彦根城博物館だより

Hikone Castle Museum News 76

2007.3.1


button 特別企画展平成19年3月21日(水・祝) 国宝・彦根城築城400年祭開幕!
彦根城博物館では、記念特別企画展
「百花繚乱−彦根歴史絵巻−」が始まります。
button 面打「愛智」のこと
button 国宝・彦根屏風−屏風復活へのみちのり(4)
button 教育普及活動のひとこま
はくぶつかんへ行こう 〜218名が「ひこにゃん掛軸」を作りました〜


特別企画展
平成19年3月21日(水・祝) 国宝・彦根城築城400年祭開幕!
彦根城博物館では、記念特別企画展
「百花繚乱〔ひゃっかりょうらん〕−彦根歴史絵巻〔ひこねれきしえまき〕−」が始まります。

巻の1 最強〔さいきょう〕の軍団〔ぐんだん〕−井伊〔いい〕の赤備〔あかぞな〕え−
平成19年(2007年)3月21日(水・祝)〜4月20日(金)
展示室1・2

写真

 「井伊の赤備え」とは、甲冑や旗指物〔はたさしもの〕などのすべてを赤一色とした、井伊家の軍装の呼び名です。徳川四天王の1人に数えられる初代直政〔なおまさ〕から14代藩主直憲〔なおのり〕までの歴代の藩主や、様々な家格の藩士の甲冑は、すべて朱漆塗で、兜に金色の天衝〔てんつき〕がついています。今回はその中から選りすぐりの17領をはじめ、赤と金で彩られた旗印や馬印、「井伊の赤鬼」と恐れられた軍団の活躍を描いた合戦図屏風をご紹介します。
 
ギャラリートーク 3月24日(土)午後2時〜 学芸員 坪内広子

巻の2 彦根城〔ひこねじょう〕と城下町〔じょうかまち〕−まちづくりのあゆみ−
平成19年(2007年)4月21日(土)〜5月18日(金)
展示室1・2

写真
御城内御絵図

 築城前には信仰の地であった彦根山。関ヶ原合戦後、ここに戦国時代の佐和山〔さわやま〕城の機能をあわせ持った拠点の城が築かれました。本展では、中世彦根山の信仰や戦国時代の佐和山城の様子といった築城以前の姿をはじめ、築城の経緯、城郭のかたちや城下の暮らしにいたるまで、彦根城の多様な側面を豊富な絵図や記録によって紹介します。江戸時代を通じて全国でも有数の都市であった彦根の姿をご覧ください。
 
ギャラリートーク 4月28日(土)午後2時〜 学芸員 野田浩子

巻の3 大名のおしゃれ−井伊家伝来・刀剣〔とうけん〕と刀装〔とうそう〕の名品−
平成19年(2007年)5月19日(土)〜6月15日(金)
展示室1・2

写真

 古来より刀剣は武器であるとともに、身分や権力の象徴でもありました。江戸時代の大名たちはこぞって名刀を求め、井伊家でも家格に合った刀剣が収集されています。また、鞘〔さや〕や鐔〔つば〕などの刀装は刀身と一体のものとして、名刀に相応しく贅を凝らして作られました。井伊家に伝来した大小揃いの拵〔こしらえ〕は40点余にのぼり、国内有数のコレクションといえます。
 刀剣と刀装の名品に見られる、大名のおしゃれ心をお楽しみください。
 
ギャラリートーク 5月19日(土)午後2時〜 学芸員 坪内広子

 

6月以降も巻の4から巻の8を順次開催します!
巻の4  決断!開国と大老井伊直弼 6月16日(土)〜7月20日(金)
巻の5  親子で楽しむ 一期一会−井伊直弼の茶の湯− 7月21日(土)〜8月24日(金)
巻の6  幽玄−井伊家伝来・能面と能装束の名品− 8月25日(土)〜9月27日(木)
巻の7  よみがえった国宝・彦根屏風と湖東焼の精華 9月28日(金)〜10月26日(金)
巻の8  戦国から泰平の世へ−井伊直政から直孝の時代− 10月27日(土)〜11月25日(日)

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面打「愛智〔えち〕」のこと
 

 今見る能面が、どのようにして形づくられてきたのか、わからないことがたくさんあります。その作者についても同様で、能面が独自の展開を遂げた南北朝から室町時代の面打〔めんうち〕については、名前は伝わっているけれども、その実像となると、とんとわからない、というのが現状でしょう。
 そうした能面創作期の面打のようすを伝える資料に、世阿弥〔ぜあみ〕(1363?〜1443?)の芸話を、次男元能がまとめた聞書『申楽談儀〔さるがくだんぎ〕』があります。ここでは、短い言葉で簡潔に能面や面打について語られています。この中の面打について述べた箇所では、

近江〔おうみ〕には、赤鶴〔しゃくづる〕〔サルガク(申楽)也〕、鬼の面の上手〔じょうず〕也。近比〔ちかごろ〕、愛智打〔えちうち〕とて、座禅院〔ざぜんいん〕の内の者也。女の面上手也

とあり、近江に愛智という面打がおり、女面の名手として知られていたことがわかります。観世座に愛智が打った面があったことは、

愛知の打手〔うちて〕、面共〔めんども〕打て、近江申楽に遺物〔ゆいもつ〕しけるが、大和名人とて、世子〔ぜし〕の方へ、岩童〔いわどう〕して送りし遺物の面、今宝生太夫〔ほうしょうだゆう〕の方にある女面、顔細き尉〔じょう〕の面、是也〔これなり〕、時々、源三位〔げんさんみ〕に彩色〔さいず〕きて着〔き〕られし也

また、

此座〔このざ〕の、ちと年より(寄)しく有〔ある〕女めん(面)、えち(愛智)打也〔うちなり〕、世子、女のう(能)には、是をき(着)られし也

とあることからもわかります。愛智は世阿弥から高い評価を得ていた面打と言うことができます。「愛智の打手」とあるところからみると、愛智は個人の名前と言うよりは、愛智に住んでいる面打、というニュアンスが感じられ、また、近江申楽の日吉座と関係があったことも知られます。
 ところが江戸時代には、まったく違った説が流布していました。愛智(史料によって、越智〔えち〕、越知〔えち〕とも書いています)は、能面創作期の代表的な十人の面打である「十作〔じっさく〕」のひとりに数えられ、世襲面打家の児玉〔こだま〕家の所伝に依った、喜多〔きた〕流宗家9代の喜多古能〔このう〕(1742〜1829)の『仮面譜』(1797年序)では、

越智吉舟 人皇百代後円融院〔ごえんゆういん〕永和年中(1375〜1379)の人、和泉国〔いずみのくに〕貝塚住、越智姓の人

としています。なぜか和泉の人であるとするのです。大野出目〔おおのでめ〕家の、『大野出目家伝書』(寛政4年頃か)も同様の説を記しますから、江戸時代の面打家の間では、貝塚住が通説となっていたのでしょう。
 またこの他に、越前〔えちぜん〕の越智〔おち〕山の僧であったと記す伝書もあります。越智山といえば、越〔こし〕の大徳〔だいとく〕として名高い奈良時代の僧、泰澄〔たいちょう〕にゆかりの大谷寺があり、中世の能面制作に関わりが深いとみられる土地です。愛智が越智とも書かれたことからきた発想とみてよいと思います。江戸時代には、確たる伝えは、ほとんどなかったという状況だったことがわかります。こうした諸説が登場するのは、『申楽談儀』が一般には知られていなかったことが大きな要因です。
 しかし『申楽談儀』に「近江には……」とあることからすれば、近江の面打と考えるのが筋です。室町末期の成立かという『舞芸六輪之次第』には、

ふか(深)いめん(面)とは、江州えち(愛智)と申す所に、仏し(師)あり、このさと(里)に、ふかいと申す武士、此女の面をうた(打)せてもち(持)たるゆへ(故)に、ふかいめんといふ也、面、四十はかり(許)なる女のかほ(顔)をうつ(写)したる面也

とみえ、愛智に住んでいた仏師が中年の女面である深井〔ふかい〕の面を打ったとあります。この時期までは、愛智が近江の面打であるという伝えがあったのです。
 さて、愛智は「座禅院の内の者」とありますから、座禅院配下の人ということになります。その活動時期も、『申楽談儀』に「近比〔ちかごろ〕」とあることから、『申楽談儀』の成立した永享2年(1430)前後と考えられます。
 座禅院は延暦寺の一院で、比叡山麓坂本にあり、日吉社の行事に関わったり、また盛んに経済活動を営み、時には実力行使も辞さないことから、「悪党」と呼ばれることもある有力者でした。坂本中が焼き払われた永享6年(1434)の山門〔さんもん〕騒乱では、翌年、延暦寺の根本中堂に火を放ち自害する行動に出ています。
 この座禅院が、日吉社領の愛智庄を管理していました。座禅院と愛智との接点がここにあります。愛智庄の正確な庄域は明らかでありませんが、彦根市西部を含む琵琶湖に接した地域が想定されています。永享3年には、座禅院珍全と知生坊実全父子が、愛智下庄の延寿寺(彦根市稲里〔いなざと〕町)とその近くにあったらしい霊山寺との山林境相論に際して、延寿寺衆徒〔しゅと〕と共に霊山寺に向けて発向したことが知られます(「御前落居奉書」)。面打愛智は愛智庄を本拠とし、座禅院を通じて近江申楽と関係していたとみてよいでしょう。
 また、浄土教の一派で中世に広がりをみせた時宗〔じしゅう〕の『時衆〔じしゅう〕過去帳』に、座禅院に関する興味深い記載があります。15代遊行上人〔ゆぎょうしょうにん〕(?〜1429)条に、
  重阿弥陀仏〔じゅうあみだぶつ〕〈近江座禅院〉
  其〔き〕阿弥陀仏〈座禅院近江〉
  覚〔かく〕阿弥陀仏〈同〉
と、3人が名を連ねているのです。面打愛智とほぼ同時期のことです。過去帳には、近江では、小野・高宮〔たかみや〕・多賀〔たが〕といった地名が出てきますが、座禅院はここにしか出てこないので、時宗に関係する者がいたのは一時のことであったのかもしれません。時衆が、芸能に深い関わりを持っていたことを考えると、日吉社と座禅院、時衆、近江申楽、面打という連関がたどれるようにも思われますが、想像はこれくらいにしておきます。

(齋藤 望)

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国宝・彦根屏風−屏風復活へのみちのり(4)
 進化する文化財修理

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 修理中の彦根屏風は現在、画面全体のクリーニングと脆〔もろ〕くなった絵の具の剥落〔はくらく〕止めをし、本紙の裏に貼られた肌裏紙〔はだうらがみ〕を除去する工程に入っています。
 クリーニングは、画を水平に置き、噴霧〔ふんむ〕した水とともに汚れを下方に流出させる方法をとります。アルコールで強制的に汚れを通過させる方法もありますが、金箔〔きんぱく〕や厚い絵の具層がない部分のみが目に見えてすっきりし、全体の仕上がりが不自然になる可能性があるため、自然に除去できる段階で止めました。
 剥落止めは、絵の具の亀裂〔きれつ〕の間に膠〔にかわ〕水溶液を極細の筆で塗っていきます。顕微鏡〔けんびきょう〕を覗〔のぞ〕きながら、わずか5ミリ程度の範囲を塗っては指で押さえ、ある程度の面積になったら重しを置いて落ち着かせます。
 そして、いよいよ肌裏紙を除いて本紙1枚のみの状態にします。伝統的には、水で十分に湿らせ、糊〔のり〕がゆるんだら肌裏紙を一気に取り除くという方法をとります。しかし近年の文化財修理では、作品への負担の軽減などを考え、少量の水で少しずつ肌裏紙の繊維〔せんい〕をほぐして取り除く方法をとるようになってきました。膨大〔ぼうだい〕な時間がかかるのが難点ですが、なによりも作品保存を優先して考えます。
 文化財修理は、伝統的な方法を基本としながらも、日々よりよい方法を模索〔もさく〕して進化し続けているといえます。

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教育普及活動のひとこま
はくぶつかんへ行こう 〜218名が「ひこにゃん掛軸」を作りました〜
 
写真 写真

 5年目となる「はくぶつかんへ行こう」では、中学生へも募集の輪をひろげ、彦根市内の小・中学生あわせて218名を迎えました。今年度のテーマは、日本の伝統的な絵画形態に注目した「まきもの・くるくる−ミニ掛軸〔かけじく〕を作ろう−」。日本の古美術品に馴染みのない現代の子ども達に、コンパクトにして収納できる掛軸・巻子〔かんす〕・屏風〔びょうぶ〕の機能的な仕組みを伝えようと、学芸員が知恵をしぼってメニューを考案しました。
 まず、国宝・彦根城築城400年祭キャラクター「ひこにゃん」のぬり絵を、自分たちの手でミニ掛軸に仕立てます。このミニ掛軸を、当館特製のミニ矢筈〔やはず〕を使って壁に掛けたり、外してクルクル巻いたり、どの子も熱心に繰り返していました。
 掛軸の次は絵巻と屏風です。当館木造棟の畳の部屋で複製品を鑑賞しました。ガラスケース内の作品からでは実感できない、絵巻の長さや屏風の大きさに驚き、皆歓声をあげながら覗きこんでいました。その後に展示室で見る"ほんもの"は、今までよりグッと身近なものとなったようで、次々と感想や質問が飛び出しました。盛りだくさんな内容の2時間となりましたが、参加者全員とても楽しそうでした。

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