
2006.12.1
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蠅を取るように敵を捕る −「金箔押蠅取形馬印」にこめられた願い− |
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国宝・彦根屏風−屏風復活へのみちのり(3) |
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展示のひとこま 彦根城博物館のお正月 |
| 文化財を守る心構え−1月26日は「文化財防火デー」です |
雛〔ひな〕と雛道具〔ひなどうぐ〕
平成19年(2007年)2月9日(金)〜3月18日(日) 展示室1
彦根藩13代藩主井伊直弼〔いいなおすけ〕の二女弥千代〔やちよ〕が高松藩世子松平頼聡〔まつだいらよりとし〕に輿入〔こしい〕れした際に調えられた雛道具を一挙公開します。実際の調度品さながらにつくられた、細やかで優美な雛道具に大名文化の粋をお楽しみください。併せて、寄贈・寄託いただいたさまざまな雛人形や段飾り・御殿〔ごてん〕飾りも展示します。
ギャラリートーク 平成19年2月10日(土)午後2時〜 学芸員 小井川理
吉祥〔きっしょう〕のデザイン−蓬莱〔ほうらい〕−
平成19年(2007年)1月1日(月・祝)〜2月6日(火) 展示室1
仙人が住まうという海の彼方〔かなた〕の島・蓬莱。中国では古来から、理想郷の姿としてイメージされてきました。日本では、蓬莱をあらわす松・鶴・亀のモチーフが松竹梅の組み合わせに受け継がれ、吉祥の意匠として定着します。井伊家伝来の美術工芸品にあらわされた蓬莱文様で、新春を寿〔ことほ〕ぎます。
ギャラリートーク 平成19年1月13日(土)午後2時〜 学芸員 小井川理
蠅を取るように敵を捕る
−「金箔押蠅取形馬印〔きんぱくおしはえとりなりうまじるし〕」にこめられた願い−
井伊家では、当主から家臣にいたる全員が朱漆塗りの甲冑を身にまとい、兜には金色の天衝〔てんつき〕という飾りをつけることが軍法で決められました。この決まりは、纒〔よろい〕や馬印についても朱色と定め、デザインや寸法等の細かいところにまで言及しています。赤一色で構成された井伊家の軍団は、「井伊〔いい〕の赤備〔あかぞな〕え」と呼ばれ、赤色は勇猛の証とされました。
例えば、戦場において大将の居場所を示す巨大な旗である纒は、朱の練絹〔ねりぎぬ〕に金で井桁の紋が大きくあらわされています。また、騎馬の藩士の具足の背に付ける指物〔さしもの〕は、朱地に金でそれぞれの名前を記し、上部には各家独自の「出〔だ〕し」を付けています。これらの仕様は、騎馬や鉄砲、弓などの軍役数とともに、藩主の代替わりごとに出された定〔さだめ〕で規定され、江戸時代を通じて守られ続けました。
纒や馬印、旗指物などは、集団戦の中での存在顕示の標識です。弓矢を主力とする騎馬を中心とした個人戦から、鉄砲や長柄の鎗〔やり〕による集団戦へと変わっていくなかで、従来の合戦には見られなかった戦法が生まれ、それに適した武具の改良が行われました。ことに馬印や指物は、敵味方を区別するため、また個人の存在をアピールして武功の証明をするために、集団戦において生まれた陣中道具であるといえます。
当館では数点の纒や指物を所蔵し、合戦用の馬印は2点伝存します。写真の「金箔押蠅取形馬印」は、大坂〔おおさか〕の陣〔じん〕で使用したものを写して、江戸時代に作られました。ラッパのような形状に木を貼り合わせて金箔を押し、朱漆を塗った練絹で作った袋を付けた、蠅取を象〔かたど〕る本体に、同じく朱漆を塗った練絹の細長い垂れが、本体下部にぐるりとめぐらされています。ラッパ形部分の高さは99.5cm、その下部の径は47.7cmと一抱えとなるような大きさですが、素材が木や布であるため見た目ほど重くはありません。写真では付属していませんが、竹を朱漆塗とした竿を付けると高さは325cmにもなります。
文政7年(1824)に作成された「御武器并御道具類絵図〔おんぶきならびにおどうぐるいえず〕」は、家中の先祖伝来の武具類と、それにまつわる伝承について調査したものです。この馬印の記述もあり、大坂の陣で使用されたことを伝えてくれます。
本陣用として遠くからも見えるように大型に仕立てた馬印は、武将の馬側で2人から3人が交代で持ちました。従来の騎兵戦にあっては流れ旗を用いていましたが、集団の歩兵戦が中心となって旗指物が増加するにあたり、その中で紛れてしまわないように、作り物を長柄の先端につける形式をとるようになります。そこで、この作り物が、それぞれの武将の個性が発揮される場となったのです。
有名な武将の馬印としては、織田信長〔おだのぶなが〕の唐傘、羽柴秀吉〔はしばひでよし〕の瓢箪に金の切裂、徳川家康〔とくがわいえやす〕の金の開き扇が知られています。蠅取形馬印も、初代藩主井伊直政〔いいなおまさ〕や2代直孝〔なおたか〕の名と共に知れ渡っていたようです。当館所蔵の関ヶ原合戦図屏風にも、この蠅取形馬印や、開いた扇の形をした家康の馬印など、幾つかの馬印を見ることができます。なぜ井伊家では、馬印に蠅取という器物の形象を選んだのでしょうか。
直政の時代から少し時が下った頃の史料ですが、「御直書御請留〔おじきしょおうけとどめ〕」の貞享元年(1684)の項に、蠅取の形は蠅を取るように敵を捕れるように、また当時「ハイトリ」と読んだ音が「早く取る」と通じるとして、直政が考案したとする由来が記されています。この項はさらに続けて、これまで直政の心のごとくに早く勝ちを取ってきたと述べています(中村達夫『井伊軍志−井伊直政と赤甲軍団−』による)。 蠅取形馬印は直政の闘志のあらわれであり、武功への願いが込められていたのです。
この馬印はその後井伊家において代々受け継がれていきます。それと共に、直政の願いや、これまで井伊家が築いてきた武功への誇りも、代々伝えられてきたのではないでしょうか。(坪内 広子)
国宝・彦根屏風−屏風復活へのみちのり(3)
保存修理−まずはじめに−
彦根屏風は、7月31日、京都国立博物館の文化財保存修理所に運ばれました。ここに、修復を依頼した国指定文化財の修理業者が工房を構えているためです。
絵画の修理というと、つい、本紙の繕〔つくろ〕い、顔料の剥落〔はくらく〕止め、裏打紙〔うらうちがみ〕の交換などといった作業を思い浮かべますが、決してすぐにこれらの作業にかかることはありません。なによりもまず初めに着手するのは、状態を把握するための調査です。
本紙のどこがどのように傷んでいるのか、紙や顔料の材質はなにか、制作当初部分はどこで後補部分はどこかなどを詳細に観察し、記録します。
調査内容の記録にあたっては、いくつかの方法をとります。そのひとつに、傷みなどひとつひとつを図面に起こしていく作業があります。これは、医療でいえばカルテにあたるもので、小さな虫喰い穴ひとつひとつも漏らさずに記していく、大変神経を使うものです。豊富な経験に裏付けられた高い見識と技術を併せ持った技術者によるこの作業は、まさに名医による診断に通じるものです。この記録をもとに今後の具体的な修理方針が決定されていくのですから、調査は大変重要な工程といえます。
これからいよいよ、本紙を下地から取り外す解体作業に入る予定です。
展示のひとこま
彦根城博物館のお正月
具足飾りの飾り付けをする学芸員
新年を迎えた1月1日から10日までの10日間、博物館では、展示室や能舞台、エントランスにお正月の飾り付けを行っています。
博物館前の広場には鮮やかな生け花が置かれ、玄関には注連縄〔しめなわ〕が飾られます。江戸時代に建てられた能舞台には、注連縄を張り、舞台の上に鏡餅〔かがみもち〕を供えます。そして、「井伊の赤備え」で知られる甲冑や刀剣などを展示する展示室では、藩主の甲冑〔かっちゅう〕の周りに「具足飾〔ぐそくかざ〕り」を施します。具足飾りとは、大名家で行われていた新年の行事で、甲冑のほか弓や太刀、鏡餅などを飾り付けるものです。この飾り付けは、年末の休館を控えた年内最後の展示替のときに、職員の手で行われます。
正月飾りは10日夜には撤収され、鏡開きとともに明けて11日には、博物館は普段の表情に戻ります。10日間だけの晴れやかな博物館、彦根城から見る初日の出と一緒に味わってみませんか?
文化財を守る心構え−1月26日は「文化財防火デー」です
昭和24年(1949)1月26日、奈良県斑鳩〔いかるが〕町の法隆寺金堂〔ほうりゅうじこんどう〕で火災が発生、奈良時代に描かれた金堂内壁画が焼損するという事件がありました。壁画の模写事業がおこなわれていた最中に起きた出来事でした。文化財保護行政の根幹をなす『文化財保護法』は、この痛ましい事件を教訓に文化財保護の一層の充実を図るため、翌昭和25年に制定されたものです。また、火災のあった1月26日は「文化財防火デー」と定められ、現在多くの博物館・美術館、史跡などでこの時期に防火訓練が実施されています。
彦根城博物館でも、毎年、消防署の指導のもと、職員全員で防火訓練を行っています。この日は、博物館に勤める者全員が文化財を守り後世に伝える責任を再確認する、大切な日なのです。
城山に向かって放水訓練を行う職員