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| 関ヶ原の合戦後、慶長6年井伊直政が佐和山城に入り、石田三成の遺領18万石を治めることになりました。その後慶長8年井伊直継のときに、彦根城の築城計画が始まり、彦根山を中心とした新しい城下町建設が着手されました。この工事は、当時松原内湖へ注いでいた芹川の流れを猿尾付近から琵琶湖へ直進させ、沼地や渕を埋め立て、三重の堀を切る大規模な土木工事でした。当時の芹川の河道は、大きく屈曲していて沼や渕が多いため、大雨のときなどは水害を引き起こしやすかったのでしょうか。城下町建設にあたっては天守や城郭の建設とともに重要な工事であったと想像されます。これらの工事には、幕府の命により藩内のみならず伊賀・伊勢・尾張・美濃・飛騨・若狭・越前の7国12大名が動員され、幕府からも3人の奉行が派遣されました。こうして切り開かれた芹川の新河道は、治水のための堅固な堤防を備えるとともに城下町南部を外敵から守る防衛線の役割をも担っていたのです。その後、芹川は寛永11年(1634)9月から約2ヶ月かけて、南側へ8間半(約15km)拡幅工事を行っています。 |
![]() 朝鮮人道見取絵図(東京国立博物館所蔵) (写真をクリックすると拡大表示されます) |
| 芹川の観察ガイド |