Hikone Castle Museum News
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2006.9.1
築城400年記念特別企画展「百花繚乱−彦根歴史絵巻−」プレイベント 序の巻
元禄〔げんろく〕の大老〔たいろう〕 井伊直興〔いいなおおき〕
平成18年(2006年)10月27日(金)〜11月28日(火) 展示室1
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| 井伊直興画像 仙琳寺蔵 |
井伊直興(1656−1717)は、彦根藩4代藩主で、2度、幕府大老となった人物です。2代直孝によって築かれた井伊家の繁栄が直興の時代に一つの頂点に達しました。
彼が藩主を勤めた時期は、5代将軍徳川綱吉〔とくがわつなよし〕の治世から、新井白石〔あらいはくせき〕による正徳の治の頃までです。当時は、元禄時代に代表されるように、経済発展により民間活力が高まったため、支配者である武士も従来の考え方や行動を改めなければならない大きな転換期でした。
直興は、時代の変化に対応しつつ、その個性を発揮しました。新時代における主君への奉公のあり方を藩士に厳しく説き、藩の組織強化をはかり、また、領民1人に銭1文を寄進させ大洞弁財天堂を建立したように、武力に頼らない新スタイルの民衆支配政策をおこなっています。一方、槻御殿〔けやきごてん〕の造立など、大名文化が彦根に根付いたのも直興の時代でした。
本展示では、直興ゆかりの品や、彼の肉声をつたえる古文書を通して、その生涯と人物像を紹介します。
ギャラリートーク 10月28日(土)午後2時〜 学芸員 渡辺恒一
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「老中〔ろうじゅう〕奉書−修復を施し未来に伝える−」
平成18年(2006年)9月29日(金)〜10月24日(火) 展示室1
「彦根藩井伊家文書〔ひこねはんいいけもんじょ〕」(重要文化財)には、江戸幕府の老中から井伊家に宛てた「老中奉書」が約5000点あります。そのうち、水害に遭って開けられない状態になっていたもの約1000点の修理を進めています。これまでに修理の済んだものを披露するとともに、老中奉書が取り持つ幕府と井伊家の関係を探ります。
ギャラリートーク 9月30日(土)午後2時〜 学芸員 野田浩子
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「日本の楽器・笛−井伊家伝来雅楽器から−」
平成18年(2006年)12月1日(金)〜12月22日(金) 展示室1
井伊家12代直亮〔なおあき〕収集の雅楽器の中から、唐楽〔とうがく〕で使う
"竜笛〔りゅうてき〕"、高麗楽〔こまがく〕の
"狛笛〔こまぶえ〕"、そして神楽〔かぐら〕など日本古来の楽に使う
"神楽笛〔かぐらぶえ〕" の3種を紹介します。平安〜鎌倉時代制作の由緒を伝える古い笛、変わった作りや材質の珍しい作品があります。また楽器を収納する豪華な袋や箱も見どころです。
ギャラリートーク 12月2日(土)午後2時〜 学芸員 齋藤 望
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青根九江〔あおねきゅうこう〕−彦根出身で京で活躍した絵師−
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| 花鳥図 青根九江筆 個人蔵 |
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| 青根九江筆と伝える山水図と貫名海屋の款記 個人蔵 |
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今夏、江戸時代の彦根ゆかりの画人たちを紹介する展覧会を開催しました。在世当時は人気や実力があったにもかかわらず、今ではすっかり忘れ去られた人も少なくありません。ここでは、その最たる人、青根九江(1805〜54)を紹介します。
九江は、文化元年(1804)、彦根城下の下魚屋町(現在の彦根市城町)で藩主御用の茶屋を営む富商、青根三郎右衛門の子として生まれました。分家して山城屋と称し、本家の向かいに住んでいたといいます。彼がいつ頃京に出たのかはよく分かりませんが、山本梅逸〔やまもとばいいつ〕(1783〜1856)という有名な絵師の門人となって活躍しています。
当時、京に出て画を学ぶというのは一般に、財力のある家でなくては不可能なことでした。九江の弟の葆斎が、邸内に陶窯を築いて菓子器や焜炉などの陶器を制作していたという事実からも、青根家の富裕さは容易に想像できます。
九江の師の梅逸は尾張名古屋の出身で、華麗な色彩の南蘋派〔なんびんは〕風の花鳥画や、墨を活かした文人画風の山水図を得意とし、盟友の中林竹洞〔なかばやしちくどう〕とともに京に上り、ともに尾張文人画を代表する画人と認識されていました。九江の画は、展覧会開催当時に把握できていたのはわずか4点、そのすべてが花鳥画でした。師の梅逸ばりの南蘋派風のものですが、全体に、梅逸作品よりも平明で淡泊な印象を与えます。落款の文言は文人風の漢文調で、確かな文人意識を垣間見ることができます。
九江の京での活躍ぶりはよく分かっていませんが、人気を博した京の有名文化人名簿『平安人物志』の嘉永5年(1852)版に絵師として名前が登場することから、知られた存在だったことは確かです。同じく嘉永5年には、師・梅逸の古稀〔こき〕祝いとして100幅以上の中国画の名品を集めた書画会が催され、その目録作成を九江がおこないました。数多くの梅逸の弟子の中でも九江は、中心的な役割を果たしていたということでしょう。
九江にも弟子はいたようで、摂津国高槻出身の弟子2,3人からは、地元に来てくれるよう所望され、遊歴して歓待を受けています。また、その名前から息子と目される青根竹泉(1824〜?)は、九江の画風にかなり近い作品を遺してます。
九江の作品のうち、花鳥画ばかりが確認されるのは決して偶然ではないことを明言する好資料があります。それは、12枚の山水図に附属した款記で、江戸時代後期の儒学者で画人、書家でもあった貫名海屋〔ぬきなかいおく〕(1778〜1863)が記したものです。
それによると、この山水図は九江が描いたもので、彼の遺品の中から妻が見つけたものである、九江の作品は「花卉
毛〔かきれいもう〕」が大部分を占め、山水図は大変少ない、まだ款記がないので、九江の妻に依頼されて私がここに記す、といった内容です。
毛とは鳥獣のことなので、いわゆる花鳥画をたくさん描いたということになります。
九江は、嘉永7年(1854)4月27日、50歳で亡くなりました。海屋が款記の筆を執ったのはその年の梅雨の時分(旧暦の5月)なので、九江の妻は、すぐ遺品の整理をしたのでしょう。依頼先の海屋は、当時京で著名な文人で、梁川星巌〔やながわせいがん〕や頼山陽〔らいさんよう〕、中島棕隠〔なかじまそういん〕、小田海僊〔おだかいせん〕、そして山本梅逸など、多くの著名人との親交がありました。梅逸との関係から、海屋と九江も顔なじみであったことと思われます。ですから、「九江が花鳥画ばかり描いていた」と記したのは、妻からの報告によるものではなく、海屋自身が知っていた可能性も十分に考えられるでしょう。
しかしこの山水図、残念ながら落款が見あたりません。他の作品と比較しようにも見つかっていないので、100パーセント九江が描いたものとは言い切れないのです。目下のところ、九江の山水図は゛幻の゛と冠せざるを得ないというわけです。
(木文恵)
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国宝:彦根屏風−屏風復活へのみちのり(2)
科学的調査・保存修理はじまる
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| 調査のようす |
今年の5月29日〜6月2日および7月24日〜28日の日程で、彦根市と東京文化財研究所との共同で、彦根屏風の科学的な調査をおこないました。調査は、高精細〔こうせいさい〕デジタル撮影、赤外線〔せきがいせん〕撮影、蛍光〔けいこう〕X線分析装置による測定という、3つの手法をとりました。
高精細デジタル撮影では、紙の繊維の1本1本や顔料〔がんりょう〕の粒子の1粒1粒が認識できるほど詳細に観察することができます。肉眼でも大変細かく密であることが分かる彦根屏風ですが、拡大すると、その技法の確かさと細かさがより鮮明になり、驚嘆させられます。
蛍光X線分析では、顔料に含まれる金属元素〔きんぞくげんそ〕の種類と存在量が分かり、使用された顔料の推定や顔料の下で隠れて見えない金箔〔きんぱく〕などの存在を確認することができます。また、赤外線撮影では、墨で描かれた下書きの線などを認識することができます。
これら調査の成果は、来年度に調査報告書を刊行して、広く皆さんに知っていただこうと考えています。
彦根屏風は、7月31日、修理のために京都国立博物館の文化財保存修理所に運ばれました。この修理所に、国指定文化財の保存修復の専門業者が工房を構えているためです。次回は、修理の経過についてお伝えします。
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