2005.6.1
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能面・蔵王 |
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収蔵品紹介 清水動閑作 竹二重切花生 |
能面・蔵王〔ざおう〕
この何とも雄偉〔ゆうい〕な面は、現行の能面には類例のない形です。満面を金泥〔きんでい〕彩とし、室町時代に遡〔さかのぼ〕ろうかという古格があります。獰猛〔どうもう〕な動物を思わせる肉厚な感じが特徴的です。
さて、何という名前の面で、何に使うのでしょうか。
江戸時代の人も困ったらしく、面袋の題箋〔だいせん〕に墨書で、天保四年(一八三三)に宮門〔くもん〕が、この面は蔵王であると申し上げたということが記されています。宮門は加賀藩の能役者、波吉〔なみよし〕宮門のことと考えられます。
蔵王は、奈良・吉野の金峰山〔きんぶせん〕に坐〔い〕ます金剛〔こんごう〕蔵王権現のことです。謡曲「国栖〔くず〕」では、大海人皇子おおあまのおうじ〕が吉野に逃れたときにあらわれ、また「嵐山」では、桜満開の京都・嵐山に来現して、世を祝福します。
これらの曲では、蔵王には大飛出〔おおとびで〕を使うのが普通ですが、替面として専用の蔵王という面がありました。仏像の四天王などの神将形〔しんしょうぎょう〕に近い忿怒相〔ふんぬそう〕に作られます。ところが、それと較べてみると、この面はまったく系統を異にし、どちらかというと、悪尉〔あくじょう〕系の泥蔵王〔でいざおう〕、という特殊な面に通ずるところがあります。ただ、泥蔵王が髭〔ひげ〕を植毛するのに対して、こちらにはそれがありません。
江戸時代には使われなくなっていた形替わりの古面の使用方法を考えたとき、泥蔵王との類似から、蔵王が思い浮かんだということでしょう。
江戸時代の能面の、いわば類型的な型の美とは異なり、作者の息づかいが聞こえてくるような、古面の魅力に溢れています。(齋藤 望)
岡山・林原〔はやしばら〕美術館の名宝
―国宝の太刀〔たち〕と大名道具―
7月24日(日)〜8月22日(月)期間中無休
太刀 銘吉房
池田家歴代画像
「縄武像」のうち
池田光政部分
白綾包桶側五枚胴具足
桐鳳凰図屏風 (左隻)
清明上河図 (部分)
竹菱葵紋蒔絵調度
のうち厨子棚
花鳥堆朱食籠
色絵人物花鳥文大壷
肩衝茶入 銘淀
林原美術館は、岡山の実業家・林原一郎氏(一九〇八〜六一)が、岡山藩主池田家より引き継いだ伝来の品々と、同氏が蒐集〔しゅうしゅう〕した日本・東洋美術コレクションを広く公開するために、昭和三九年(一九六四)十月に開館しました。
岡山城天守閣を東に望み、江戸時代の長屋門を構える美術館は、日本の古美術を収蔵する特色ある博物館として広く知られています。
一万点におよぶ収蔵品は、刀剣や甲冑〔かっちゅう〕・武具をはじめ、絵画・書跡、能面・能装束、漆工、陶磁器など多岐の分野にわたります。この中には、国宝の「太刀〔たち〕 銘吉房〔めいよしふさ〕」「太刀〔たち〕 銘備前国〔めいびぜんのくに〕長船住左近将監長光造〔おさふねじゅうさこんのしょうげんながみつぞう〕」を筆頭に、重要文化財や重要美術品に指定された作品が多く含まれ、充実した内容を誇っています。
本展覧会は、林原美術館の所蔵品から名宝を選りすぐり、彦根の地で紹介するものです。
□展示の構成
1 岡山池田家
池田家は織田信長〔おだのぶなが〕の乳兄弟〔ちきょうだい〕であった池田恒興〔つねおき〕を祖とします。信長死後、恒興は豊臣秀吉〔とよとみひでよし〕にくみしましたが、小牧〔こまき〕・長久手〔ながくて〕(愛知県)の合戦で嫡男〔ちゃくなん〕と共に戦死しました。秀吉は、息子と孫を失った養徳院〔ようとくいん〕(池田恒興母) を、長文の見舞い状「豊臣秀吉書状 養徳院宛」で慰めています。書状の言葉どおり、秀吉は恒興の二男輝政〔てるまさ〕を取り立て、徳川家康〔とくがわいえやす〕の娘を輝政に嫁がせました。
その後、輝政は関ヶ原〔せきがはら〕の合戦では東軍に属し、戦後は播磨〔はりま〕五十二万石を領して姫路〔ひめじ〕に住みました。国宝姫路城は輝政の築城です。
輝政の孫である光政〔みつまさ〕の時代、元和三年(一六一七)に鳥取へ、さらに寛永九年(一六三二)には岡山へと国替〔くにがえ〕となりました。光政から岡山池田家三十一万石の藩政が始まります。
画巻「縄武像〔じょうぶぞう〕」は岡山池田家初代藩主・光政の姿を伝えます。名君の評判が高かった彼は、約三十三年間にわたり、二十一冊にも及ぶ「池田光政自筆日記」を残しました。また、彼の夫人・勝子(二代綱政〔つなまさ〕母)は徳川秀忠〔ひでただ〕の子・千姫(天樹院〔てんじゅいん〕)の娘であり、母が嫁いだ娘へ送った「天樹院書状」も伝えられています。
二代綱政所用とされる「白綾包桶側五枚胴具足〔しろあやつつみおけがわごまいどうぐそく〕」は、花菱繋〔はなびしつな〕ぎ文様の白綾で胴を包んだ、格調高く華やかな当世具足〔とうせいぐそく〕です。光政所用と伝える「黒塗竪矧胴具足〔くろぬりたてはぎどうぐそく〕」や、五代治政〔はるまさ〕の夫人・米子着用の「立涌文威二枚胴具足〔たてわくもんおどしにまいどうぐそく〕」といった甲冑、「黒漆塗泊蝶紋蒔絵馬櫓〔くろうるしぬりとまりちょうもんまきえうまやぐら〕」や「梨地桐泊蝶紋蒔絵床几〔なしじきりとまりちょうもんまきえしょうぎ〕」が、西国の雄藩・岡山池田家の歴史を物語ってくれます。
2 備前刀〔びぜんとう〕
林原氏の蒐集は、刀剣から始まりました。備前刀が八割を占める刀剣コレクションには、氏の鑑識眼〔かんしきがん〕の高さを示す名刀がそろっています。本展覧会では、二口〔ふたふり〕の国宝とともに、重要文化財「太刀〔たち〕 銘正恒〔めいまさつね〕」、重要美術品「刀〔かたな〕 銘延房作〔めいのぶふささく〕」が並びます。平安末期から鎌倉時代にかけて備前(岡山県)で作られた刀の魅力を、たっぷり味わってください。
3 書・絵画
大名家には、家の格に相応しい書跡や絵画が集められました。重要美術品「後陽成天皇宸翰消息〔ごようぜいてんのうしんかんしょうそく〕 三の宮宛」は、池田家に伝来した書跡の中でもその最たるものといえます。
金地に鮮やかな彩色の重要美術品「桐鳳凰図屏風〔きりほうおうずびょうぶ〕」は、代々将軍家の御用絵師を務めた狩野派〔かのうは〕の画家が江戸初期に描いた優品です。古来より鳳凰は瑞兆〔ずいちょう〕として喜ばれました。
重要文化財「清明上河図〔せいめいじょうかず〕」には、春の訪れを祝う清明節〔せいめいせつ〕を題材に、中国・北宋の都であった開封〔かいほう〕の賑わいが活〔い〕き活〔い〕きと描かれます。万歴五年(一五七七)に趙浙〔ちょうせつ〕が描いた当巻は、数ある類品のなかでも高く評価され、春の情景のなかに遊ぶ人々の緻密な描写は、鑑賞者を画中に引き込む力を持っています。
4 能
江戸時代に武家の式楽〔しきがく〕として重視された能楽は、各大名家で盛んにおこなわれました。特に池田家は、歴代藩主が殊の外これを好んだために、質・量ともに抜群の能装束が揃えられました。その伝来品を引き継いだ林原美術館の能装束コレクションは、国内有数のものとなっています。
5 調度
本展覧会の柱の一つとなるのが、厨子棚〔ずしだな〕・黒棚〔くろだな〕・書棚〔しょだな〕が揃った「竹菱葵紋蒔絵調度〔たけびしあおいもんまきえちょうど〕」です。紀州徳川家から将軍養女となって伊達〔だて〕家へ嫁いだ、利根姫の婚礼調度であると考えられています。大名にとっての婚礼は、自らの権威をあらわす場でもあったため、三百種を数える品目が揃えられました。本作品は大名婚礼調度の全貌を示す貴重な遺品といえます。スタイルが統一された煌びやかな調度セットから、大名文化の絢爛豪華さがうかがえます。
6 陶磁・茶
林原氏は鑑賞美術の眼で東洋陶磁を集めました。特に近世色絵磁器の一群は注目に値します。
優美で軽快な柿右衛門〔かきえもん〕様式の「色絵人物花鳥文大壺〔いろえじんぶつかちょうもんおおつぼ〕」をはじめ、肥前〔ひぜん〕地方の色絵磁器には、江戸時代における最先端の技術が光っています。
「肩衝茶入〔かたつきちゃいれ〕 銘淀〔めいよど〕」は茶の湯における「名物〔めいぶつ〕」ですが、林原氏は瀬戸焼の優品としての価値を重視しました。自由な美意識によるコレクションといえるでしょう。
※ 「 」内は展示作品。
〈その他の主な展示作品 金梨地鞘赤銅金具打刀拵、百人一首手鑑 土佐光起筆、平家物語絵巻 巻第三 中 辻風の事、牡丹図 酒井抱一筆、破れ垣に蔦と梶の葉文様繍入り摺箔、段に四つ菱入り菱並べ竜胆文様唐織、倚迢小面、松楓輪蝶紋蒔絵文台・硯箱 梶川銘、唐草輪蝶紋蒔絵茶弁当、舞楽図蒔絵冠台、蘭亭曲水宴螺鈿重食籠、染付月兔文皿、色絵蜀江文五寸皿、白磁印花草花文皿 定窯、瓢形水指 伊賀焼〉
「武家の生活と教養」より
大名家族〔だいみょうかぞく〕の日々〔ひび〕の暮〔く〕らし
天明3年(1783)
広小路御屋敷留帳〔ひろこうじおやしきとめちょう〕
(庶子屋敷日記の1冊)
井伊家の世継〔よつ〕ぎとなる以前の井伊直弼が、埋木舎〔うもれぎのや〕と称する屋敷で、茶の湯など諸芸の修養にはげんだことはよく知られている事実です。埋木舎の当時の正式名称は、尾末町御屋敷〔おすえまちおやしき〕。世継ぎ以外の男子、つまり庶子〔しょし〕が暮らす屋敷のひとつでした。
井伊家では、藩主は参勤交代〔さんきんこうたい〕により江戸と彦根を一年ごとに往き来し、奥方〔おくがた〕(正室、側室)は江戸で暮らしていました。子供は、世継ぎとなった男子は江戸、それ以外の男子は彦根、女子は江戸というように、住む場所が分けられていました。庶子が江戸で生まれた場合でも、一定年齢に達すると彦根に引っ越し、養育されたのです。
庶子は、藩から屋敷を割り当てられ、年齢の近い兄弟二人から三人がひとつの屋敷に暮らします。庶子の人数が多い場合、他の屋敷に分かれました。また、父親である藩主の兄弟にあたる一世代前の庶子たちもいました。それぞれの庶子屋敷には、付人〔つきびと〕、賄役〔まかないやく〕、抱守〔だきもり〕などの藩の役人が勤め、賄役がいることからもわかるように、庶子屋敷は独立した家計の単位となる家の組織でした。直弼の埋木舎もこの歴史の流れのなかに位置づくものです。
井伊家伝来の彦根藩井伊家文書には、庶子屋敷の付人が書いた日記、すなわち庶子屋敷日記が四〇冊余り伝えられています。日記の内容は、一言でいえば、庶子の行動記録。庶子が屋敷の奥向〔おくむ〕きから出てきてから戻るまでの表方での行動が細かく書かれています。毎朝行われる医者によるメディカルチェックである脈拍検査や、馬術に弓術などの武芸稽古、儒教書〔じゅきょうしょ〕の講読などの学問、馬の遠乗〔とおの〕りなどの鍛錬をかねたレジャー、さらには藩主や奥方ら家族との手紙や贈答品のやりとりなど、庶子の暮らしぶりが実によくわかります。
ここまで述べてきたのは、井伊家の庶子の生活に関することですが、実のところ、武士の日常生活に関する研究は、これまでもっとも未開拓なジャンルなのです。歴史小説や時代劇では武士の生活の様子がよく出てくるので意外に思われる方も多いかもしれませんが、これまでは藩の政治に関心が集中したことや、まとまった史料が少なかったこともあり、当時の古文書から厳密に武士の生活が復元されることは少なかったのです。
さいわい井伊家には庶子屋敷日記をはじめとして大名家族の生活に関する貴重な古文書や大名道具類があります。彦根城博物館では、「武家の生活と教養」というテーマを設け、館外の日本史研究者とともに共同研究を進めてきました。テーマ展「武家の生活と教養」は、共同研究の成果を発表することにより、大名家族の日常生活という未開拓分野に、観覧者の皆様をご案内するものです。(渡辺恒一)
「花鳥画の世界」より
花鳥〔かちょう〕のとりあわせ
芦雁図 狩野栄信画
井伊直弼賛
天に向かって鳴く雁〔かり〕、その傍〔かたわ」〕らには穂を垂れる芦〔あし〕、そして天上には大きな月。水墨で描かれたこの絵を見ると、深まる秋の静かな気配がしみじみと伝わってきます。
作者は、代々江戸幕府の御用絵師をつとめた木挽町狩野〔こびきちょうかのう〕家の伊川院栄信〔いせんいんながのぶ〕(一七七五〜一八二八)。四十代から五十代前半にかけてのもので、気負いのない、円熟味の感じられる佳品といえるでしょう。
絵に呼応して画面左上にしたためられた和歌の句は、「風わたる芦間に雁の声すなり雲ゆく月のすむにまかせて」。彦根藩十三代藩主の井伊直弼〔いいなおすけ〕(一八一五〜六〇)によるものです。
花鳥画とは、文字通り花(草木も含む)と鳥とを描いた絵のことで、実に多様なものがありますが、その中でも、本作品の「芦と雁」のように、定番と考えられたとりあわせがあります。早春は梅に鴬〔うぐいす〕、初夏は卯の花にホトトギス、秋はススキに鶉〔うずら」〕など。
ここ日本では、季節を特に花と鳥とで感じる伝統がありますが、そのイメージの源泉の多くは、古くから詠み継がれてきた和歌にあります。例えば、新古今和歌集に収められる歌「なく声をえやはしのばぬ郭公〔ほととぎす〕初卯〔はつう〕の花のかげにかくれて」。卯の花が咲き出したのにホトトギスの声が聞こえないというのです。当時、ふたつがセットとして考えられていたことがよく分かります。(木文恵)
収蔵品紹介
清水動閑作〔しみずどうかんさく〕 竹二重切花生〔たけにじゅうぎりはないけ〕
竹二重切花生 清水動閑作
底裏銘
千利休〔せんのりきゅう〕が侘〔わ〕び茶を大成すると、竹製の花生〔はないけ〕や茶杓〔ちゃしゃく〕が脚光をあびるようになります。竹という素材の持つ風情が侘び茶の精神性に合致したこともさることながら、漆工や金工などの特別の技術がなくとも茶人自らが創作することが可能な素材として、竹は大いに重宝されました。
写真は、彦根藩井伊家に伝来した竹製の花生です。底の長径は一一・二センチ、高さは三九・一センチ、胴廻りは三四・一センチ。生け口が上下に二つあることから、二重切と呼ばれる形状で、背の上部には小孔を穿って掛花生〔かけはないけ〕として用いることができるように作られています。堂々として安定感のある作ぶりで、上端の輪〔わ〕は不整形に節が抜かれて、どことなく野趣を感じさせます。
この花生は、底に記された銘と、それと同筆と考えられる箱書きから、江戸時代の茶人で、代々仙台藩の茶道を務めた清水家の二代目、清水動閑〔しみずどうかん〕が貞享二年(一六八五)秋に制作したものと考えられます。清水家六代道看〔どうかん〕の吟味書が付属し、動閑作であることを裏付けています。
動閑は、仙台藩初代藩主伊達政宗〔だてまさむね〕に仕えた清水家初代道閑〔どうかん〕の孫にあたります。初代道閑は、古田織部〔ふるたおりべ〕に師事した織部流の茶人でした。二代を継いだ動閑は、二代藩主忠宗〔ただむね〕の命により片桐石州〔かたぎりせきしゅう〕に師事し、大和小泉の地で十三年を過ごしたのち、寛文九年(一六九六)、茶道頭として四代藩主綱村〔つなむら〕に仕えます。貞享二年当時は、茶道組頭の地位にありました。
彦根藩十三代藩主直弼〔なおすけ〕は、安政三年(一八五六)八月二十六日表御殿天光室〔おもてごてんてんこうしつ〕の茶会で、清水動閑作の二重切花生を用いています。花生には、仲秋の茶会らしく、尾花が生けられていました。この時の茶会で用いられた花生が、おそらく写真の花生であったと考えられます。
茶人手ずからの竹花生は、茶人の創意を伝える道具として受け継がれました。直弼は、石州流を学んで自らも一派を立てることを宣言しており、動閑から続く石州流清水派とは同流異派とでもいうべき関係にありました。この花生がどのような経緯で井伊家に伝来したのかは不明ですが、石州直弟子であった動閑の花生は、直弼にとっても、一七〇年の年月を越えて敬慕の念を覚える道具であったことでしょう。(小井川 理)