
2005.12.1
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邪気をはらう神―鍾馗像 |
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当世具足のお洒落な着方 |
邪気〔じゃき〕をはらう神―鍾馗〔しょうき〕像
狩野永岳筆 当館蔵
鍾馗〔しょうき〕というと、五月五日の端午〔たんご〕の節句によく目にすることでしょう。五月人形のひとつとして飾られたり、幟〔のぼり〕に描かれたりと、現代でも比較的身近な神として親しまれています。
中国では古くから、鍾馗の像を年末年始に掛けて邪気をはらうという習慣があり、後世、それは五月五日の行事へと変わっていきました。
鍾馗に関する故事は色々ありますが、代表的なものは以下の話です。中国・唐の玄宗皇帝が病となったとき、夢に小鬼が現れて帝を悩ましたところ、大鬼が捕らえて小鬼を食い殺してしまいました。大鬼に何者かと尋ねると、「自分は終南山〔しゅうなんざん〕の鍾馗だ。官吏の登用試験である科挙〔かきょ〕で落第して自殺したが、帝に憐〔あわ〕れまれ、緑の袍〔ほう〕を賜〔たまわ〕って進士〔しんし〕の礼をもって丁寧に葬られた。この恩に報いるため、天下の災いを除く誓いを立てたのだ。」という返答。帝が夢から覚めると不思議と病は治っていたので、有名な画家・呉道玄〔ごどうげん〕に命じて鍾馗の姿を描かせたといいます。
鍾馗の定番の姿は、巨眼多髭、黒の冠をかぶり、長靴を履き、手には鞘〔さや〕から抜いた剣。小鬼をつかみ取る場合もあります。
ここで紹介する鍾馗の画は、江戸時代の終わりに活躍した京の絵師、狩野永岳〔かのうえいがく〕(一七九〇〜一八六五)が描いたものです。永岳は、桃山時代の有名な狩野永徳〔えいとく〕の高弟、山楽〔さんらく〕を祖とする京狩野家の第九代。二代山雪〔さんせつ〕の遺稿をもとに三代永納〔えいのう〕が編集した『本朝画史〔ほんちょうがし〕』には、山楽は鍾馗を描くことしばしばで、その画には霊験があったとあります。永岳もこの話を意識していたことでしょう、墨線の肥痩〔ひそう〕をはっきりとあらわして古様に描くことによって、鍾馗の猛々〔たけだけ〕しさを巧みに表現しています。
(木文恵)
「吉祥〔きっしょう〕のデザインー牡丹〔ぼたん〕―」より
百花の王と百獣の王
金梨地葵紋牡丹蒔絵鞍 金梨地葵紋牡丹蒔絵鐙
吉祥のデザインの多くは中国に起源をもちます。中国の人々は絵画に特定の意味を持たせ、願いを託してきました。特に、豊かさ・不老長寿・子孫繁栄などの願いが込められた絵は、「吉祥」を表すとして繰り返し表現されています。実と花が同時に付く蓮や、蔓〔つる〕に多くの実をつける瓜は、豊かさや生命力をイメージさせるものとして描かれました。また、「蝠〔フク〕」の音が「福〔ふく〕」に通じる「蝙蝠〔こうもり〕」のように、良い言葉と発音が共通するものも吉祥に組み込まれています。
吉祥文様の一つである牡丹は、姿の豊かさと絢爛〔けんらん〕さから花の王として好まれ、富貴〔ふうき〕の象徴として描かれてきました。絶世〔ぜっせい〕の美人にも喩えられ、盛唐〔せいとう〕の詩人・李白〔りはく〕は楊貴妃〔ようきひ〕を牡丹に見立てた詩を詠んでいます。中国における牡丹は、並ぶもののない百花の王であり、豊かさのシンボルであるのです。
鎌倉・室町時代に日本へ流入された宋・元文化の中には牡丹文様の工芸品も多数含まれていました。それらに影響され、日本でも牡丹文様がさかんに用いられるようになります。
絵画や工芸品、建築装飾など様々な形で表された華麗な牡丹は、意外にも多くの武具も飾っています。鎌倉後期の鎧〔よろい〕を彩〔いろど〕る牡丹は、よく獅子と組み合わされました。百花の王である牡丹と、百獣の王である獅子は、華やかさと強さの表現にぴったりだと思われたのでしょう。獅子と組み合わされた牡丹は、力に対する美のシンボルという役割を持ち、王者の象徴となっています。
このペアは、能や歌舞伎〔かぶき〕の「石橋〔しゃっきょう〕」により、広く人々に浸透していきました。咲き乱れる牡丹の間を獅子が勇壮に舞い、千秋万歳を寿〔ことほ〕ぐ「石橋」は、牡丹と獅子の結びつきを強化し、吉祥性をさらに高めています。
写真の金梨地葵紋牡丹蒔絵〔きんなしじあおいもんぼたんまきえ〕鞍〔くら〕・鐙〔あぶみ〕は、彦根藩十二代藩主井伊直亮〔いいなおあき〕が、文政十二年(一八二九)に十一代将軍家斉〔いえなり〕から拝領した、慶長六年(一六〇一)の銘記があるものです。武家の統領〔とうりょう〕が所持するに相応しく、煌〔きら〕めく金梨地に大輪の牡丹の花を高蒔絵で描き、中央に葵紋を配した豪華な鞍です。鞍や鐙の複雑な表面を巧みに生かした大胆なデザインの牡丹は、まさに百花の王として君臨しています。ここには牡丹しか描かれていませんが、この鞍や鐙を見た人々は百獣の王である獅子を連想したことでしょう。この牡丹は、富貴の象徴であるとともに強さも暗示しているのです。
牡丹は、中国から日本へ渡り、長い時を経るにつれて様々なイメージを身にまといますが、百花の王としての風格は変わらず、力強い吉祥のデザインであり続けています。(坪内広子)
「雛〔ひな〕と雛道具〔ひなどうぐ〕」より
大名家の雛道具
弥千代の雛道具のうち 長刀・長刀掛
雛祭〔ひなまつり〕の風習は、古来行われていた、三月初めの巳〔み〕の日(上巳〔じょうし〕、のちに三月三日に定着する)に自分の罪を人形〔ひとがた〕に移して水に流す上巳祓〔じょうしのはらい〕の行事と、平安時代に女児の日々の遊びであった「ひいな遊び」とが結びついて生まれました。江戸時代初期には、雛人形を年に一度、三月三日に飾る風習が定着し、雛人形とともに数々の雛調度を取りそろえた雛飾りが生まれました。
大名家では、雛と雛道具は女子の輿入〔こしい〕れに合わせて調えられ婚家に持参するもので、雛道具は婚礼調度のミニチュアとして揃えられました。本館には、彦根藩十三代藩主井伊直弼〔いいなおすけ〕の二女弥千代〔やちよ〕が、安政五年(一八五八)年四月二十一日に、高松藩世子〔せいし〕松平頼聰〔まつだいらよりとし〕に輿入れした時に持参した雛と雛道具が伝わっています。
弥千代の雛人形として伝わっているのは、次郎左衛門雛〔じろうざえもんびな〕という種類の立雛〔たちびな〕です。次郎左衛門雛は、京都の人形師雛屋次郎左衛門〔ひなやじろうざえもん〕によって創案され、宝暦年間(一七五一〜一七六四)から流行しました。雛屋は幕府御用もつとめ、大名家では次郎左衛門雛が好まれたと言います。
弥千代の雛道具は、貝桶〔かいおけ〕・三棚〔さんたな〕をはじめとして化粧道具・楽器・駕籠〔かご〕など、八十五件が現存しています。黒漆塗に根引〔ねび〕きの姫小松〔ひめこまつ〕、笹竹〔ささだけ〕、梅枝〔うめがえ〕からなる初々しい松竹梅文と井伊家の家紋である橘〔たちばな〕紋の蒔絵をほどこした、可憐で愛らしい一揃いです。
写真は、弥千代の雛道具のうち、長刀〔なぎなた〕と長刀掛〔なぎなたかけ〕です。武家の女性のたしなみでもあった長刀は、婚礼調度の一つとして揃えられることがあり、雛道具にも取り入れられたのでしょう。弥千代の雛道具には、ミニチュアの可愛らしさの中にも大名家の格式をうかがうことができます。(小井川 理)
当世具足〔とうせいぐそく〕のお洒落〔しゃれ〕な着方
朱漆塗紅糸威二枚胴具足(井伊直弼所用)のうち 腰当
『単騎要略』のうち 「両刀を帯びる」
展示している当世具足は、実際の鎧武者をイメージできるように着付けていますが、使っていない付属品もかなりあります。当世具足は驚くほどたくさんのパーツから成り立っており、当初の揃いがわかる具足から、そのことが実感できます。
例えば十三代藩主井伊直弼〔いいなおすけ〕の具足櫃〔ぐそくびつ〕に入れられた目録は、次のように記します。兜・半月(天衝)・頬当・喉輪・身甲(胴)・請筒・中祖伝(袖)・小手(籠手)・脇曳・佩楯・脛当・弓小手・綿入下召・袷下召・布下召・小袴・腰当・上帯・中帯・三尺手拭・下帯・脚絆・踏皮・草鞋・打替・弁当・武智(鞭)・軍扇・麾(采配)・唐ノ頭毛立物・目録・決拾・忍紐
この中で展示するのは兜〔かぶと〕から脛当〔すねあて〕まで、それ以外は滅多に出番がありません。名称で形態や使用法が分かる付属品もありますが、実物を見ても、着用法・使用法が想像できないものもあります。その一つが「腰当〔こしあて〕」です。
目録に「腰当 但〔ただし〕白羅紗〔しろらしゃ〕」とあるように、白絹製のわらじ型が紺色の布で縁取られ、両端に紐が付いています。わらじ形の中央にはベルト通しのように輪になった紺色の紐が、二つ並んで付いています。形は足に履くものにも見えますが、「腰当」という名前からは、腰にあてるコルセットのようなものが連想されます。実際は、一体どのように用いられたのでしょうか。
『単騎要略』の「両刀を帯〔お〕びる」の項に腰当の着用法が図解されています。この本は、甲冑を一人で着る人の為の指導書として享保二十年(1735)に出版されました。
図によると、鎧の上から腰当を身につけ、紐を腰に回して結びます。固定した腰当の輪には、打刀〔うちがたな〕を刃を下にして通しています。腰当は、本来なら刃を上にして帯に差す打刀を、太刀〔たち〕のように佩〔は〕く為の道具なのです。
江戸時代は打刀が主流でした。刃を下にして佩く太刀は戦闘形態の変化から使われなくなりましたが、儀式用としては残されていました。打刀と太刀は、それぞれに適した鞘に納められますが、当然使いやすさが一番に考慮されています。つまり、腰当を用いて打刀を佩くと、刀は抜きにくくなってしまうのです。鎧姿という臨戦体勢でありながら、態〔わざ〕と刀を抜きにくくするとは、理解しがたい行為です。
徳川政権時代には戦いは忘れられ、甲冑〔かっちゅう〕も実戦用ではなく、儀式の際に着たり、特別な日に飾ったりと、装飾性が重視されたものになりました。腰当も江戸時代になって登場します。格好の良さが追求されると、普段使いの打刀よりフォーマルな太刀が選択され、そこで腰当が発明されたのでしょう。
ちょっとしたお洒落のこだわりと感じられる腰当は、平和な時代の証〔あかし〕であると言えます。(坪内広子)