彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 72

2006.3.1


button 喜多流と井伊家ー謡曲悪魔払ー
button テーマ展「井伊家伝来の刀剣ー南北朝・室町時代の刀剣からー」より 十代藩主・直幸の脇指
button テーマ展「唐様のきらめきー井伊家伝来能装束からー」より 唐様
button 将軍に献上された彦根りんご

喜多流〔きたりゅう〕と井伊家〔いいけ〕ー謡曲悪魔払〔ようきょくあくまばらい〕


謡曲悪魔払 表紙
謡曲悪魔払 表紙
謡曲悪魔払 本文
謡曲悪魔払 本文

  江戸時代、武家の式楽であった能楽。彦根藩では、十八世紀末から十九世紀前半に隆盛期を迎えます。寛政十一年(一七九九)、十一代藩主井伊直中〔いいなおなか〕が七人の能役者を召し抱え、翌十二年(一八〇〇)には、彦根城表御殿〔おもてごてん〕に能舞台が開かれました。演能のための人と舞台が急速に整えられました。
 このような彦根藩の動きに深い関わりをもったのが喜多流でした。喜多流は、観世〔かんぜ〕・宝生〔ほうしょう〕・金春〔こんぱる〕・金剛〔こんごう〕とともにシテ方五流をなす有力な能役者の流派。十代藩主直幸〔なおひで〕や直中たちは、みずから喜多宗家〔そうけ〕の門弟となり、技能を伝授されています。井伊家伝来典籍には、謡本〔うたいほん〕など喜多流の能楽書が今もまとまって伝えられています。
 写真は、その内の一点で、「謡曲悪魔払〔ようきょくあくまばらい〕」と題する喜多流第九世喜多古能〔きたひさよし〕の著作。能の謡の技能伝授のために書かれたテキストで、古能の著作でもっとも有名なものです。井伊家伝来本の序と跋文〔ばつぶん〕には、天明七年(一七八七)八月付けの古能自筆による署名・花押〔かおう〕があり、また、表紙に雲母〔きらら〕をひき、金襴〔きんらん〕を題箋〔だいせん〕とする豪華な装丁〔そうてい〕となっています。この特徴から、喜多宗家から井伊家に献呈されたものである可能性が高いと考えられます。
 井伊家伝来の「謡曲悪魔払」は、江戸時代後期の喜多流と井伊家の関わりの深さをしめす一書とみられます。

(渡辺恒一)

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テーマ展
「井伊家伝来の刀剣ー南北朝・室町時代の刀剣からー」より
十代藩主・直幸〔なおひで〕の脇指〔わきざし〕


 
刀 銘月山定光作
刀 銘月山定光作

  山形県の月山〔がっさん〕東麓には鎌倉時代の末期から室町時代にかけて刀工集団が居住し、月山鍛冶と呼ばれました。月山派といえば「綾杉肌〔あやすぎはだ〕」といわれるように、刀の地肌(地鉄〔じがね〕)に、規則的に連なった大波と、その波の谷間に渦巻きのような模様があらわれる、独特な鍛〔きた〕え肌を特徴とします。
 しかし室町時代中期以降になると、月山派であっても綾杉肌を作らない刀工も出てきました。定光もその一人で、写真の刀は板目に杢目〔もくめ〕が交じる鍛えとなっています。刃長六十cmの鎬造〔しのぎづく〕りの刀身は、先の方が少し反り、刃文はスーッとまっすぐです。茎〔なかご〕はわずかに磨〔す〕りあげられ、下の方が詰まった感じで「月山定光作〔がっさんさだみつさく〕」と銘〔めい〕が刻まれます。定光は他に在銘の作が知られていないようで、この刀は貴重な資料であるといえます。
 室町時代には、刃を下にして佩用〔はいよう〕する太刀が廃れ、刃を上にして腰に差す刀が主流となるという、刀剣史上の大きな変化がありました。南北朝から室町時代にかけては争乱が絶えず、平時であっても油断ができない世情でした。太刀は、抜いて切るという二段階の動作が必要ですが、刀は抜いてから切るまでが一連の動作となり、より素早い反応が可能となります。戦乱の時代が、刀剣の新しい様式を生み出したのです。この定光も長さは短めですが、刀を差した時に表になる面に、作者の銘が刻まれる打刀〔うちがたな〕です。
 この刀は、室町時代の奥州から時間も距離も遠く離れた、彦根藩十代藩主井伊直幸〔いいなおひで〕(一七三一〜一七八九)の脇指として用いられました。文化九年(一八一二)に十二代藩主直亮〔なおあき〕が編さんした『御代々御指料帳〔おんだいだいおんさしりょうちょう〕』は、初代直政からはじまる歴代藩主が所用した刀剣についての記録です。刀と脇指という大小一揃の刀剣と、それに附属する鞘〔さや〕や鐔〔つば〕などの拵〔こしらえ〕に関する記述しかありませんが、この台帳から藩主それぞれの趣味や性格が垣間見えるようです。
 直幸の大小は豊後国藤原永行刀〔ぶんごのくにふじわらながゆきかたな〕・二尺六寸(刃長約七十八cm)と月山定光作・一尺九寸八分半(刃長約六十cm)。現在、このうち脇指と大小の拵が伝えられています。刀も長めですが、脇指は歴代藩主の中で群を抜いて長く、拵となると、それぞれ百二cmと八十cmになります。彼は身長の高い体格だったのかもしれません。そして大小とも室町刀を選んでいるところに、直幸の趣味があらわれています。
 定光の刀は、刀剣史の上でも重要な作品ですが、加えて江戸時代の彦根藩主の姿を窺い知る貴重な手がかりにもなっています。

(坪内広子)

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テーマ展
「唐様のきらめきー井伊家伝来能装束からー」より 唐様〔からよう〕
 
厚板 紅黒段替毘沙門亀甲稲妻雲竜波丸文様
厚板 紅黒段替毘沙門亀甲稲妻雲竜波丸文様

 日本の伝統的な文様は一般に、大きく「和様〔わよう〕」と「唐様〔からよう〕」とに分類することができます。和は日本、唐は中国のことを指し、和様が、繊細にして優美、やさしさを表現するのに対し、唐様は、大胆にして華麗、強さや威厳を示すものです。
 いかにも中国らしい文様に、竜〔りゅう〕や鳳凰〔ほうおう〕があります。いずれも想像上の動物で、天上界の使者であり、天子の象徴ともされます。聖なるものは、自らが発する「気〔き〕」や、超越的なことが起こるときに生じる瑞雲〔ずいうん〕と強く結びつき、セットであらわされることが多くあります。
 仏教において、理想の国王とされる転輪聖王〔てんりんじょうおう〕が所持する七宝〔しっぽう〕のひとつである輪宝〔りんぽう〕もまた、唐様の文様です。中国発祥に限らず中国を通じて日本に伝えられた異国風の文様を総称して唐様と称したのです。
 総体的にみると、和様文様が、草花をはじめとして身近なものを主題とすることが多いのに対し、唐様文様は、空想上のもの、抽象的なものが多いのが特色だといえます。文様には、その地での世界観や感性が反映されていると考えてよいでしょう。
 このテーマ展は、能装束にみる「唐様」の文様を紹介しようとするものです。能装束では、和様の文様が主に唐織〔からおり〕など女の役に用いられるのに対し、唐様は、狩衣〔かりぎぬ〕や厚板〔あついた〕など、主として男の役に用いられます。
 能装束の文様の視覚的な効果に加えて、文様のもつ意味をも併せて理解すると、能の深遠さをより深く感じることができます。

(木文恵)

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将軍に献上された彦根りんご

 
井伊直幸の大老期の「御内献上」品一覧
井伊直幸の大老期の「御内献上」品一覧

 りんごの産地といえば今は青森や長野が有名ですが、江戸時代末期から明治・大正頃は彦根でりんごが栽培され、当地の名産に数えられていました。
 そのりんごは、古くから日本に伝わる小粒な「ワリンゴ」という品種で、真夏に収穫されるものです。
 実はそれより以前、江戸時代中期に既に彦根でりんごが作られ、将軍にも献上されていたことがこのたび確認されました。
 彦根藩主井伊直幸〔なおひで〕が大老を勤めていた時期に、将軍に献上した品の中に「林檎〔りんご〕」の文字が見えます。
 大老になると、一大名として献上する恒例の品とは別に、何品かを将軍に献上していたようです。おそらく老中のしきたりに準じて、将軍本人の好みそうな珍しい品を差し上げていたのでしょう。
 直幸が大老職に就くのは天明四年(一七八四)十一月二十八日のこと。大老として新たに扱うことになった書類事務に関する記録中に、「御内献上」の品として次の五品が列挙されています。
 
   梅が原の小豆
   林檎
   菊の生花
   伊吹蕎麦〔そば〕
   寒紅梅
 
 これらの献上は大老就任の翌天明五年に設定され、りんごは同年七月五日に初めて献上されています。りんごの産地は記されていませんが、梅が原・伊吹(いずれも米原市)といった彦根藩領の特産品も並んでいることや、次に見るように直幸は若い頃に彦根でりんごを口にしていたことから、彦根産のりんごと考えることができます。
 直幸は二十四歳で藩主の跡継ぎとなるまでの約十年間、彦根城下の尾末屋敷に暮らしていました。寛延二年(一七四九)直幸十九歳の頃の家臣の日記に、藩士が自宅でとれたりんごを直幸の屋敷に持参した記事が見えます。その後も彦根を離れる宝暦四年(一七五四)まで、毎年藩士数名が交代で直幸のもとにりんごを届けています。
 直幸が将軍にりんごを贈ったのは、いわゆる「田沼時代」にあたり、権力者へ珍しい品を贈る風潮がありました。既に前年(天明四年)、老中・側用人ら幕政の中枢にいる者に暑中見舞いとしてりんごを贈っていることもわかっており、彼らの評判を確認した上で献上したのかもしれません。
 数ある産物の中で、自分をアピールできる贈り物として直幸が思いついたのは、若い頃に親しんだ彦根のりんごだったのでしょう。

(野田浩子)

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