Hikone Castle Museum News 66
2004.9.1
桐〔きり〕 ―雅楽器・笙―
笙〔しょう〕は雅楽に用いる中国伝来の管楽器で、金属製の簧〔した〕(リード)を取り付けた長短十七本の竹管を匏〔ほう〕に差し込み、銀製の帯金具で束ねてあります。
「桐」の銘のあるこの笙は、京都の紫野〔むらさきの〕大徳寺から出たとの伝えがあり、竹管に、
僧行円、生年五十九 の針書銘が記されています。
行円〔ぎょうえん〕(一一五九〜 ? )は、奈良・信貴山〔しぎさん〕の僧で、笙の制作に巧みなことで知られていました。五十九歳は、鎌倉時代の建保五年(一二一七)にあたります。外箱の蓋表には「調子吉〔ちょうしよし〕」と墨書があり、行円作の名器として大事にされていたことが窺えます。
さて、匏には銘にふさわしく、桐文を蒔絵で散らし、さらに桑素地〔きじ〕の内箱にも、蒔絵で躍り桐をあらわしています。デザインが桐で統一されているのです(匏や箱は江戸時代の作)。
笙は鳳凰〔ほうおう〕の鳴き声を模して作ったという伝説から鳳笙〔ほうしょう〕とも呼ばれました。天下が治まる兆しとして出現する鳳凰は、どんな樹にでも留〔と〕まるというわけではありません。梧桐〔あおぎり〕に宿り竹実を食すと決まっていたのです。
鳳凰と桐、竹はセットとして扱われました。
ここでは文様としては桐しかあらわされていませんが、見る人にとっては、鳳凰(笙)や竹が、当然のこととして意識される仕掛けになっています。
(齋藤 望)
テーマ展 「彦根の黄檗寺院」より
彦根と黄檗宗〔おうばくしゅう〕との深い縁 〔えにし〕
隠元隆g像 部分 景徳寺蔵
江戸時代前期の承応三年(一六五四)、日本黄檗宗〔おうばくしゅう〕の祖・隠元隆g〔いんげんりゅうき〕が中国・明〔みん〕から来日しました。この来日を多くの日本僧が歓迎したのは、当時の仏教界の沈滞が背景にあり、明の仏教界屈指の高僧に大きな期待を寄せていたためと考えられています。
近江国(滋賀県)は、全国的にみても黄檗寺院の多い地域です。その熱心な信者は、近江商人と、彦根藩主井伊〔いい〕家及びその家臣たちでした。藩主の中では、第三代の井伊直澄〔なおずみ〕と四代直興〔なおおき〕の代に黄檗宗と積極的に関わっています。大檀那〔おおだんな〕に支えられた黄檗寺院は一般に、明治維新とともに苦難の時代を迎え、廃寺となったものも少なくありません。しかし彦根市には現在も、十ヶ寺もの黄檗寺院がその法脈を伝えています。
熱心な仏教信者として知られる四代直興との関係で特筆すべきは光林寺〔こうりんじ〕です。黄檗僧・雲巌道魏〔うんがんどうぎ〕に帰依〔きえ〕した直興は、元禄五年(一六九二)、雲巌が開山〔かいさん〕となった光林寺を、愛知郡竹原村(秦荘町竹原)から城下近くの犬上郡平田村(彦根市平田)に移転させ、大坂の陣での戦没者の供養などをさせています。翌九年には、親族の菩提〔ぼだい〕を弔うために本山万福寺〔まんぷくじ〕に永代祠堂金〔えいたいしどうきん〕百両を寄進し、本山の過去帳にその戒名が記されることとなります。
藩士の中では、家老の木俣〔きまた〕家が重要な役割を担っています。寛文二年(一六六二)、二代守安〔もりやす〕は、本山に十六羅漢像〔らかんぞう〕十六幅を寄進、隠元自身がそのことを偈〔げ〕に詠〔よ〕んでいます。また、木俣家に生まれた祐堂元蔭〔ゆうどうげんいん〕は、黄檗僧となって荒廃していた小野寺(栗東町小野)を黄檗寺院として再興するなど、自らが僧となっていることも注目されます。
さて、黄檗の一大事業といえば、鉄眼道光〔てつげんどうこう〕が、中国・明の大蔵経〔だいぞうきょう〕を覆刻〔ふっこく〕し、天和元年(一六八一)に完成した七千巻近い仏教叢書の刊行です。これは、宗派を超えて広く国内に流布し、世に鉄眼版、黄檗版と称されるものです。膨大な費用は鉄眼らの勧進〔かんじん〕により調達されましたが、ここでも彦根との深い縁をうかがうことができます。
鉄眼は、三代藩主直澄の伯母・亀姫〔かめひめ〕に請われて江戸の海蔵寺〔かいぞうじ〕の開山となりました。この寺が、江戸における刊行事業の基地となり、完成した鉄眼版に記された寄進者名には、この亀姫をはじめとする多くの彦根の人名が記されています。
彦根は、黄檗宗の歴史上、欠くことのできない重要な存在だったのです。(木文恵)
テーマ展 人権学習シリーズ「“老い”を考える」より
「叶〔かな〕わぬ隠居〔いんきょ〕 〜八木原太郎右衛門〔やぎはらたろううえもん〕俊身の場合〜」
八木原俊身隠居願書 部分
現在の日本のサラリーマンの社会では、六十歳定年制を取っている所が多いようですが、江戸時代の武士の社会ではどうだったのでしょうか。
彦根藩士八木原太郎右衛門俊身は、七代藩主井伊直惟〔いいなおのぶ〕の側役〔そばやく〕を二十年あまり勤めたベテラン藩士でした。享保二十年(一七三五)五月、直惟が三十六歳の若さで隠居しました。俊身は、直惟隠居後も彼の御附〔おつき〕使者として勤めていましたが、その翌年(元文元年)に直惟が亡くなってしまいました。この時、俊身は六十九歳でした。
実は、直惟が亡くなる二ヶ月前、俊身は耳が遠く、物覚えも悪くなり、内蔵の病いもあって服薬すれども効果がなく、馬の乗り降りも不自由になったとして、二度も隠居願いを提出していましたが、「心長く養生してそのまま勤めよ」と隠居は許されませんでした。三年後の元文四年(一七三九)二月になってようやく隠居を許されましたが、老後を楽しむことなく、翌年には亡くなりました。
このように、隠居したくても、その時々の状況によっては許されないこともありました。
(齊藤祐司)
松に吹く風
松は日本人にとって馴染み深い樹木のひとつです。枝が四方へ広がり、先が垂れた松―笠松―の姿は、風格と神々しさとを感じさせます。
実際に松の梢を過ぎる風の音に似ているというわけではありませんが、雅楽の楽器のひとつ箏の音は、なぜか「松風」に譬えられてきました。
古来、松風を詠んだ和歌は数多く伝えられています。
たとえば、天平十六年(七四四)、歌人として知られた市原王が、活道〔いくぢ〕の岡に登り、一本の松の木の下に集って宴会をしたとき詠んだのは、
一つ松 幾代〔いくよ〕か経〔へ〕ぬる 吹く風の 声〔おと〕の清きは 年深〔としふか〕みかも 『万葉集』という歌でした。ここでは、松の古木に吹く風の清らかさを率直に称〔たた〕えています。
松は中国では、千年の樹齢をもつ長寿の象徴であり、また常に緑を保つ常磐木〔ときわぎ〕として節操の高さを賞されました。この歌には、こうした感性が反映しているようです。
さらに、その実や葉、松脂〔まつやに〕を食べると仙人になることができるとの考えもありました。松は、仙界に通ずる要素も備えていたのです。
これに加え日本では、松を神の依代〔よりしろ〕とみる根強い信仰がありました。日本各地に年を経た古木があり、これらは、神が影向〔ようごう〕する聖なる樹木と見られていたのです。能舞台正面の鏡板に描かれる老松〔おいまつ〕も、演能の場に神が降臨し、能を享受する依代に他なりません。
箏の神妙な音は、聖なるものに訴える力を備えていました。その音色を愛〔め〕でて神が立ち現れます。人々は松の梢のそよぎに神の影向を感じ、その聖なる風が箏に吹き入って絃を鳴らすのです。
音を媒介に、人と神とが相通ずる回路として、松が捉えられていたと言ってよいでしょう。「松風」の言葉は、楽器が持っている本質をあらわしています。
また、茶の湯釜の湯のたぎる音も「松風」と呼ばれました。非日常の空間であった茶の湯興行の古い時代の記憶が、「松風」の言葉に残されたとみることもできます。
松風の音と、湯のたぎる音とが呼応し、神と人とが聖なる空間を共有するのです。芦屋釜に松文が多用されるのは、けして偶然ではありません。
日本の美術に松がモチーフとして使われる理由を、もう少し考えてみる必要があります。
(齋藤 望)