彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 67

2004.12.1


button 金色の煌めき ―能装束・唐織―
button テーマ展テーマ展「硯と煙草盆―井伊家伝来の調度―」より 硯と硯箱
button テーマ展テーマ展「井伊家伝来の刀剣―鎌倉時代の作品からー」より 「国宗」ちがい
button 大名の子どもの務め 〜家族で交わす儀礼〜


 

金色の煌〔きら〕めき ―能装束・唐織〔からおり〕

能装束・唐織

 洋の東西、そして時代を問わず、金や銀には、人を強く惹きつける何ものかがあるようです。
 これらは材質自体が、希少性や、輝きの美しさといった価値をもち、さらに延性や展性に富んでいるので、工芸品の絶好の素材でもありました。
 日本では、金や銀そのものよりも、箔〔はく〕や粉〔ふん〕が多用されました。仏像や漆工芸品に燦然〔さんぜん〕たる輝きを与え、さらには、紙や布の加飾にまで用いられたのです。
 料紙では砂子〔すなご〕、切金〔きりかね〕、野毛〔のげ〕などの多彩な技法があり、染織には金銀糸を織り込んだ金襴〔きんらん〕、金銀の箔で文様を摺りあらわす摺箔〔すりはく〕などがあります。
 能の装束には金襴が多く用いられます。もともと中国からの輸入品でしたが、天正年間(一五七三〜一五九二)に中国の工人が日本に製法を伝え、やがて京都・西陣で織られるようになったといいます。芸能の装束として、舞台の上できらきらと煌めく金色は、欠くことの出来ないものでした。
 金の延べ板を敷き詰めたようにも見えるこの唐織(江戸時代後期の制作)は、全体に金糸を織り込んだ重厚な一領です。上文様は牡丹〔ぼたん〕と椿〔つばき〕の花を納めた小ぶりの団扇形〔うちわがた〕とし、地間には躍り桐と七宝文〔しっぽうもん〕を散らします。金地に多彩な色糸が巧みに処理されています。
 マルコ・ポーロのいう「黄金の国ジパング」は、まさに金の効果を熟知した国であったといえます。

「唐織(金地団扇形に牡丹桐と七宝散文様)」はテーマ展『吉祥のデザイン−金のきらめき−』(平成17年1月1日〜1月25日)でご覧いただけます。

(齋藤 望)

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テーマ展「硯〔すずり〕と煙草盆〔たばこぼん〕―井伊家伝来の調度〔ちょうど〕―」より
 硯と硯箱

写真1 石製猿面硯
写真2 平目地雲竜蒔絵硯箱
写真1 石製猿面硯
写真2 平目地雲竜蒔絵硯箱

 書を認〔したた〕める時に墨をする道具が硯〔すずり〕です。硯の良し悪しが墨色の良し悪し、ひいては書の出来に関わるものであるだけに、書芸において硯は重要な道具です。そして、その硯を納める箱が硯箱〔すずりばこ〕です。
 写真1は江戸時代の石製の硯です。大きな硯を一回り大きな硯台〔けんだい〕に納め、鉄刀木〔タガヤサン〕という南方産の木材で作った蓋が付属しています。
 写真2は、同じく江戸時代の硯箱です。箱の中には、硯と木葉〔このは〕形の水滴〔すいてき〕、懸子〔かけご〕(筆や墨挿〔すみさし〕などが置かれていた)が納められています。箱の蓋表〔ふたおもて〕には、蒔絵〔まきえ〕や象嵌〔ぞうがん〕の技法を用いて雲海の中にうねる竜を表し、蓋裏や懸子には山水を描いています。
 写真1の硯台に支えられた大きな硯と、写真2の金色に輝く箱の中に小さく納まった硯、用途は同じでも形が大きく違います。この違いが生まれるのはなぜでしょうか。
 硯は、中国では、筆・墨・紙とともに「文房四宝〔ぶんぼうしほう〕」と呼ばれ、高級官僚であり一流の文化人でもある「文人〔ぶんじん〕」が書斎(「文房」)に備える道具として、硯そのものの造りの良さが求められました。中国の価値観を受け継いで、日本でも、室町時代以降の唐物〔からもの〕趣味の中で「文房四宝」が愛玩〔あいがん〕されました。写真1の硯は、そうした意識を背景にしています。
  一方、日本では、硯や筆などの道具をひとつの箱に納めることも、平安時代から行われました。それが硯箱です。硯箱は多くが漆塗〔うるしぬ〕りの箱でしたが、漆芸技法の発展とともにさまざまな装飾を施されてきらびやかな硯箱が造られるようになります。硯そのものよりも箱の美しさが注目されました。写真2の硯箱の背景には、そうした意識があります。
 硯そのものが主役の写真1の硯と、硯を納める箱の煌〔きら〕めきが目を引く写真2の硯箱とでは、道具の主役となっているものは大きく違います。硯と硯箱に見られる形の違いは、それぞれが背景にもつ文化を物語っています。
  大名家では、硯と硯箱は、ともに、屋敷内の座敷空間を飾る道具として使われることもありました。大名家に伝来する調度〔ちょうど〕には、多様な文化が幾重〔いくえ〕にも重なり合って受け継がれているのです。さまざまな形の道具から、その背後にある文化の豊かさと、それらをひとつに取り込んだ大名文化の奥深さを感じることができます。

「石製猿面硯」と「平目地雲竜蒔絵硯箱」は、テーマ展『硯と煙草盆−井伊家伝来の調度から−』(平成17年1月28日〜2月22日)でご覧いただけます。

(小井川 理)

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テーマ展「井伊家伝来の刀剣―鎌倉時代の作品からー」より
 「国宗」ちがい

「太刀 銘国宗(伯耆)」の地鉄(上)と「太刀 銘国宗(備前二代)」の地鉄(下) 部分
「太刀 銘国宗(伯耆)」の地鉄(上)と「太刀 銘国宗(備前二代)」の地鉄(下)


 「太刀〔たち〕 銘国宗〔めいくにむね〕(伯耆〔ほうき〕)」と「太刀 銘国宗(備前〔びぜん〕二代)」。当館所蔵の重要文化財の太刀二口〔ふり〕は刀工銘(名前)を同じくします。
 「国宗」と銘を切る刀工は、国や時代を違えて何人も存在しました。文化九年(一八一二)の『御代々御指料帳〔おんだいだいおんさしりょうちょう〕』(彦根藩井伊家文書)は伯耆国宗の太刀を、多くの国宗の中でも有名な備前三郎国宗の作だとしています。
  伯耆国宗はよく備前三郎国宗と混同されました。備前では三郎国宗を初代に、国宗を名乗る刀工は三代まで続いたと伝えます。もう一口の太刀は、この備前国宗の二代目の作です。
 筆跡と同様、銘を刻〔きざ〕む鏨〔たがね〕跡にも特徴があり、同名であっても判別が可能です。しかし、それ以上に刀身そのものが語ることが重要となります。その一つが刀の肌模様(地鉄〔じがね〕)です。
 どの刀も同じように見えるかもしれませんが、じっくり観察すると、樹の木目に喩〔たと〕えられる模様が浮かびあがってきます。そこには各流派の特徴や刀工の個性までもが表されるのです。
 伯耆(鳥取県西部)と備前(岡山県南東部)では素材の鉄をはじめ鍛錬方法も異なりました。それが地鉄の違いとなって現れています。備前二代の約〔つ〕んだ(引き締まった)地鉄と比べると、伯耆国宗の方は幾分荒くて黒みがかり、他の伯耆の刀工と共通する点が見られます。
 伝来はそれとして、刀身自信がうったえるものを読み取る必要があります。

「太刀 銘国宗(伯耆)」と「太刀 銘国宗(備前二代)」はテーマ展『井伊家伝来の刀剣−鎌倉時代の作品から−』(平成16年11月27日〜12月22日)でご覧いただけます。

(坪内 広子)

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大名の子どもの務め
〜家族で交わす儀礼〜

直容・直致の附役日記より
直容・直致の附役日記より
井伊直弼のお七夜祝儀の記事


 江戸時代の大名をとりまく社会では、大小さまざまな儀礼が繰り返されていました。正月や歳暮〔せいぼ〕・節句(三月三日の桃の節句や七夕など)といった年中行事、藩主やその家族の冠婚葬祭〔かんこうそうさい〕、藩主が参勤交代で帰国・出発する時など、さまざまな儀礼があります。その場に応じて、言葉を述べたり品物を贈りました。
 このような日には、大名家の子どもたちも藩主の家族という立場から儀礼に臨みました。
 例えば、跡継ぎ以外の男子は、幼少期を過ぎるとまとまって城内の一つの屋敷に住むことが多かったのですが、祝儀の際には表御殿にのぼって藩主にあいさつをしました。他の屋敷に住む歴代藩主の側室などにあいさつに行く祝儀日もありました。体調不良などにより、本人が直接あいさつに出向けない場合には、附役〔つきやく〕の家臣が使者をつとめました。
 品物を贈答することもあります。五月五日の端午〔たんご〕の節句には、殿様に祝儀の品として干鯛〔ひだい〕一折を差し上げ、殿様・正室それぞれから子どもたちへも干鯛が贈られました。殿様の誕生日には鏡餅を一飾り差し上げています。当日は、本人は直接あいさつに出向きますが、別に家臣が贈り物を持参しました。
 このように、行事ごとにあいさつに行ったり贈り物を交わす内容は、詳細な規定がつくられており、先例にのっとって日々繰り返されていました。
 では、大名家の子どもが儀礼に加わるのはどのくらい成長してからでしょう。
 文化十二年(一八一五)、井伊直弼〔なおすけ〕は槻〔けやき〕御殿で誕生しましたが、直弼の叔父にあたる直容〔なおなり〕・直致〔なおむね〕の附役が記した日記には、直弼の生誕七日目にあたる十一月五日にお七夜〔しちや〕の祝儀として「御出生様」(名付け前の呼び名)に鯣〔するめ〕一折を差し上げ、直弼の父母・兄には祝いを述べる使者を遣わしたと記されています。返礼として御出生様から二人へも鯣が届けられました。
 つまり、生まれて間もない乳児であっても、本人の名義で贈答がおこなわれていたことがわかります。もちろん、実際には周囲の者が手配をしますが、すでに大名家の一員と見なされ、儀礼の主体となっていることがわかります。
 大名家の子どもは、個別に生活費が支給されており、それぞれに附役の家臣が置かれ、家族であっても経済的には各自が独立した存在でした。子どもであっても立場に応じて日々の務めがあり、生活や行動は規制される部分もあったのです。
 

(野田 浩子)

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