩管轄の村、□は陣屋、△は台場を示し、村高や水深なども詳細に記されています。同じサイズで墨一色で描かれた絵図も残されていることから、当絵図をもとに何枚も書き写し、現地に赴く藩士たちに使用されたのかもしれません。
 

(齊藤祐司)

このページのトップへもどる



 

テーマ展 「譜代大名井伊家の儀礼」より
 幕府儀礼にみる井伊家の立場

将軍が寛永寺の歴代将軍御霊屋に参詣する際、井伊家が勤める先立役の次第を記した図。図中番号順に移動する。
将軍が寛永寺の歴代将軍御霊屋に参詣する際、
井伊家が勤める先立役の次第を記した図。
図中番号順に移動する。


 社会の中にはさまざまな立場にもとづく複雑な人間関係がありますが、それらを象徴的に示すものとして儀礼があります。何人もの人々が一堂に会する儀礼の場では、それぞれの立場や関係が、座る場所や服装・行為などで表現されます。
 江戸幕府が主催する儀礼では、井伊家の当主は儀礼の受ける立場となることもありますが、主催者側の役を勤めることもあります。それが持つ意味を考えることにより、井伊家の幕府内での立場を探ることができます。
 ここでは、将軍の恒例行事での井伊家の二つの役割をとりあげます。両方とも、井伊家や同じ家格の大名グループ「溜詰〔たまりづめ〕」の大名に課せられたものです。
 一つは、諸大名が江戸城に登城して将軍に対面する際のものです。諸大名は毎月三・四日程度恒例の儀礼日に登城して、決められた位置で将軍に対面して臣下の礼をとります。その日、将軍は居室から広間へ出て、諸大名と対面します。まず、御三家・溜詰大名が同じ部屋で対面します。それが済むと、将軍は別の部屋に移動して諸大名と対面しますが、溜詰大名はその場に列座します。その位置は、対面する将軍・大名を囲むように部屋の外縁に居並ぶ幕府役人の席のうち、将軍に近い所です。老中よりも将軍に近く、幕閣の中ではもっとも上座にあたります。
 もう一つは、将軍が先祖の御霊屋〔みたまや〕に参詣する際の役割です。江戸城内の紅葉山東照宮や寛永寺・増上寺にある歴代将軍の御霊屋に参詣するのは、将軍が江戸城から外出する数少ない機会です。目的地までは駕籠に乗って行きますが、御霊屋の前まで来ると乗り物を降りて、歩いて拝殿まで進みます。その時に将軍を先導してその前を歩くのが溜詰大名の役割でした。
 この二つの行為から見いだせることは、溜詰大名は、将軍が外出する際にはその側近くにあって将軍を守る役割があるということです。江戸城の中にあっても外様大名らが将軍と対面する場での着座は、外部の者と接触する将軍を警固することを意味します。
 井伊家はもともと、徳川家の武力を支える有力な部隊として活躍した家でした。強力な軍事力を背景に、京都に近い軍事上の拠点である彦根を治めていました。他の溜詰の家も同様の立場です。
 儀礼での井伊家や溜詰大名の行為が象徴していたのは、軍事力を背景に将軍の身を守る筆頭家臣グループという立場でした。

(野田浩子)

このページのトップへもどる



 

テーマ展 「書家・日下部鳴鶴と鳴鶴をめぐる人々」より
 鳴鶴の心の師たち

楊守敬書
楊守敬書


 彦根藩出身の日下部鳴鶴〔くさかべめいかく〕 (一八三八〜一九二二)は、日本近代を代表する書家として、つとに有名です。
 明治維新後には、官に就いて大書記官にまでなりますが、厚い信任を受けていた大久保利通〔おおくぼとしみち〕が暗殺された後、書の道一筋に生きていくことを決意します。時に四十二歳、決して早い出発ではありませんでした。
 実は鳴鶴には、門下生〔もんかせい〕という時期がありませんでした。鳴鶴自身、誰という師匠〔ししょう〕はいなかったと述べています。
 青年時代には、たまたま巻菱湖〔まきりょうこ〕(一七七三〜一八四三)の手本をもとに練習した時期もありました。のちには貫名菘翁〔ぬきなすうおう〕(一七七八〜一八六三)が揮毫〔きごう〕した屏風に感銘を受けますが、それはあいにく菘翁が没した年と重なり、入門することは叶いませんでした。
 明治十三年(一八八〇)、遂に鳴鶴にこの上もない幸運が巡ってきました。清国公使の随員として楊守敬〔ようしゅけい〕(Yang Shoujing:一八三九〜一九一五)が来日したのです。
 守敬は、書をよくし、金石学者〔きんせきがくしゃ〕として中国でも知られた人で、この来日は碑版〔ひばん〕や法帖〔ほうじょう〕を一万点以上携〔たずさ〕えてのものでした。鳴鶴は、巌谷一六〔いわやいちろく〕や松田雪柯〔まつだせっか〕らとともに守敬のもとに五年間通って研究に励むことにより、その才能を花開かせました。
 そしてこの経験が土台となり、後に鳴鶴は中国に渡航、高名な書家と交わる機会を得ます。
 このように鳴鶴は、複数の人の教えを通し、日々研鑽〔けんさん〕することによって自らの書風を確立していったのです。深い学識に裏付けられた鳴鶴の書は広く受け入れられ、書を志すあまたの人が鳴鶴の門を叩〔たた〕くことになります。
 

(木文恵)

このページのトップへもどる



 

なぜ若江合戦図〔わかえかっせんず〕は描かれたのか

若江合戦図(個人蔵)
牟礼孫兵衛所用兜
若江合戦図(個人蔵)
牟礼孫兵衛所用兜


 慶長二十年(一六一五)五月六日朝、河内平野生駒山西麓で徳川と豊臣の両軍が相まみえました。大坂夏の陣の若江合戦〔わかえかっせん〕です。井伊直孝ひきいる井伊軍は、敵将木村重成〔きむらしげなり〕を討ちとるなど、徳川方の勝利に大きく貢献しました。
 大坂夏の陣は徳川氏が政治支配体制を確立した戦いでしたが、井伊家にとっても、同陣での活躍は、その後の同家の地位の礎〔いしずえ〕となりました。とりわけ、若江合戦の勝利は、記念碑的に藩士の記憶に永くとどめられることになります。
 写真は、彦根藩士大鳥居彦三郎〔おおとりいひこさぶろう〕家伝来の若江合戦図です。本図は、昨年度、所蔵者から当館に寄託されました。画面左から右に堤を越え突撃する彦根藩井伊家の赤備〔あかぞなえ〕の軍勢を色鮮やかに描きます。中央には、大鳥居彦三郎が敵将牟礼孫兵衛〔むれまごべえ〕を鑓〔やり〕で討つ姿がみえます。
 これまで四点の若江合戦図が知られていました。従来の研究で、江戸時代後期に藩士五十嵐家が同家の活躍を描くために作成した図があることが指摘されています(竹村直美「若江合戦絵図について」、『彦根城博物館研究紀要』1号)。ただし、合戦図作成の根本にあった当時の藩士の心のあり様は明らかではありませんでした。
 大鳥居家の若江合戦図と関連資料は、この研究の空白を埋める内容のものです。大鳥居彦三郎が鑓で牟礼孫兵衛を討ち取る描写はこの図のみにみられ、他図では相討ちの様子を描きます。大鳥居家の武功を描く意図が明白です。これに加え重要なのは、同家に伝えられた合戦関係資料です。
 一つは、牟礼の討ち取りを藩家老に主張した大鳥居彦三郎の起請文〔きしょうもん〕です。元和元年(一六一五)と同二年の二通があります。牟礼を討ち取ったが、首はあとから来た別の藩士に奪われたとしています。最終的に、相討ちということで決着し双方の武功とされました。二つには、合戦で得た牟礼の兜〔かぶと〕です(写真)。嘉永五年(一八五二)に、大鳥居家では、屋敷内に祠〔ほこら〕を建て、牟礼大明神として兜を祀り、家の鎮護を祈りました。三つには、同家で最近まで行われた儀式です。端午の節句に、兜、合戦図、牟礼の位牌に黒豆の強飯〔こわめし〕と御神酒を供える慣わしでした。
 討ち取った敵将の霊を弔〔とむら〕い、その加護を願い、かつ家の歴史を確認し、家の永続を祈る。若江合戦図作成の根本には、武威・武功と結びついた武士の家意識と、先祖やかつての敵将など、家を成り立たせている先人を敬うという宗教意識が存在していたのです。
 

(渡辺恒一)

このページのトップへもどる


戻る