
2007.6.1
| |
「百花繚乱−彦根歴史絵巻−」 巻の4・巻の5・巻の6 |
| |
研究余録 金亀玉鶴 |
| |
国宝・彦根屏風−屏風復活へのみちのり(5) |
「百花繚乱〔ひゃっかりょうらん〕−彦根歴史絵巻〔ひこねれきしえまき〕−」
好評開催中の「百花繚乱−彦根歴史絵巻−」巻の4・巻の5では、彦根出身の最も著名な人物・井伊直弼に連続して注目します。巻の4 決断〔けつだん〕! 開国〔かいこく〕と大老井伊直弼〔たいろういいなおすけ〕平成19年(2007年) 6月16日(土) 〜 7月20日(金)
展示室1・2
井伊直弼画像(彦根・清凉寺蔵)
安政5年(1858)、すでに西洋列強国と和親条約を結び、開国への一歩を踏み出していた江戸幕府は、さらにアメリカから通商条約締結を強く求められていました。しかし、孝明〔こうめい〕天皇・朝廷の条約調印反対や、幕府の主導権争いにより、政治は大きく混乱しました。この難局に幕府大老に起用されたのが彦根藩13代藩主井伊直弼〔いいなおすけ〕(1815−1860)です。直弼は、日米修好通商条約をはじめとする諸外国との通商条約を締結しましたが、天皇の許可なく条約調印したことが敵対勢力から攻撃され、対立はさらに深まります。その結果、安政の大獄〔たいごく〕での敵対勢力の弾圧、ついには江戸城桜田門外〔さくらだもんがい〕での直弼暗殺という事態に至り、幕府は崩壊への道を進んでゆくことになりました。
直弼は、開国にともなう幕府の危機にどのように対処し、政治的決断を行わなければならなかったのでしょうか。本展示では、日本が国際社会に組み込まれるなか、苦悩しつつも困難に立ち向かった一人の人間、井伊直弼の実像を、当時の古文書・絵画資料により紹介します。
ギャラリートーク 6月16日(土) 午後2時〜 学芸員 渡辺恒一
巻の5 親子で楽しむ 一期一会〔いちごいちえ〕−井伊直弼〔いいなおすけ〕の茶〔ちゃ〕の湯〔ゆ〕−平成19年(2007年) 7月21日(土) 〜 8月24日(金)
展示室1・2
夏休みに合わせ、彦根が生んだ大茶人に注目する展示を開催します。
彦根藩13代藩主井伊直弼は、幕末の政治家として有名ですが、同時に、江戸時代後期を代表する大名茶人としても茶道史に名を残す人物です。ゆかりの茶道具や資料が物語る直弼の茶の湯を、親子で楽しめる分かりやすい展示で紹介します。
ギャラリートーク 7月21日(土) 午後2時〜 学芸員 小井川 理
夏休み特別企画:親子で展示を見ながら、井伊直弼の茶の湯について学びませんか?
◆◇◆ 親子でギャラリートーク・学芸員さんと展示をみよう ◆◇◆
8月11日(土)、8月18日(土) いずれも午後2時〜 学芸員 小井川 理
巻の6 幽玄〔ゆうげん〕 −井伊家伝来・能面と能装束の名品−平成19年(2007年) 8月25日(土) 〜 9月27日(木)
展示室1・2
井伊家に伝来した能面・能装束は、面は230面あまり、装束は小道具まで含めると900点あまりにのぼり、演能に必要なほとんどの種類を網羅する大揃いです。本展は、これらの中から選りすぐりの名品を一堂に披露するものです。微妙なニュアンスをもつ能面、華やかで洗練された感性が光る能装束の魅力をお楽しみください。
ギャラリートーク 8月25日(土) 午後2時〜 学芸員 木文恵
研究余録 金亀玉鶴有能な外交官 −井伊直政〔いいなおまさ〕の政治手腕−
井伊直政画像(部分)
井伊直政はどのようなイメージを持たれているでしょうか。徳川家康〔とくがわいえやす〕の重臣で「徳川四天王」に数えられますが、「井伊〔いい〕の赤備〔あかぞな〕え」を率いる大将という以外、案外その活躍は知られていないのではないでしょうか。そのため、天正18年(1590年)に徳川家臣筆頭となる12万石の領地を得たことについて、納得できる説明ができず「禄〔ろく〕ある者は権〔けん〕少なく」と言われることもあります。
では、直政が家康の筆頭家臣となり得た理由はどこにあったのでしょう。
1つには、井伊家の家柄が考えられます。井伊家は、遠江国井伊谷〔いいのや〕を本拠とする古くからの名家です。直政2歳の時に父親が今川家のために暗殺されたため、直政は井伊家の再興を期待され、15歳で徳川家康の家臣となりました。家康にとっても、遠江の名門である井伊家を家臣とすることはメリットがありました。家康は武田旧領の甲斐・信濃を手中に収めると、地元の武士に対して徳川配下に入るよう交渉しますが、これを担当したうちの中心的な1人が直政でした。隣国にも知られた名前は交渉に役立ったことでしょう。
また、豊臣秀吉〔とよとみひでよし〕政権のもとで、家康重臣たちは秀吉から官位を授けられますが、直政は、秀吉の陪臣〔ばいしん〕としては唯一、大名並みの「侍従〔じじゅう〕」の位を得ています。その明確な理由はわかっていませんが、のちの記録には、直政が名門の家柄を秀吉に主張した結果という説が記されています。
では、直政が登用されたのは、その出自のためだけだったのでしょうか。
豊臣秀吉死去後、関ヶ原合戦を経て家康が天下を取るまでの政治過程の中で、直政の活躍は目に見張るものがあります。
秀吉の死をきっかけに、家康と他の大老・奉行らとの間で確執が強まる中、家康の傍にあって諸勢力と実際に交渉したのが直政でした。直政は敵・味方とも有力な相手と交渉していますが、単に家康の意図を伝えるのではなく、その場で判断できる全権委任された立場にありました。直政が特に接した相手として、石田三成〔いしだみつなり〕に反感を抱く豊臣有力武将が確認できます。中でも、黒田長政〔くろだながまさ〕とは互いに起請文を交わして盟約を結び、黒田の徳川への忠誠をとりもっています。この盟約がのちに威力を発揮しました。関ヶ原合戦では黒田を介した交渉で小早川秀秋らを徳川方に寝返らせ、これが勝利の主要因となったことはよく知られています。
当時、家老級の家臣のうち榊原康政〔さかきばらやすまさ〕と本多忠勝〔ほんだただかつ〕は国元におり、直政のみが家康の傍にいたため、このような働きをしたのですが、この時期に直政が上洛していたのは偶然ではありません。彼らは交代で在京することになっていましたが、直政は本来の滞在期間を延長して1年以上にわたって働き、政情が安定した慶長4年7月にようやく帰国できたのでした。家康にとって政治の主導権を掌握できるかどうかの正念場のこの時期に、直政が必要とされたのです。
また、関ヶ原合戦の前には、関東にあった諸隊が石田三成の挙兵を聞いて引き返しますが、そのうち先手隊として東海道を西に向かった豊臣諸将をとりまとめたのが直政でした。病気のため出発は遅れ、本多忠勝が代理をつとめますが、直政でないと彼らをまとめられなかったためか、病が癒えるとすぐに合流しています。石田三成を討とうと、はやる諸将を尻目に、家康はなかなか江戸を出発しませんが、いらだつ彼らを離反させずに決戦にまで持ち込んだのは、直政の統率力によるといえるでしょう。
さらに、直政は重要な決断を家康に促しています。家康が清洲〔きよす〕(愛知県)までやってきたとき、中山道を進む徳川秀忠〔ひでただ〕隊はまだ到着していませんでした。当初計画では、秀忠率いる徳川本隊を待って、徳川勢が揃ってから決戦に臨むことになっていました。しかし、直政はここで秀忠隊を待たずに即刻決戦に臨むよう主張したのです。三成憎しと挙兵した諸将は、岐阜城を予想以上の勢いで落とした後、大垣城にいる敵を目の前にしていながら、家康の到着を待つようにと言われており、手出しできずにいました。家康到着後も攻撃を開始しなければ彼らは単独で三成を攻撃しかねないと判断し、直政は即時決戦を主張したのでしょう。
そのように考えると、関ヶ原での開戦時に直政が先鋒である福島正則〔ふくしままさのり〕隊より前に出て抜け駆けし、開戦の火ぶたを切ったのは、徳川本隊不在の決戦を唱えた自分自身の手で戦略上の弱点を克服しようと取った行動だったのではないかと考えられます。
江戸幕府が編さんした大名家の系図『寛永諸家系図伝』で、直政を「開国の元勲〔げんくん〕」つまり幕府を開いた第一の功労者と讃えています。直政の卓越した外交能力が関ヶ原合戦での勝利に結びついたことを考えると、実力相応の評価というべきでしょう。今では、幕末の大老井伊直弼をそのように評しますが、そのルーツはここにあったのです。(野田 浩子)
国宝・彦根屏風−屏風復活へのみちのり(5)本紙の裏から分かること
彦根屏風第3扇の裏面(部分)
長い年月を経て伝えられてきた文化財の多くは、幾たびかの修復を経て現在に至っています。絵画は一般に、本格的な修復をおこなうと150年から200年はもつと言われます。江戸時代初期の1600年代に制作された彦根屏風もまた、修理の跡を確認することができます。
絵画には、修復のときにのみ見られる箇所があります。それは、絵が描かれた本紙の裏面です。通常本紙には、丈夫にするために、裏打紙〔うらうちがみ〕という紙が貼り付けられています。本格的な修復の際には、裏打紙をめくって新しい紙に取り替えるため、裏面が見えるのです。
本紙の裏面を観察することによって、表面からは分からないことが確認できる場合があります。彦根屏風では、金箔〔きんぱく〕に関することが新たに分かりました。
通常、絵を描いている部分には金箔は貼られていません。つるつるした金箔の上に顔料〔がんりょう〕をのせるのが困難なためです。ただし、箔と顔料の境目に隙間〔すきま〕ができないよう、箔が少し顔料の下に入り込む形をとります。彦根屏風の金箔は、顔料の下にほとんど入り込むことなく、大変綺麗に貼られていました。神経を集中させて、1枚1枚を丁寧に貼っていったことと思われます。
彦根屏風の魅力のひとつは、驚嘆すべき細かさです。今回の裏面の確認により、隠れて見えない部分にまで神経を行き届かせていたことが明らかになりました。彦根屏風の価値は、さらに高まったといえるでしょう。