
2006.6.1
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ある江戸詰藩士のはなし−「八木原俊胤奉公書」− |
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国宝・彦根屏風−屏風復活へのみちのり(1) 彦根屏風、修理へ 修理と調査方針を決定 |
ある江戸詰藩士のはなし−「八木原俊胤奉公書」−
八木原俊胤奉公書
寛延3年(1750)の江戸詰の記事
よく知られているように、江戸時代の日本は、300余りの大名家(藩)が日本各地にあり、それらを統率するのが江戸に本拠をおく徳川将軍家(幕府)でした。各大名は国元を本拠とする一方で、江戸の将軍のもとに参じ、奉仕をおこなわなければなりませんでした。この奉仕は大名が家臣を率い江戸におもむく軍事行動の形をとるものでした。これが有名な参勤交代の制度です。
譜代大名家の筆頭であった彦根藩井伊家もこの制度の例外ではなく、藩主は原則として1年ごとに江戸と彦根を往き来しました。2年間のうち1年は藩主は江戸に居ることになります。また、藩主の奥方や世継ぎらは常に江戸の上屋敷と中屋敷に居ました。元禄8年(1695)の藩主滞在時には、国元彦根には500名前後の知行取藩士〔ちぎょうとりはんし〕(領地を与えられた藩士)とその子息(召し出し後の者)がおり、一方、江戸には、彦根から江戸におもむいている170名前後の「江戸詰侍〔えどづめさむらい〕」、そのほか150名前後の「定江戸侍〔じょうえどさむらい〕」(江戸に常住し仕える藩士)が居ることがわかります。この人数は、知行取クラスの藩士の人数だけであり、奥女中〔おくじょちゅう〕、藩士の家来、奉公人などを加えると多数にのぼる人々が彦根藩に召し抱えられていました。交際費などを含め、江戸での出費や参勤交代の費用が藩の財政を圧迫したことはよく知られているところです。
ある一人の彦根藩士に即して江戸詰の状況をみてみましょう。藩士の名は、八木原太郎右衛門俊胤〔やぎはらたろううえもんとしたね〕。俊胤に関して「八木原俊胤奉公書〔やぎはらとしたねほうこうがき〕」(八木原太郎右衛門家文書、当館蔵)という彼の履歴を記した史料が伝わっています(写真)。俊胤は、享保7年(1722)に生まれ、天明3年(1783)に亡くなっています。62年間の生涯で9回計9年の江戸詰を勤め、53年を彦根で過ごしています。このように生涯全体を見渡すと江戸詰が大した負担になっていないように見えます。しかし、もう少しくわしく見れば話は変わってきます。
俊胤がはじめて江戸詰となったのは、寛保3年(1743)5月、22才の時。井伊家の若殿様の供が江戸での勤めでした。その後、若殿様の小納戸役〔こなんどやく〕となり、宝暦5年(1755)までの12年間は1年ごとに彦根と江戸との間を往復しています。ところが、宝暦4年に小納戸役の任を解かれると、足軽組を率いる物頭〔ものがしら〕の仕事が中心となり、一転して江戸詰がなくなります。以降、天明3年になくなるまでの28年間の内、江戸詰期間は2年半のみとなります。時期により、江戸詰の頻度が大きく異なり、それが就いている役職の変化、つまり小納戸役退役にもとづいていることがわかります。
当時、江戸詰は軍事出兵に準じるものとして、きわめて重要な勤めと考えられていました。そのためか江戸詰の期間は厳密に1年間となっています。1年を超える「詰め越し」は例外であり、手当の対象となっています。また、江戸詰藩士の彦根への帰還は、後任の江戸詰藩士が江戸に着任するのを待っておこなわれました。江戸詰が勤務の明き期間を生じさせてはいけない、まさに「詰め」の体制であったことがわかります。俊胤は29才の江戸詰の年、彦根で妻が亡くなりますが、そのまま1年の勤めを継続しています。
ところで、八木原俊胤の江戸詰で興味深いのは、藩主の参勤交代との関係です。普通に考えれば、江戸詰藩士は藩主の参勤交代の供として彦根・江戸間を往復するように思いますが、俊胤の場合、そうではありませんでした。多くは、側役〔そばやく〕・小姓役〔こしょうやく〕らが一つのグループとなって道中を往復しています。かつ、若殿様小納戸役時代の俊胤は、藩主の参勤交代とは逆のローテーション(藩主・江戸−俊胤・彦根。藩主・彦根−俊胤・江戸)に組み込まれています。つまり彦根にしろ江戸にしろ、藩主の留守ばかりを守る形となっています。延享4年から宝暦3年までの7年間をみると、藩主と俊胤が同じ場所に滞在するのは、彦根で51日、江戸で約8ヶ月となります。また、俊胤が物頭時代の例ですが、江戸に向かう俊胤が、江戸から彦根に帰国する藩主に、箱根でお目見しているようなケースもありました。
以上ような事態は、江戸詰期間が1年に区切られ、藩士をローテーションで回していることから生じる結果です。彦根藩に限らず江戸時代の藩、とくにその組織のしくみを検討する際、彦根と江戸を切り離して見るのではなく、双方の地にまたがる組織体としてとらえることがポイントになろうかと思います。その視点からすれば、藩主の留守ばかりを勤める藩士も、目立たないながらも、藩の運営を支えた不可欠な存在としてしっかり認識しておくことが重要だと思います。
(渡辺恒一)
国宝・彦根屏風−屏風復活へのみちのり(1)
彦根屏風、修理へ 修理と調査方針を決定
修理前の事前調査のようす
近世初期風俗画の傑作として知られる国宝・彦根屏風〔ひこねびょうぶ〕。この保存修理および科学的調査を18年度と19年度の2ヶ年にわたっておこなうことが決定しました。
彦根屏風の正式名称は「紙本金地著色風俗図〔しほんきんじちゃくしょくふうぞくず〕」。彦根藩井伊家に伝来したことから「彦根屏風」の名で親しまれてきました。平成9年(1997年)に彦根市が購入して以来、館を代表する作品として年に1回の特別公開を行ってきました。しかし、「彦根屏風」とはいいながら、現在は1面1面が切り離された額装〔がくそう〕となっているため、屏風の形に戻すことが長年の課題でした。来館者の方が、「彦根屏風はどこ?」と迷っている姿も何度かお見受けしました。また、経年〔けいねん〕の劣化により、一部に顔料〔がんりょう〕のうきなどが見られるようになりました。
よりよい状態で保存と公開とをおこないたい−。この思いにより、屏風の形に戻すと同時に、本紙の修理をするという方針が決まりました。あわせて科学的な調査をおこない、その結果を広く公開することにもなりました。調査は、彦根市と東京文化財研究所〔とうきょうぶんかざいけんきゅうじょ〕との共同で、修理は、市が文化庁と滋賀県と協議をしながら、保存修復の専門業者によっておこなわれます。
屏風に戻った初のお披露目〔ひろめ〕は、平成19年秋、彦根城築城400年祭の期間中の予定です。